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最後のスイッチ

 寝ている虎彦を起こさないよう、そっとブーツを履く。鉄製のドアの内側に、朝刊が差し込まれていた。新聞が包まれているビニール袋は濡れていた。知らぬ間に雨が降ったようだ。

 ドアを開けると、冷たい風が頬に、ワンピースからのぞく足に、指先に、容赦なく冷気を浴びせてくる。ドアノブに手をかけて、ちらりと部屋を振り返る。虎彦はこたつから二の腕をだらりと出して、軽くいびきをかいて寝ていた。

 ありがとう。そっとささやいて、アパートを出た。

 

 携帯電話を見る。七時二十分。街はまだ眠りから覚めてないかのように、シンとしている。淡い灰色のベールをかぶせたように、通りの店の看板も、家の屋根も暗い。自動販売機と駐輪所にともっている灯りだけが、人工的な光を放っている。

 空を仰ぎ見る。冷たくて清潔な水を混ぜたように淡い水色の空。ところどころ灰色の影をまとっている雲をふちどるように、薄桃色の光が差し込んでいる。昼間はのっぺりとした水色で、無機質と思えるくらいなのに、今は淡い色彩が混ざり合って透明な音楽が奏でられているかのように美しい。夜に降った雨が空気をろ過したように、冷たいけれど澄んだ空気だった。

 まだ会社があるサラリーマンや、部活に行くらしいジャージ姿の中学生が自転車に跨り風のように通り過ぎていく。

 駐輪場の隣に特設テントができていて、しめ縄飾りを売っていた。たて看板も出ている。筆で「初詣 瀬崎神社はこちら」と矢印つきで書かれている。

 あぁ今日は大晦日なんだと思い出す。首を回すと、ゴリゴリと大きな音がした。なぜか左足の脛が痛い。へんな体勢で眠ってしまったせいで、体が固まっている。お酒をたっぷり飲んで、そのまま倒れこんで。はじめてニックと会ったときのようだ。

 ふっと口元がゆるみ、次の瞬間ずくんと心が沈みこんでいった。そのまま体の奥に埋もれてしまったかのように重苦しい。

 一歩一歩あるくごとに、不安が広がっていく。ニックは今もあの部屋にいるのだろうか。もう春子に愛想を尽かして、いないかもしれない。

 それならそのほうがよかった。いっそのこと、なにもなかったことにしたい。ニックに出会う前の自分にもどりたい。そして虎彦と一緒に暮らすのだ。苦しみのない気楽な毎日。なんて理想的なんだろう。

 マンションが見えてきた。春子は足を止めた。目を見開く。どくん、という大きな心臓の音が体全部を支配する。

 マンションのエントランス前、こちらをしっかりと見つめている黒い瞳と目が合った。

 いやだ、行きたくない。

 そう思っているのに、なにかに引っ張られるように足が勝手に歩いていた。凍てつく空気のなかを、泳ぐように進んでいく。二人の距離がどんどん近づいてく。大きく高鳴る心臓の音だけが聞こえていた。お互いに目をそらさない。

 やがて、エントランス前に、ニックの前に来た。

「ニック――」

 いたんだね、と笑ってごまかすことも、心配した? と尋ねることもできなかった。言葉の代わりに白い息が震えながら消えた。

 ニックが突然動いた。大また二歩で近寄る。春子の視界いっぱいに細い体が近づいたと思うと、両腕を広げた。

 え、と思う間もなく、春子はニックの両腕の中で水平に寝かされていた。 ニックの片腕が両膝の裏にあり、もう片方の腕はしっかりと肩を後ろから抱いている。

「ちょっと、なにする――」

 言う間もなく。ベリッとなにかが裂ける音がした。はっと目を見開く。

 洋服を背中から突き破って、黒い羽が姿をあらわした。朝の光を遮るように、黒く大きく伸びる。ニックの顔に影を落とす。羽によって裂かれたコートやシャツの切れ端が、ゆらりと宙を漂いながら落ちていく。

 ニックは一瞬膝を曲げると、春子を抱えたまま、

 バサリ。

 大きく羽を動かし、飛び立った。


 体が風を浴びる。耳元で唸る空気の音。景色が縦に移動していく。色と色の境目がない。空の色、マンションの色、屋根の色、すべてが混ざってすごいスピードで通過していく。

 私、空を飛んでる――。

 はじめて会った夜のようだ。恐怖で声を失う。開いた口は息を吸うのも忘れて、ただポカンと開いたまま。無意識にニックの首に両手をしっかりと回していた。振り落とされたくない、という本能的な行動だった。

 ニックの腕の中から地上を見下ろす。当然ながら、自分の足元の空間がない。すっと血の気が引く。

 はるか下に、地上を歩く人が豆粒のように小さく見える。隙間なくひしめく家々の屋根。走る車がミニカーよりも小さい。環状線や電車の高架が、ふっと息を吹いただけで崩れそうに脆く見える。

 ニックは春子を抱いたまま、上に上にと飛んでいく。水を浴びたように急速に体が冷えていくけど、まるで気にならない。思考が停止している。

 やがて翼がはばたきを止め、スピードが歩くような速度に変わる。乱れた髪が静電気を起こして顔中に貼りつく。なぜか全力疾走した後のように息が切れた。体の力がぬける。落ちないように、ニックの首の後ろで交差した指に力をこめた。

 ふっと気がつく。今、この姿の自分たちをだれかに見られてないだろうか? おもわずニックを見る。

 ニック――。声をかけようとしたそのとき、ニックがマンションのベランダにひらりと着地した。十二階の、春子の部屋だった。

 ベランダから部屋に入り、リビングに降ろされたときはおもわず膝の力がぬけた。よろめいてそのままどさりとカーペットに倒れこむ。心臓が岸に上げられた魚のようにビクリビクリと跳ねている。震えが止まらない。怒ったり喚いたりする気力も今はない。春子はそのまま目を閉じた。

 グイッ。

 右腕を強くつかまれた。強い力におどろく間もなく、そのまま上半身を起こされる。目が合う。その目を見た瞬間、戦慄が走った。

 あの目だった。

 クリスマスの日、拓哉を吹き飛ばした昏い眼。

 ドクンドクンドクン。心臓が一層速く鼓動を打ちつける。

 怒っている。すごく怒っている。

 どうすればいい? 頭に白い靄が覆っているように、考えがまとまらない。

 相変わらずの強い力で、ニックは春子の右腕を握っていた。この前春子と「手をつなぎたい」と言ったときの、あの無邪気なニックはどこにもいない。

「ニ――――」

「今までどこにいたんですか」

 思いのほか強い口調だった。低い声が、畳みかけるように、

「虎彦さんと一緒だったんですか」

 ……どうして詰問されなくちゃいけないわけ? 

 その瞬間、恐怖よりも怒りが勝った。

「そうよ、トラと一緒だったわよ。それがなに?」

 ニックより大きな声は震えていた。気丈に見せたくて、腕をつかんでいる振りほどいた。静電気と強風にさらされたせいで髪がぐしゃぐしゃに乱れ、口の端に入っている。酒でむくんだ顔は、化粧が剥げ落ちてきっとひどい顔をしている。けれどそんなことどうでもよかった。

「追いかけても来なかったくせに、干渉しないでちょうだい。迷惑よ」

 氷のように冷たくなっていたニックの瞳がふっとゆるむ。そして苦しげな表情になった。ニックは春子のそばに膝をつく。

「あなたはなにもわかってないんだ」

 赤い唇が放った言葉が、春子の胸を刺した。じわり、と痛みがひろがる。

 ――あいつといても、幸せになんねぇ気がするよ

 そうね、トラ。私ニックといても幸せなんかじゃない。

「ニック、お願い。出て行ってちょうだい」

 痛いばっかりだわ。


 張りつめた沈黙が室内を満たす。とうとう本当に冷蔵庫になってしまったつめたい部屋。見つめ合う二人の間に、ピンと張った固い糸が張り巡らされている。どちらもその糸に傷つけられるのを畏れるように、動こうとしない。

 春子はニックの顔を見たくなくて、視線を下にずらした。靴を脱いで素足になったニックの足先が見えた。カーペットを汚さないように、ベランダに脱ぎ捨てたのだろう。どこまでも律儀な態度が彼の余裕を表してるようで、そんなことにも腹が立つ。

「虎彦さんが話してくれました」

 言葉につられるように顔を上げる。ニックはこっちをじっと見ていた。感情を読み取れない、淡々とした顔。

「あなたと、お母さんのこと聞きました」

 ギクリとして、身をこわばらせる。喉が急にかわいた。

「あなたが、お母さんに置き去りにされたこと」

 春子は冷たくなった両手で耳を塞いだ。

「やめて!」

 ギュッと目を閉じる。

 やめて、お願い。

 思い出させないで。




 バリン、バリン、バリン。

 なにかが立て続けに割れる音で、春子は目が覚めた。このところずっと眠りが浅いから、すぐに目覚めてしまう。春子はベッドから飛び下りて、リビングに駆けていった。心臓がどきどきしている。泥棒ではない、おばけでもない。春子にはもうわかっていた。

「……お母さん」

 夜中だというのに煌々と光るダイニングテーブルの灯りの下で、母親がティーカップやお皿を次々に床に打ち付けていた。ぎくりとして一瞬体が固まる。

 粉々に散ったティーカップは、かつて両親が休みの日になるとおやつの時間に使用していたものだった。目に映るものを手当たりしだい投げているようで、リビングの床のあちこちにひっかいたような傷跡がついていた。破片を踏まないように注意しながら、母親のもとに走り寄る。

「お母さん、ケガしちゃうよ」

 後ろから羽交い絞めのようにして抱きつく。母親の固い体からは、いつもしていたシャンプーのいい匂いがしない。どれくらい風呂に入ってないのか、もうわからない。よく吐くせいで、いつも饐えたような臭いが漂っている。

 母親は春子の腕を振り払うと、よろよろと立ち上がって、自室に引き上げていった。いくつかカップや皿の破片を踏んでいるが、気づかないようだ。自室でまたインターネットをするつもりだろう。春子は足元の白く刻まれたカップを、ほうきとチリトリで片付けた。かわいた白いカップの破片たちは、火葬場で見た骨を思い出させた。

 涙は出てこない。きっと、母親があの日からずっと、春子のぶんまで泣き続けているせいだろう。そう思う端から、自室で獣のような野太い泣き声が聞こえてきた。壁をガンガン叩く音。いっそのことパソコンを叩けばいいのに。そうすれば、壊れて二度と使えなくなる。

 今まで使わなかった父のパソコンを、母は持ち主の代わりに使い続けている。「ネット中毒(ジャンキー)」という言葉をテレビで見た。母のことだな、とわかった。

 集めた破片をゴミ箱に捨てて、ベッドにもどる。明日は燃えないゴミの日。ちょうどいいから捨てていこう、そう思いながら目を閉じた。来るはずもない眠りを、それでもそこしか逃げ場がないことを知っているから、必死で手繰り寄せる。隣の部屋では母親の叫び声が止まない。犬の遠吠えのような声。ゴミを捨てるとき、近所のだれとも会わないといい。

「かわいそうにねぇ」と言いながらこっちを見る、奇妙にゆがんだ隣人たちの笑み。春子は布団を頭まですっぽりと引き上げた。

 母が家を出たのはその一年後だった。ネットの「遺族について語り合う」というSNSで出会った人と駆け落ちしたというウワサを聞くのはもっと後のこと。

 春子からいろんなものを奪っていくあの恐ろしいものの正体が、愛というのだと知った。

 

 記憶が重く暗い波になって、春子を襲う。知らずうずくまり、両腕で自分を抱きしめていた。呼吸が浅くなる。幾人かの顔が脳裏をよぎる。駆けつけてきた人、近所の人、同級生たち、学校の先生。虎彦のおばさんが泣いて春子を抱きしめたこと。

 やめて。もう出てこないで。

 ここで一人暮らしを始めて、ようやく人生を軌道修正できたと思っていたのに。

 ニックが近づき、片膝をついて春子の顔を覗きこむ。黒い翼が春子を包むようにそっと開く。

「出て行って。そう言ってるでしょう」

 傷ついた分だけ傷つけてやりたい。春子は顔を上げず、きつい口調で言った。

 知られてしまった。だれにも言わずに箱に閉じ込めておくと決めたあの日々のこと。

「僕を見てください」

 優しい口調が余計に怒りを煽る。過去を無理やり暴いたくせに。卑怯な男。そう言おうとして顔を上げる。

 黒い目が春子を見つめている。息がつまる。怒りも痛みも、すべて吸い取られる。これ以上、覗き込まれたくない。知られたくない。

 そして知りたくない。自分の中にある想いを。さっと横を向こうとする春子の顎を、ニックがしっかりとおさえつけた。ぴたりと視線を合わせる。くらりとめまいがして、揺れる鼓動を見たような気がした。


「僕、怒ってるんです」

「な、なんであなたが――」

 予想しなかった発言に、言葉がもたつく。

「あなたのことを、僕よりも虎彦さんのほうがよく知っていました」

「あ、当たり前でしょう。トラは従兄弟なんだから。あなたはまだ知り合って――」

「嫌なんだ」

 黒い目が、すっと光を消していく。温度のない黒い穴。

 ぞくり。金縛りにあったように、あるいは魅入られたように身動きができなくなった。体温が急速に奪われていく。それなのに、体の奥で心臓は燃えるように熱くなっている。

「あなたが僕以外の男の人と、一緒にいるのは嫌だ」

 静かな声。しかし底知れぬ恐怖があった。顎にかけられた指は氷のようにつめたい。たいした力もないのに、振りほどけない。

 聞くな、聞くな。警告が頭の中で激しく響いている。最後のスイッチを押してはいけない。

 一人でいたくない。だけどだれも愛したくない。

 母親のように壊れていくくらいなら。

 ――それなのに。


「どうして?」

 震える声で、春子は尋ねた。体を支えるように脇に降ろした両手の拳が震えている。

「どうして嫌なの」

 ニックは一瞬、泣きそうに顔をゆがめた。赤い口が熱い息をもらす。

「――わからないよ」

 その言葉が言い終わらないうちに。

 赤い唇が春子の唇をとらえた。


 ニックのもう片方の手が春子の頭の後ろを抱く。引き寄せ、むしゃぶりつくように、ニックは唇を合わせた。目を閉じても鮮明に眼裏に浮かんでくる、真っ赤な舌が春子の舌に絡みつく。

 抵抗しなかった。むしろ、ようやく求めていたものが手に入ったような、恍惚とした感情に包まれていた。ニックの背中に手をまわす。ぴったりと背中に沿う翼の根元を、ひっかくようにいったりきたりさせる。荒くて熱い吐息がお互い唇から漏れ、わずかな隙間を行き交う。

 キスがこんなに甘いものなんて、知らなかった。

 一瞬だけ離れては、もう一度求め合うようにつく二人の唇。春子はニックの髪に手を差し入れた。唇を合わせながら目を開け、指から滑って落ちていく髪の毛を見る。髪の毛から手を離し、黒い翼を下から上へなでる。そのしぐさがニックに火をつけたのか、くちづけが一層深くなる。

 ほしい、とおもった。この男がほしい。

 好きとか嫌いとか愛してるとか、そんなことよりもっと明快だ。この男を抱きたいと春子の中の女が言っている。

 キスをしながらニックの手を引き、自分の胸のふくらみに押し当てる。ニックはわずかに身を固くして、その後ゆっくりと春子をカーペットに押し倒した。


 ニックの背中に黒い羽が広がる。光を遮断する黒い羽。この部屋だけ朝が終わった。永遠の夜。ニックが手を伸ばして春子の髪をゆっくりとなでる。目が合う。

 あぁ、世界で一番うつくしいものは、この瞳だ。他の誰が忌んでも疎んでも、私だけは知っている。この瞳の美しさを。

 赤い舌が春子の体をなぞる。身をよじりながら、春子はニックにつぶやいた。

 私を塗りつぶしてね。

 ニックは春子を見下ろして、吐息の中で言葉を吐いた。

「あなたは……僕のものだ」

 赤い蛇のような傷が数多ある男の体をじっと見つめる。

 悪魔と交わったら地獄に行くのかしら? 一瞬だけ春子の頭に疑問がよぎった。ニックの頬に手をあて、近づく唇を唇で塞ぐ。

 地獄でもどこへでも行くわ。もう離れられない。


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