トラとハル
あけましておめでとう。今年もよろしく。
話があるから今日2時に渋谷のハチ公に来て。
今年も残すところあと二日となった十二月三十日。
学校はもちろん、会社勤めの人々も休みになり、さまざまな年代の人が通りを歩いていく。この間から帰省ラッシュが始まったとニュースで言っていたように、キャリーバッグを持って歩く人が多い。夫がベビーカーとショルダーバッグを提げ、妻が赤ん坊を抱き、その後ろから幼稚園くらいの子どもが人形を握りしめて着いていく。
ちょっとしたパレードのようだ、と春子はおもった。クリスマスを終えた街はツリーを撤収させ、代わって門松やしめ飾りがビルや店の前に並んでいる。
華美な飾りが無くなったのに、依然として街は賑やかだった。新年を目前に控え、透明な鈴がシャラシャラと鳴るように空気がはじけて見える。
春子は携帯を開いて彼からのメールを再読した。時間は二時で合っている。携帯を閉じるとコートのポケットに入れた。相変わらず時間を守らない。ため息が白い息になって空中を漂う。
彼が現れたのは、約束の時間の十三分後だった。
「よぉっす。ことしもよろしくー」
春子の目の前まで来ると、大あくびをしながら彼――虎彦は言った。ダウンジャケットに突っこんだ両手をもぞもぞと動かすと、中から掌サイズのホッカイロを取り出した。
「つかうか?」
「トラ」
「ん?」
「まだ年明けてない」
「あ、そう」
虎彦はホッカイロの端をつまんだままプラプラとさせる。春子は黙って受け取った。虎彦が時間に遅れるのはいつものことなのに、それでも毎回時間ちょうどには待ち合わせ場所に着いている。
「ハルは、まじめだから」と、ほかの誰からも受けたことのない評価をこの男からは受けた。
虎彦はもう片方のポケットからさらにホッカイロを取り出すと、鼻先にあてながら「さっみー」とつぶやいた。
「トラを待ってる間、私はもっと寒かったけど」
無駄だと知りつつ、一応言ってみる。案の定無視され、
「めちゃくちゃ腹減ったな。コメ食いたい。ハルおごって」
「いや」
「俺のホッカイロ使ったろ」
「なら返す」
はい、とホッカイロを突っ返す。それも無視される。
「なぁ」
「なによ」
「そいつだれ?」
サルのようなグリッと丸い目が、相手をチラと見る。春子も一瞬視線を追って振り返る。また虎彦に向き直ると、
「ニックよ」
「肉? うまそうな名前だな。ようニク、メシおごって」
「ニクじゃない、ニック」
ニックは明らかにとまどったようで、ゆっくり後ずさって春子の後ろにかくれようとしている。
「今一緒に住んでるの」
虎彦は大して興味なさげに「ふーん」と言って浅く頷いた。
「それはお盛んだな」
「お盛んて……アンタね」
虎彦は万事が万事、この調子だ。どこか達観しているというか、とことんマイペースなのだ。春子は軽くため息をついて、ニックを振り返った。
「ニック、こっちは虎彦。私の従兄弟」
「イトコってなんですか?」
ニックがきょとんとした顔で春子と虎彦を交互に見る。虎彦は鼻先にホッカイロを押し付けたままニックをチラ、と一瞥した。けれどなにも言わず、ふたたびポケットをごそごそと探る。ピーナッツより少し大きな、レモン色のキャンディーのようなものを口に入れて噛んでいる。
「虎彦は、私の……」
「うちのおばさんの妹なんだよ、春子のおばさんが」
虎彦がはっきりした声で割って入った。
「とにかく、メシ行くぞ。腹へってしょうがねぇ」
言うなり、さっさと歩き出す。
「今なにか食べたじゃない」
「これはメントスだ。メシじゃねぇ」
こちらを振り返ることはしない。相変わらずだ。ニックを振り返る。
「ごめんね、マイペースな奴で」
あ、はいとニックはとまどった顔のまま頷いた。二人で虎彦を追うように並んで歩き出す。歩きながら、横目でそっとニックを観察する。
今日のニックはキャラメル色のダウンジャケットに白いシャツ、インディゴブルーの細身のジーンズを履いている。足元にはクリスマスに買った革靴が光っている。
イマドキの若者の格好が板についてきたなとおもう。おもわず背中を見る。黒い翼はずっと「収納」されたまま。だんだん、あれは夢だったんじゃないかと思ってくる。
ニックは普通の男の子で、二人は友だちの紹介なんかで出会って、一緒に住んでいる。そんな空想を描いてみる。どこからどう見ても、ごく普通のカップル。
ふっとため息をつく。
なに考えてるんだろう。ありもしない想像をはたらかせたところで、なにも残りはしないのに。滑稽だ。
ぼんやりと考えながら歩いていたせいで、大柄のサラリーマンにおもいきりぶつかってしまった。反射でよろけた春子の腕を、ニックが自分の胸に引き寄せる。
「大丈夫ですか?」
顔をのぞきこまれたとき、伏目がちな瞳の、睫毛の長さに見入る。男なのに、一本一本が長くまっすぐとしている。腕をつかんでいる手の爪は指先ギリギリで切りそろえてある。春子が一本一本切ってやった。爪を切りながら、細くてきれいな指をしているな、と気づいた。
一見恐い顔に見えるけれど、よく見れば美しいものを抱えている。黒くて細い髪には艶があるし、首の線もきれいだ。
近頃そんなことばかり目につく。
春子が長く見すぎたせいだろう。ニックは困ったようにスッと目をそらし、手をほどいた。春子もニックとは反対の方を見て歩く。そっと唇をかんだ。
あの日以来、二人の関係は少しぎこちなくなった。当然のようにできていたことができなくなる。向かい合って食事をしていても、なにを話したらいいのかわからない。たくさん話すと、修正できない方向に流れていってしまいそうで恐い。だから黙る。
ニックもなぜかそうだった。時折、まったく別のことを考えているような遠い目をしていることがある。そんなとき、春子はニックの耳元で大声を出したくなる。だけどできない。なにかが始まる合図を、自分にも相手にも与えたくなかった。
二人でいても息苦しいと感じていた。
師走の街に冷たい風が吹く。氷を薄く引き伸ばしてそのまま空気に変えてしまったような、ひりひりと肌に染みる風。風は春子の黒髪を乱した。すれちがう人々も寒そうに首をすぼませ、両手をポケットに入れて歩いている。
数歩前を歩く虎彦の背中を目で追う。ほんの少し猫背の小さな背中は、相変わらずなんの気負いもない。のらりくらりと人の間を縫って歩く。通り沿いのファーストフード店に、春子たちを確認することもなくすっと入っていく。その後ろ姿に苦笑する。コメ食べたいって言ってなかった? ほんと適当なんだから。
虎彦はきっと、五十年後も虎彦のままだ。そうおもうと苦笑はそのまま笑みになる。
そんな春子を、ニックはじっと見つめていた。
昼過ぎの中途半端な時間のせいか、店内は意外なほど空いていた。客は春子たちのほか数名しかいない。
大掃除中の家にいることを妻に厭われたのか、一人で座っている父親世代の人間が多かった。週刊誌や新聞を読んで、のんびりと時間をつぶしている。ほかにはたぶん受験生だろう、教科書やノートを机いっぱいに広げて角に座っている高校生の男の子の二人組。その反対の角で中学生くらいの男女が数名、うれしそうに大きな声で笑っている。レジの向こう側で店員がトレーを出し入れする音や、ハンバーガーが焼けたことを知らせるビーというランプの音、「ありがとうございまーす」という声が響き渡っている。
「話ってなに?」
この店にココアはない。ティーパックのホットティーを飲みながら、春子は尋ねた。
虎彦はずぞぞ、と空のコップを吸い上げると、プラスチックのフタを開けて角砂糖のような氷を頬張った。この男はどんなに寒い日でもこれを必ずやる。シャリシャリと小気味いい音がする。
「俺のおばさんが言うには」
チラッと春子の隣に座るニックに目をやる。ニックの表情がとまどいながら硬くなる。虎彦はすっと視線を春子に戻して、
「翔子さんを見たらしいぞ。この間」
パキン。氷のように冷たいなにかが、自分に突き刺さったのをはっきりと感じた。すっと体が冷えていく。
虎彦は紙コップをつかんで再び氷をざぁっと頬張る。シャリ、シャリ。
「春子さん、どうしたんです」
ニックが緊張を帯びた声で顔を覗きこむ。それさえ、水の中で聞いているように遠い。
視線がふっと下に落ちる。ホットティーのフタやハンバーガーの包み紙の下に敷かれたプラスチックのトレーに、店の広告が載っている。店員のさっぱりとした清潔な笑顔。白い歯がきれいに並んでいる。
――はるちゃん。
ガタンッ。
無意識のうちに立ち上がっていた。椅子が大きな音をたてて後ろに倒れる。だらだらと食べたり飲んだりしていた人たちが一斉に振り向く。けれどそんなこと気にならない。
鼓動が速まる。自分の反応がくやしい。両手にグッと力をこめる。爪が掌に突き刺さる。痛い。痛くていい。そうでもしないと、体中の震えから逃れることができない。
「春子さん」
大きな声に呼び戻される。知らず瞑っていた目を開けると、ニックが怒った顔をしてこちらを見ていた。片手で春子の肩を支えるようにして抱き、もう片方の手で硬く握った掌を開かせる。
爪の形が四本、赤く付いている掌を見ると眉間にしわを寄せた。なにか言いたげに開いたニックの口は、そのままゆっくりと閉じられた。
はじめて会ったときのようだな、とぼんやりおもう。あのときも春子は爪のあとが残るくらい強く掌を握りしめていた。それを見て、自分のほうが痛いような顔をしたのだ、この男は。
ニックのほうがもっとおびただしい数の傷跡を、体中に抱えているっていうのに。
ニックがこちらをまっすぐに見つめている。薄い桃色のレンズ越しに、黒く光る眼。逃げることを許さない視線は、クリスマスの日自分を追いかけてきたあの目だった。
ふいに、掌を握られたままなことを意識する。おもわず視線をそちらにやる。ニックも気がついたのか、手の力をゆるめるとそのまますっと離した。 前のめりになっていた体を引くと、春子ではなく虎彦を向いて尋ねた。
「ショウコさんて、だれですか」
虎彦がなにか答えるより早く、
「言わないで」
大きな声で制する。虎彦が肘をついたままチラとこちらを向く。日向にいる猫が人間を見るときのような、感情のない表情。黙ったまま春子を見ると、
「りょーかい」
小さく呟いた。ふわぁとあくびをして、
「終わったら起こして」
言うなり、肘を突いていた腕を枕代わりに突っ伏してしまった。ハンバーガーの包み紙やジュースのフタが入ったトレーがテーブルからはみ出して春子のほうへ寄ってくる。
客が途切れたのか、店員同士の話し声が少し大きくなる。ステンレス製の物同士がガシャガシャと擦れあう音に楽しげな笑い声が重なった。
春子は両腕を組んで窓の外を見た。逃げるなと目で言っておいて、ニック自身は距離をとろうとしている。腹が立った。
今日だって、ニックは置いてきたってよかった。いや、そうするべきだったのだ。
一人は嫌だと思っていたのに、二人でいるほうが苦しいなんて。
唇を強く噛む。痛い。唇より、心がずっと。焦がされてるように痛い。
唇をそっと開けて、深く息を吐く。
でも、それとはべつに気になることがある。
突っ伏している虎彦の頭を軽くはたく。
「いた」
「あたりかまわず寝ないでよ。それで、おばさんはなんて?」
虎彦が突っ伏したまま春子を見上げる。ゆっくりと言う。
「聞きたい?」
黙ってうなずく。知らず、着ているカーディガンの前あわせを握りしめていた。
虎彦は春子の目を見たまま、
「……四人だったってよ。お父さん、お母さんと小さな女の子と、お母さんのベビーカーに乗った赤ん坊。絵に描いたような」
その先は言わなかった。言わなくてもわかった。
絵に描いたような、家族。
笑おうとして、口元がぐにゃりとゆがんだ。笑い声とも泣き声とも取れる声が、自分の唇から漏れる。
「けっこーがんばるよな、おばさんも。あの歳で」
起き上がってふたたび肘をついた手に顎をのせ、虎彦は言った。その言葉に笑えそうで、やっぱりうまくいかない。広告の店員たちはどうやってあんなに上手に笑ったんだろう?
ちがう、私だってうまく笑っていた。笑顔で心に蓋を――。
視線をゆっくりニックに向ける。
ニック。
心配そうに、なにかをこらえるような顔でこっちを見ている。
ずきん。心がやぶれそうに痛かった。すべて曝され、引き込まれる黒い瞳。
「見ないで」
守れなくなる。蓋を閉めることができなくなる。強い自分でいられなくなる。そんなの耐えられない。
気がついたとき、春子は駆け出していた。ガラス戸を引き、店内へ出る。 びゅう、と耳元で唸る冷たい風。見えない氷の波が次々押し寄せるような寒さも、今だけは気にならなかった。
耳元で風がうなる。びゅうびゅう。店の前に並んだ自転車が折り重なって倒れている。一瞥すると、急ぎ足で脇を通り過ぎる。空を仰いだ。人工的とも思えるくらい混じりけなしの水色。
――四人だったってよ。お父さん、お母さんと小さな女の子と、お母さんのベビーカーに乗った赤ん坊。絵に描いたような。
唸る風よりもはっきりと、こだまする声。
目を閉じる。あの人が今日も生きて、自分の知らない誰かと日々を営んでいることがふしぎだった。
私がもがいている間も、人生を着々と進んでいたのだ、彼女は。
春子は今度こそ嗤った。自分を嗤った。
春子が飛び出していった扉の向こうから、冷たい風が一陣吹いた。ニックは周りから向けられた視線を気にも留めず立ち上がり、彼女を追いかけようとした。
「よせよ」
虎彦がストローの紙袋を小さく折りながら言った。感情の起伏のない、平坦な口調で
「追いかけたってさ、あんたになにかできんの」
ニックは立ち上がったまま俯いた。俯いたまま、そっと尋ねる。
「ショウコサンとは、だれですか」
虎彦は紙コップに手をのばす。シャリシャリシャリ。涼やかな音で氷を食む。虎彦が折りたたんだストローの袋が、小さいオブジェのようにテーブルに乗っている。
「言っちゃダメって言われたからなぁ」
「知りたいんです、どうしても」
虎彦はニックの顔をじっと見た。出会ってからはじめて、まともに目が合ったとニックは思った。
「なんで?」
「え」
「なんで知りたいの?」
まっすぐに、切り込んでくる言葉。地獄の者たちは皆一様に威圧的な物言いだったけれど、虎彦のように心の中央に向かってくるような話し方はしていなかった。
ニックはどう受け止めていいかわからず、ふたたび視線をそらす。目線は自然と春子が消えた扉の向こうにもどる。
彼女の放った哀しい匂いが、出て行った後も目印のように漂っている。おもわず胸に手をやる。
「わからない」
思いをそのまま言葉にした。
「わからないです」
時折、感情がぐらりとゆれる。別の男と住む、と言われたとき。はっきりと「嫌だ」と思った。今のように、いや、それよりもっと胸が痛んだ。
春子のことをもっと知れば、たとえばなぜ彼女がいつも哀しい匂いを放っているのか、その理由を知れば、この痛みも薄れるのだろうか。
虎彦は目を少し細め、ニックを見つめていた。やがて片肘を突いた手に頬を乗せると、
「とりあえず座れば」
と顎をしゃくった。その言葉を受け、おずおずとニックは腰かける。
「翔子さんはさぁ、あいつのお母さんなんだよ」
春子が以前言っていた言葉を思い出す。
あなたはいないの? 産んでくれた人。オトウサンとオカアサン。
虎彦はどこか遠くを見るような目で言った。
「フツーの家族だったよ。日曜は遊園地や動物園行って、年賀状は家族三人並んだ写真が送られてきて。俺、叔母さんて呼ぶと怒られたな。翔子さんでしょって」
また新しい客が室内に入ってきた。五、六人で来た男女がなにやら大声で騒ぎながら注文している。外の匂いと室内の食べ物の匂いが溶けて混ざり合う。
「あいつが小学生のとき、親父さんが死んで」
オトウサンのことだ、とわかった。はじめて会った夜の春子の泣き顔が胸をよぎった。
「翔子さんさ、親父さんのことすっげぇ好きだったんだよ。ほんと、ガキの俺から見ても笑っちゃうくらい。うちの家族もまぁ仲良いほうだと思うけど、なんつーの、タイプがちがうんだよな。うちが大福もちだったら、翔子さんとこはアイスクリームに生クリームとチョコレートホイップ大盛りってカンジ。わかる?」
全然分らない。アイスクリームってなんだろう。
「まぁ、それくらい、とにかくあまーいかんじだったんだよ」
そこで虎彦はなぜか、テーブルに置いたままのストローの袋のオブジェを指ではじいた。オブジェがテーブルからポン、と弾けるように落ちていく。
「でも壊れちまった。親父さんが死んで、翔子さんは壊れちまったんだ」
ニックは眉間にシワを寄せた。壊れた。どういうことだろう。来たばかりの客が、なにか大声で言って笑っている。
虎彦はふっと言葉を途切らせて、背もたれによりかかった。視線を少し下に向け、なにかを探すような眼差しをしている。春子といたときは見せなかった、真剣で鋭利な顔つきだった。
置き去りにしたんだ。
虎彦の半分だけ開いた唇から、ポツリと言葉が零れ落ちてくる。ニックは耳をすました。
「まだ小学生だったハルをマンションに残して、翔子さんはどっか行っちまった。うちのオバサンがさ、何回電話しても誰も出ないっていうんで、押しかけるまで、あいつ一人で、たった一人で暮らしてたんだよ。まだ小学生だぜ」
ニックは大きく目を見開いた。春子の言葉がよみがえる。
あなたには、いないの? 家族。おとうさんや、おかあさん。
あの言葉を、どんな気もちで言ったんだろう。
痛みを和らげるように胸に手をあてる。そして気づいた。
自分たちはとてもよく似ている。
ふっと顔を上げると、虎彦がこちらを見ていた。鋭い眼差しのまま。
「おまえ、あいつ好きか?」
眼差しにそのまま刺されでもしたかのように、ビクリと身を揺らした。視線を受け止められず、ふっとそらす。
「好きって、なんですか?」
「え?」
「僕……わからないんです。好きという感情が、僕のいた世界にはなかった。だから、好きがなにか、よくわからない」
光のない黒い目で淡々と語るニックを、虎彦はじっと見て、ふーん、と口を開けずに言う。
「ずいぶんシケたとこにいたんだな」
「…………」
体の中で、畳んだ翼がもぞりと動く。ニックはなんと言っていいかわからず、黙ったままだった。
「俺はハルが好きだよ」
さらりと虎彦は言った。おもわず見上げると、虎彦の眼差しにもう鋭さはなかった。それなのに――胸をつかむようにシャツに手をあてる。
春子に買い与えられた真新しい服がぐしゃりとゆがむ。自分の中にあるなにかまで、ゆがんだ気がした。息苦しい。
嫌だ。
明確に、おもいが言葉に変わる。地獄にいた頃はなかったこと。心の中に漂う色々な思いに記号をつけるように言葉に変換する。そんなこと、向こうではしなかった。する必要もなかった。
気がつけば両手は固く拳を握りしめていた。虎彦はニックの言葉を待つように、こちらをじっと見ている。
「僕――――」
言いかけて、言葉が途中で止まる。ふっと脳裏に浮かぶ光景。
《あいつ》がニックを見て嗤う。口元が言葉を紡ぐために動く。
記憶が楔となってニックに巻きつく。ニックの唇はふたたび閉ざされる。 黒い目はすでに虎彦を通過して、彼方にあった。
携帯に着信が二回。いずれも虎彦だった。同じ名前が重なっている着信履歴をぼんやりと眺めているうち、三回目の着信で携帯が揺れた。ふうっと息を吐き、通話ボタンを押す。
「はい」
「ハル、今どこだよ」
虎彦の声が右耳から流れる。
「地獄」
「は?」
「地獄にきてるの」
春子は言ってクスリと笑った。
「ね、お父さんは地獄にいないらしいわよ、知ってた?」
「ハル」
「地獄に行けばいいのにね」
目の前の鉄製の扉を人差し指でなぞる。うすく積もっていたホコリが、指でなぞったところだけ剥がれて跡が付いた。
「あの人、地獄に落ちればいいんだわ」
ガチャリ。
鉄の扉がギシギシと音を立てながら開いた。顔を上げる。
首をゴリゴリと回しながら、携帯を持ってないほうの手で虎彦がドアノブに手をかけていた。
「あやしー人がドアの前でブツブツ言ってますって、ご近所に通報されるぞ」
「トラ」
「なんだよ」
「ドア汚いわよ。大掃除したら?」
ホコリのついたひとさし指を見せる。虎彦は片手で春子の手首をつかむと、ひとさし指をじっと見た。
「まだセーフだ」
パッと手をはなすと、きびすを返す。すでに着替えていて、グレーのスウェット素材のトレーナーにジャージ姿だった。春子も黙って後についていく。
玄関に脱ぎ散らかされたスニーカーと健康サンダル。靴箱の上にはペットボトルのオマケについていたフィギュアが無造作に並べられている。いくつか倒れたままになってあるそれを、春子はそっと起き上がらせた。鉄製のドアの内側には牛乳パックを切って作った四角い箱がマグネットで付いていて、そこにバイクの鍵が入っているのを知っている。ここにはもう何度も来ていた。
鼻をひくつかせ、虎彦の家のにおいを嗅ぐ。湿っぽく、虎彦の洋服の匂いをもっと強くした独特のにおいがする。フローラルでさわやかな香りとはいかなくとも、嫌な匂いじゃない。
昔からこんな匂いがしたっけ? 近くにいたつもりでもわからないことがある。
虎彦の部屋は台所とトイレ、ユニットバス以外はひと部屋のみになってる。自室兼リビングに行きベッドの前に置かれた小さなコタツにもぐりこむと、すっかりかじかんでいた足先がじんとあたたまる。
虎彦は冷蔵庫から缶ビールを二缶出すと、ひとつを春子に渡してきた。春子は受け取りながら壁にかかった時計を見る。五時にもなってない。
「まだ早いんじゃない?」
「人がくれる酒はいつ何時でも飲む。基本だぞ」
おもわず笑う。
「なんの基本よ」
プルトップを引くと、プシュッと泡のたつ音がする。ごくごくと音をたてて飲むと、枯れた心が少し潤っていくような気がする。
ふと思い出した。ニックとはじめて会った夜も、こんなふうにお酒を飲んだことを。
「悪かったな」
「え?」
「こう、オブラートに包む言い方がさ、できねんだよ俺は」
「……ああ」
そうだ、あの人の話を聞いて。それでショックだったはずなのに。
なのにどうして今、別のことを考えていたんだろう。
――はるちゃん。
「自分でも、よく覚えてるなっておもうのよ。あの人のこと」
笑顔のかわいい人だった。少女がそのまま大人になったような無邪気な人。かわいいものが好きだった。
――はるちゃん、見て。きれいでしょ?
十二月。小学校の終業式が終わって家に帰ると、毎年豪華なクリスマスツリーが飾られていた。春子の背丈よりもずっと大きなツリー。モミの木に垂らされたきらきら輝くピンクや銀のモール、サンタやジンジャーマンや天使の飾り、そして王冠のようにてっぺんについた金色の星。
メリー・クリスマス、はるちゃん。
そう言って、うれしそうに笑っていた。
だけど、春子はクリスマスが好きじゃなかった。正確に言うと、あの人が飾るクリスマスツリーが好きじゃなかった。
春子のクラスメイトの友だちはみんな、家のクリスマスツリーの飾りつけは自分がやっていると言っていた。でも春子はあの人が飾るまで絶対にさわらせてもらえない。家のリビングで電飾と一緒に光り輝くクリスマスツリーはただのツリーではなく、彼女の作品だった。
はるも、一緒に飾りつけしたい。
おもいきって言ってみたら、あの人は明るく笑って言った。
だめよ、これはママのツリーなの。うんときれいにしてあげるから、待っててね?
頭におかれたあの人の掌を、春子は無言で振り払った。
彼女にはそういうところがあった。お気に入りのものには、たとえ相手が自分の子どもであっても触れさせない。無邪気な強い独占欲。そういう部分を知ったきっかけがクリスマスツリーだった。
――おいおい。
読んでいた新聞から顔を上げて、お父さんは困ったように言った。
ハルにも手伝わせてあげたらいいじゃないか。クリスマスツリーは家族みんなのものだろう。
そう言われたときの、あの人のすねた顔。その顔を見ると、お父さんは曲げていた口元を優しくゆるませた。そしてなにかを言った。なにを言ったかは覚えてない。聞いていなかったのかもしれない。
でもそのあと、あの人がとても幸福そうに笑ったのを、今でも覚えている。
「……顎にあるホクロとか、よく着てたカーディガンのもようとか、頭に置かれた手のさらっとした感じとか」
ビールをまた一口飲む。耳がすこし熱くなってきた。
「覚えてるのが、くやしいよね」
わずかな記憶を後生大事に持っている自分がくやしい。まだ傷つけられることを許している自分の心が悔しい。
「あいつ」
虎彦は棚からビーフジャーキーの入ったパックを出してきて、こたつに投げると
「あの横にいた、ニクってやつ」
「ニックだってば」
「おまえ、好きなの?」
また、同じことを聞かれる。俯いて、水色のこたつ布団を顎まで持ってくる。前の彼女からもらったという布団はアニメのキャラクターが散らばっていて、陽気な笑顔はファーストフード店の広告の店員を思い出させた。
「だから、そんなことないってば」
虎彦はビーフジャーキーを奥歯で噛みながら、
「ならいいけど。あいつはやめとけよ」
和美と反対のことを言う。
「……なんで?」
おもわず顔を上げる。虎彦は首をひねり、
「男の勘ってやつ?」
春子もビーフジャーキーに手を伸ばした。
「トラにそんな大層なものついてるの?」
「あ、そういうこと言う?」
奥歯で噛んだままのビーフジャーキーが、虎彦が話すたびに上下する。春子は小さく笑った。虎彦は真顔で頭をかきながら、
「わかんねぇけど、なんかヤバイ気がする。あいつといても、幸せになんねぇ気がするよ」
――幸せになってください、どうか。今度こそ。
「しあわせって、なに? たとえば子どもと旦那と一緒に、ベビーカーを引っぱって街を練り歩くこと?」
口調がとげとげしていた。そんな幸せなら、ほしくない。ぜったい願い下げだ。
「……おまえさー」
「なによ」
「そんなに一緒に住むやつほしいなら、俺と暮らすか?」
両手で握るビールの缶がベキッと音をたてた。
「え?」
虎彦は電源のついてないテレビに視線を移して、首の後ろをごしごしとかいた。
「うちのおばさんも心配してるしよ。春子は元気なのか、ちゃんと学校行ってるのかって、ちょいちょい俺にさぐり入れてくるし」
焼きたてのアンパンのように丸くてふっくらとしている、赤ら顔の虎彦の母親を思い出す。
夫の家業である八百屋を一緒に切り盛りしている彼女は、いつも大きな声で春子の名前を呼んで近くに呼び寄せた。真っ赤な太陽のような人だ、とおもった。妹である母親とまったく似ていない伯母が、春子は好きだった。
虎彦がテレビを点けた。チャンネルをバラバラに変えていく。カラフルな画面が次々に映っては変わっていく。中途半端な時間だからか、ニュースくらいしかやってない。やがて虎彦はプツッと電源を切ると、そのまま大の字に寝そべった。片腕を目元にあてている。春子はビールをもう一口飲んだ。 胃に落ちていく冷たい金色の液体。ココアのように甘くも、あたたかくもないけど、今の自分に必要な苦さだった。
「トラ」
「なに」
「離れていかない?」
画面が黒くなったままのテレビに自分の顔が映ってる。虎彦が目元を覆っていた腕をはずしたのが気配でわかった。
「みんな、離れていくから」
一人が嫌だった。お父さんもお母さんも。
みんな離れていってしまうから。
俯くと、水色のこたつ布団に水一滴落ちていった。
涙だった。
虎彦が起き上がる。春子は肩を震わせ、顔を手で覆った。
離れていってもいいと思っていた。
次を探せばいいだけのこと、そう思っていた。それなのに。
――なんで追いかけてきてくれなかったの?
ファーストフード店を出たとき、震える足で歩きながら、背中にかかる声を期待している自分がいた。
「すみません、春子さん」
いつものようにそう言って伸びてくる腕を求めていた。クリスマスに、部屋を出ようとした春子を追いかけてきたときのように。激しい感情が渦巻きながらもそんな計算をしている自分がいることが可笑しかった。
でも、ニックは来なかった。
ここに、います。あの日、そう言ったくせに。嘘つきね。
グイッ。
片腕が肩に回される。おどろいて見上げると、虎彦が怒ったような顔をしていた。
「何年の付き合いだと思ってんだ。今更離れるかよ」
その言葉に、ふっと口元がゆるんだ。安心する。あたたかい言葉をくれる人。
親戚が集まる年末年始に顔を出さなくなった春子に、この時期になるとなにかと理由をつけては会おうとしてくれる。虎彦の優しさを知っていた。
虎彦の胸に頭をもたれる。ニックよりも厚い、がっしりとした体。ニックとはちがう洗剤の匂い。
「ハル」
春子は黙って虎彦の言葉に耳を傾けていた。問い返す自分の言葉は寝起きの子どものようにくぐもった声だった。
「あんまり捕まるなよ、過去に」
ゆっくりと顔を上げる。虎彦がじっとこちらを向いていた。それ以上言葉を継ぐこともなく、虎彦はスッと腕をはなした。立ち上がると、ふたたび冷蔵庫に向かい飲み物を物色している。春子の頭の中に、虎彦の言葉が静かに溶けていった。
虎彦は両手いっぱいに缶ビールと缶チューハイを持ってきた。一人暮らしの男の家には、なには無くとも酒はあるもんだと言う虎彦は、もういつもの虎彦だった。
二人でずいぶん缶を空けた。互いに黙々と飲んでいるときもあれば、とりとめもなく語り合うときもあった。笑い声があがるときもあれば、少し喧嘩のようになるときもあった。でも知らぬ間にもとのペースにもどっていた。
虎彦と一緒にいると楽だった。楽、という言葉に惹かれた。一緒に住むというのがこんな感じなら、悪くないかもしれない。傷つくことも、哀しむこともない。
知らぬ間に日は暮れ、気づけばアパートの窓から見える空は真っ暗だった。一階に住む虎彦の部屋からは、街の明かりは見えない。
空がいつもよりうんと遠く感じた。星の明かりの見えない夜空。まるでニックの瞳の中にいるみたいだとおもった。




