予感
結局ココアは二人分作った。ニックにマグカップを手渡しながら、
「ねぇ、哀しい匂いってなに?」
さりげない口調で尋ねる。
帰ってきたとき冷たく冷えていた室内は、徐々に暖房がきいてあたたかくなってきた。ニックはココアを受け取るとうつむいて、
「あれは、すみません。忘れてください。僕、あんなこと言わなければよかった」
「それを決めるのは私よ」
きっぱりとした口調で言った。
大丈夫、もう泣かない。私は弱くないのだから。
そもそもなんで泣いてしまったのか、今となってはよくわからない。ひどいことを言われたわけでもないのに。
ニックはのろのろとココアを飲みながら時間を稼いでいたようだったが、やがて観念したように頷いた。
「僕たち悪魔は、嗅覚が利くんです。地上の生き物がわからない匂いも、感じ取ることができます」
往来で、「すごい匂い」と恍惚の表情を浮かべていたニックを思い出す。春子は頷いて次の言葉を待った。
「この世界に来たとき」
ぽつりと、ニックは言葉を紡ぐ。静かな室内を、暖房が風を送る音だけがかすかに聞こえる。
「どこを目指していいのかわからなくて、とりあえず上に上にって飛んでいたら、自分のよく知ってる匂いがしたんです。哀しい匂い。あっちの世界でよく嗅いでいた、人間からする匂いでした」
俯きながら話していたニックが顔を上げ、春子を見つめる。
「春子さんからしたんです。だから僕は、あなたに声をかけた」
ズン、と重い鉛を飲み込んだかのように胃袋が沈んだ気がした。同時にどこかで納得もしていた。
地獄にいるような人間たちと、自分が同じ匂いをしている。おもわず薄く笑いが起こる。マグカップを握る手に力がこもった。再び和美の顔が脳裏をよぎる。
怒るのでもなく蔑むのでもなく、同情したような顔で見てきたあの目。
冗談じゃない。
ニックの手が伸びて、春子の頬に触れた。予想もしていなかった行動におどろいて身を引く。ニックは気にしたふうでもなく、春子が引いた分だけ近寄り、
「ほら、また」
問診をする医師が顔色を見るように言った。
「またその匂いをさせている。春子さん」
心臓の鼓動が速まる。ふいに逃げ出したい衝動に駆られる。
自分で聞いておきながら、早くも後悔していた。私は弱くないはずなのに。昨日からおかしい。うまくいっていた歯車が、徐々に狂いだしている気がする。
こんなの嫌だ。
「あなたになにがあったんですか」
静かで、でも逃げることを許さない口調。頬に血が上る。唇をかみしめる。冷たく乾燥した空気にさらされていた唇はかさつき荒れていた。
この男は狡い。いつも弱々しいのに、たまにこんな風になって、春子を追いつめる。
追いつめる? 私が追いつめられている?
自分の考えに愕然とした。
笑顔で心に蓋をすること。ずっとそうやって自分を守ってきたのに。それが効かないなんて。
私、とんでもない男を同居人にしてしまったの? 髪をかきむしりたくなる。けれどそんな取り乱した行動をする自分も耐えられない。
ゆっくりと息を整える。笑顔を作る。
「あなたこそ、なにがあってこの世界に来たの? 教えてよ」
その言葉に、弾かれたようにニックは身を引き、頬から手をはなした。眉が八の字に下がり、視線が落ち着かなげにうろうろと漂う。指同士を意味なくこすりあったりしている。
春子は反応に満足を覚えて、唇をゆるめた。自分ばかりあれやこれや探られる仕返しをしてやりたい。追いつめられるのなんて性に合わない。
春子はわずかに身を起こして、ニックに近づいた。あなたのこと、教えてよ。誘惑するようにささやく。
言いながら、本当に聞いてみたくなった。ニックのこと。
今まではどうでもよかった。目の前の男が、どんな気もちでこの世界に来たのか。
今は少し、興味がわいている。知りたいと思う。黒い穴の目の向こうを、のぞきこんでみたいと思っている。
そんな自分におどろきながらも、知りたいという欲求はおさえることができない。
――僕はもう、あそこにはもどりません。
意外なほど決然とした声で、ニックはそう言った。あれはどういうこと?
ニックはわずかに開いた口の中でうめき声を上げ、ぎゅっと目を閉じた。 なにかに耐えるかのように。いつの間にか両手を固く握りしめている。長い爪が皮膚に食い込んでいても、まったく気づかない様子だ。やがて唇をかたく結ぶと、頷いた。
「わかりました。お話します」
底なしに暗くて、憎悪の炎でいつも焦げるように暑い。そんな世界に、ニックはいたと言った。
たすけてくれ。
一番よく耳にしたのがこの言葉だった。地獄に来たショックで、錯乱し、怯えながら逃げる人間たち。それを捕まえるのがニックの仕事だった。
悪魔の両手は、蓮の葉のように大きい。
人間をつかみやすいように。
けれどなぜかニックの手は別だった。彼の手は人間の娘のように小さかった。だから爪を伸ばすことを強いられていた。
恐怖から暴れる人間の力は強い。ニックの華奢な手ではかんたんに振りほどかれる。自分の手から逃れていく人間を見ては、内心ホッとしていた。
たすけてくれ。哀願してくる人間の顔は、いつまでも脳裏にこびりついて離れなかった。
落ちこぼれ。地獄に生み落とされたゴミ屑。出来損ない。
ほかの悪魔は、そんなニックを見ては中傷を浴びせていた。向けられる嘲笑や冷笑。いやがらせ。暴力。生まれてから今まで、心安らげるときなど一度もなかった。うずくまり、小さくなって、謝罪の言葉をつぶやく日々。
す、すいません。
言葉は口の中でもつれ、どもりとなって出る。そしてまた笑われる。終わりのない暗闇。泣きながら逃げているのは、人間だけじゃない。とうに気づいていた。
そんな日々がくり返される内、次第に思考がそぎ落とされていく。何故自分がここにいるのか、自分はなにをしているのか、考えるのを止めていく。望むものはもっと別のなにかだったけど、この世界はあまりにも暗いから、欲しがったり夢見たりしなくなる。ただ生きているだけ。
それはきっと自分だけじゃないと、今ではおもう。あそこにいる全ての者がそうなのだ。
そうなるから「地獄」なのだ。
すべての感情は黒い瞳の下に埋もれていく。
ある日のこと。ガサリ、と大きな音がして、ふり向くと、やせ細った目の赤い人間の男が立っていた。口から伸びて落ちる粘液は、白く濁っている。 体からはここにいる人間全てに満ちている、死臭が漂っていた。
しね。
人間は言葉を弱く浮かべると、細い体からは想像もできないような素早さで襲いかかってきた。指がのどを絞めつける。強い力だった。弾みで後ろの岩に背中を打ちつける。岩と背中の間で翼が平たく潰されたのがわかった。 粘液がべたべたと体に流れ落ちる。血走った目はぎょろりと見開かれているものの、焦点は定まってない。
時々こういう人間がいる。上の世界でなにをしていたのか、血に飢えた魂。地獄でもそれは変わらない。
悪魔のような人間。
別段抵抗もしなかった。苦しいことには慣れている。体も心も。尖った岩の壁に体を押し付けられながら、傷だらけの自分の体を見下ろす余裕さえあった。嬉しそうに歪む人間の顔をぼんやりと見る。
この男も自分も、生まれる世界をまちがったのだ。
なにやってる。
声と共に、人間の体がふっ飛んだ。驚いて目を見開く。
見覚えのある顔が、こちらをじっと見ていた。ニックは痛む喉の間から、かろうじて言葉を出した。
「クイン」
ニックより大きな体躯の悪魔を見る。油断できない、冷たい目。岩に体を預けていたニックは、できる限り素早い動作で姿勢を正した。
「ニック、おまえに良い報せだぞ」
そう言って近づいてくるクインの唇が、顔をパックリ割くかのように横に広がる。一応笑う、というしぐさだ。優しげな言葉とは裏腹に、目は少しも笑っていなかった。嫌な予感がする。その手の感だけは鋭くなった。
「もう人間たちを捕らえなくてよい。違う仕事を与える」
ニックは目を見開いた。おもわず自分の手で指をこする。忌まわしい、この長い爪。クインはニックのそのしぐさを見ながら、ゆっくりと言った。
「おまえには、ケルベロスの世話係りをやってもらうことになった」
男の後ろで、倒れていた人間が毛虫のようにのろのろと動く。
ニックは動けなかった。吐く息だけが荒くなり、耳にうるさく響く。頭の中が、白い。「白」なんて色はここには存在しないのだけれど。声を出そうとしたら、しわがれた悲鳴のようなものしか出なかった。
クインが笑う。残忍な笑みが顔中に広がった。
「おまえがいなくなるとさみしいよ」
クインの言葉はすでに耳に入っていなかった。
ケルベロス。
地獄の番犬と称される彼の犬の世話係りというのは、すなわち死を意味する。いつも飢えているあの獣の「世話係り」は、いらない悪魔を処分するために使われる言葉だった。
その身をケルベロスの前に差し出す。魂ごと、身を食われて死ぬ。
おもわずギリッと歯をくいしばる。ニックの反応に、クインは満足したように一層嗤う。
歯をくいしばりながら、同時に自分の中に芽生えた感情が意外だった。死んでいるのか生きているのかわからない混沌とした世界に身を置きながら、それでもまだ死に対する恐怖があること。
視界の隅で、呻きながら両手を頭にあてる人間がなにかを叫んでいた。いつもの匂いが漂う。魂の底からこみ上げる、悲しみの匂い。
本当は生きたい。こんなところにいたくない。
途方もない、叶わぬ願いが人間にあの匂いをさせる。文字通り、魂を裂かれそうな想いが強烈に漂っている。
自分の世界は哀しみと、狂気に閉じ込められている。
首に手をあてる。絞められたあとが残っているだろう。
こんな日々をくり返した挙句が、みすみす殺されること?
それで終わりでいいのか?
――それはニックにとってはじめての、確固たる屹立した考えだった。
自分の居場所はここじゃない。
本当の自分を見つけるんだ。
背中の羽を見る。この世界と同じ、暗闇色の羽。
行こう。
まだ訪れたことのない世界に。まだ出会ったことのない、新しいなにかのところまで。
「それで、僕はここまで来たんです」
落ち着いた声でニックは締めくくった。春子の手の中で、飲みかけのココアが冷たくなっていた。小刻みに震える手で口をつける。苦い薬でも飲むかのようにむりやり飲み下した。
「さっき、人間の男の人に力を使ったとき」
変わらない声音でニックはつづける。
「本当は、思い出してたんです。威圧的に、決めつけるように言い放ってくる言葉を、僕はよく知ってます。地獄にいたとき、誰もがそんな話し方をしていたから」
すっと掌に視線を落とす。
「守るなんてカッコいいものじゃない。僕は恐かったんです。あいつが僕を捕まえに来たとおもったから。……すみません」
春子はマグカップを持ってないほうの手で、もう片方の腕をしっかり握って尋ねた。
「大丈夫なの?」
「はい……?」
「だってあなた、それじゃまるで逃亡じゃない。追いかけて、連れ戻されたりしたら」
それ以上は言えなかった。言葉が喉もとで引っかかる。さっきからずっと心臓が不吉な速度で高鳴っている。ニックは、そんな春子をふしぎなものを見るような目で見ている。
「春子さん?」
春子はなんと言っていいかわからず、じっとニックを見つめた。後から考えると、まるで懇願したような眼差しだったかもしれない。
心配、なのだ。それは他人を思いやる感情。美しく脆い感情だ。他人のために、それもよく知らない者のために向ける気もちではない。とても危険だ。
一人で生きている春子にリスクは冒せない。自分を守るのは自分しかいないのだから。
それでも春子はもう一度言っていた。
「大丈夫なの」
ニックは黙って春子を見つめていた。黒い瞳にくっきりと自分が映っている。夜の海のようだ。静かに凪いでいるけれど、途方もなく深い。飲みこまれたら、息もできない。
どのくらい見つめていたんだろう。風も通らない静かな室内を、時間だけがゆっくりと通り過ぎていく。
やがてニックは口を開いた。
「……大丈夫です。春子さんに迷惑はかけません」
そっと微笑んで、
「今まで優しくしてもらって、つい甘えてしまいましたけれど、僕はずっと一緒にはいられません」
優しい口調が、しかしはっきりと別れを告げた。
すっと全身が冷える。ニックのシャツの胸元をぼんやりと見る。さっき春子が頭をもたげて、すこしシワになっているまま。
「こんなに良くしてもらったこと、僕は生きていてはじめてでした。きっと一生忘れないと思います」
ずっと一緒にいるはずないなんて、わかっていたこと。唇をきつくかみしめる。口を開けば、自分では制御できない馬鹿なことを叫んでしまいそうな気がした。
なにかが終わるときの流れは重く激しい水の流れのようで、はじまるときのそれよりはるかに勢いが強い。自分はいつも、その流れに逆らうことはしない。そしてまた次をさがす。いつもと同じように、そうすればいいだけのこと。
ふと、服を買った店の紙袋に目をやる。中に入っているのはニックが現れたときの服。
あの服を、一体どれだけの乱暴な手がつかんだんだろう。そしてまたつかまれたら、今度はどうなってしまうんだろう。
尋ねたら本当になるような気がして、口にすることはできない。
そんなことを考えていたせいで、ニックがなにか言ったのを聞き逃した。え、と聞き返す。
「あの、お願いがあるんです。最後に……いいですか?」
俯き、春子の顔を見ずにニックは言った。ニックの「お願い」。出会ってからはじめてだった。最初で最後の「お願い」。
なにも考えず頷いた。
「なに?」
ニックは何度かためらった後、意を決したように口を開いた。
「あの、外で人間たちがしていたように」
かすれた声。そっと春子と目を合わせる。さきほどのような落ち着いた眼差しではなく、緊張と少しの不安が見てとれる。
春子はじっと次の言葉を待った。マンションの廊下を、楽しげな笑い声がいくつか通り過ぎた。
ニックは春子の手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。おどろいて見ると、ぎこちない手つきでそっと手をからめてくる。コチコチに固まったニックの緊張が、冷たい指先から伝わってくる。肩に力が入り、ギュッと上に上がっている。首筋まで朱色に染まった顔は、なぜか泣きそうな表情をしていた。
キィ、バタン。
隣の部屋の住人が出て行く音がする。カチャカチャと、鍵を閉める金属の音。足音が遠くなる。春子とニックは、結ばれた手と手をじっと見ていた。生まれてはじめて目にする、ふしぎなものを見るかのように。
ニックがそっとつぶやいた。
「あたたかいですね」
涙をこらえるようなかお。つぶやいた言葉が空気とまざりあい、春子の中に染みこんでくる。心がふるえる。特別なことを言われたわけでもないのに、どうして?
ニックの手にわずかに力がこもる。伸びた爪が皮膚にあたるのも気にならなかった。
「地獄にいたとき、人間に触れるのは捕まえる為でした。だからおどろきました。人間同士は、あんな顔をして触れ合うことができるんですね」
捕らえるのではなく、触れ合うために手をつなぐ。それがとても尊い儀式のように見えたとニックは言った。
それから少し照れたように明るい声で、
「これでもう思い残すことはありません」
言うと手をはなした。つめたい手なのに、はなれたとたん、体の奥がすっと冷えた。
ニックが手をはなしたとき、テーブルの上からなにかが落ちた。たいして興味があるわけでもなかったけれど、意識をそらしたくて拾い上げる。
昨日書いたメモだった。Nickと佐藤春子の文字が並んでいる。
春子は唇を強く噛んだ。ニックを振り返る。目が合うと、明るかったニックの顔が瞬時に苦しげにゆがむ。自分はそんなに恐い顔をしているんだろうか。でもどうしようもない。
「出て行くなら、行けばいいじゃない」
紙をきつく握りしめると、掌が痛くて不快だった。苛々する。
迷惑はかけない? 思い残すことはない?
卑怯よ、そんなの。
「あなた、なんのためにここまで来たのよ。来るかどうかもわからない追っ手を恐がって、ずっと逃げ続けるため? そんなんじゃどこにいたって同じじゃない。一生逃げる気?」
ニックがはっきりと傷ついた顔をした。春子は掌の紙を強く握って、意識をそちらに集中させる。心は一つしかないのに、いろいろな感情が混ざり合っている。あちこちに分散して悲鳴を上げている。
「そんな弱い男、こっちから願い下げよ」
「春子さん」
ニックの頬はすでに赤みが消え、もとの白にもどっている。いや、いつもより青白いくらい。なぜ春子が怒っているのか、たぶんわかってない。無垢な心が憎かった。
ニックを見つめながら、ぽつりと言葉が落ちた。
「どこまで逃げても一緒なのよ」
「え」
「自分から逃げることはできないから」
言って、ふっと視線をそらす。自分を嗤いたくなった。えらそうに、なにを。あの日から逃げ続けているのはどこのだれ?
吐く息がふるえる。
自分を曝け出しすぎている。これ以上は危険だ。やっぱりニックの言うように、このまま別れたほうがいい。ぎゅっと目を閉じる。
これ以上心がめちゃめちゃになるくらいなら、ひとりのほうがずっとマシ。
そのとき。
ブブブ、と携帯が鞄の中で振動音をたてた。春子は顔を上げた。
携帯を開く。携帯電話の画像と、callingの表示。メールではなく電話だった。
着信相手におもわず眉を寄せる。知らない番号だ。
ためらっている間も携帯は急かすように振動し続ける。ほかに注意をそらしたかった。画面をタップする。
「はい」
あの、と相手はおそるおそるというように声を出した。聞き覚えのない声音。
「さっきはすみませんでした」
静かでやわらかな声。さっき? 思考をめぐらす。
あっと声が出た。
「えっと、あなた」
顔は浮かぶが、名前が出てこない。なんと呼ばれていたっけ。カスミじゃなくて、
「カズミさん、だっけ」
そう、和美だ。拓哉の隣にいた女の子。
「さっきはすみませんでした」
和美はもう一度言った。
「拓哉君があなたに酷いことを言いました」
「……べつに」
言いよどむ。もともと失礼な言い方をしたのは春子だ。おそらく拓哉の携帯電話から春子の電話番号を探してきたのだろうけれど、わざわざ電話までされるのも却って居心地が悪い。
「あの、となりにいた人」
「え?」
おもわずニックをチラリと見ると、じっと真剣な目でこっちを見ている。いそいで背中を向けた。黒目にあんなに力がある男、見たことない。
心臓がざわざとと騒いで、うるさいったらない。耳元に意識を集中させる。
「好きなんですか」
携帯を落としそうになった。この子、なにを言い出すんだろう。
「そんなわけないでしょ」
おもわず大きな声が出た。でも、心臓はそれ以上に大きく鳴っている。不吉な報せを聞いたときのように手がつめたくなっていく。
「だいたい、あなたなんの関係もないじゃない」
「はい、関係ありません」
冷静な声が返ってきた。春子はむしょうに苛々してきた。
「じゃあいいでしょ。ほっといてよ」
ほとんど叫ぶような声になっている。大きな声を出し続けないといけない。恐怖に囚われたように春子はおもった。
でないと、負けてしまう。なにか途方もなく大きくて、おそろしいものに負けてしまう。
「あなたと拓哉君が付き合っていること、知ってました。でも、あなたはいつも楽しそうじゃなかった。拓哉君はそれで悩んでたんです。どうすれば本当に幸せそうに、楽しそうに笑ってくれるんだろうって」
責めるでもない口調が、耳から静かに体内に浸透していく。
――最初から僕じゃなくてもよかったんだろう。
拓哉はそう言っていた。おもわず苦い笑みが口に浮かぶ。そうか、気づかれていたのか。気づかれていたことに気づかなかった。拓哉の言うとおりだった。誰でも良かった。
「でも、いいじゃない。私が本気じゃなかったおかげであなたは彼を手に入れられた。そうでしょ?」
わざと嫌な言い方をする。相手が黙っていることに満足をおぼえた。呼吸を整えるようにふーっと息をはく。
「わたし」
和美は静かに言った。
「あなたのこと、かわいそうだと思います」
「……え」
「人を愛したり、想ったりすることを止めている。それは不幸だと思います」
感情の揺れを感じない、淡々とした口調だった。
携帯を強く握りしめる。なによそれ。声を失ったように言葉が出てこない。
「あなたの隣にいた人は、拓哉君のことをすごい顔でにらんでいました。あの人、拓哉君を殺してしまうんじゃないかと思った。でも、あの人の気持ちもわかるんです」
ごくり。
カラカラに乾いたのどが音をたてる。知らぬ間に携帯を耳に押しあてるようにして聞いているせいで、右の耳だけ痛い。
「恋をすれば、そうなるんです。好きな人を傷つけるものはすべて許せないとおもう」
春子はふたたび目を閉じた。眉を寄せる。
聞きたくない、そんな言葉。そう思っているのに携帯を切ることができない。
「春子ちゃん」
昔からの知り合いのように、和美は春子を呼ぶ。
「幸せになってください、どうか。今度こそだれかを愛してください」
だめ――。
ピッと携帯を切る。ツー、ツーという機械音が耳を通り抜ける。手が震えていた。全身に鳥肌が立ってる。呆然とカーペットに両手を着く。
なんなの、あの子。
心臓がドクドクと鳴り響く。春子は携帯を放り出した。反対の手で握ったままの紙のガサリという音が聞こえた。片手の中でそっと開く。名前が書いてあるだけの紙切れ。はやく捨ててしまえばいい、こんなもの。
「春子さん?」
見ちゃだめ、と思っているのに。引力に吸い寄せられるかのように振り返った。ニックが心配そうにこちらを見ていた。
「顔が真っ青ですよ。どうしたんですか」
こちらに近づいてきて、顔を覗きこむ。まっすぐな糸のような黒い髪が流れて、肩先で揺れている。
恋? ニックが私に?
ちがう、そんなんじゃない。ココアを作ったのが別の人でも、ニックはきっとよろこんだ。そう、だれでも良いのはお互いさまなのよ。
「春子さん、すみませんでした。僕、春子さんのことを傷つけるつもりはなかったんです」
カッと頭に血が上る。なにも考えず、掌の紙を投げつけた。
うわっ。面食らったニックが後ろに尻餅をつく。春子は勢いよく立ち上がった。
「傷つけるって、なによそれ。私はだれにも傷つけられない。そんなに弱くない。あちこちから、好き勝手言わないで!」
叫んで、玄関に向かって走る。顔が熱い。心臓が炎になってしまったんじゃないだろうか。かみしめた唇から血の味がした。強く噛んでいたらしい。
「はるこさん!」
呼ぶ声に振り返らず、リビングを横切って廊下を走る。パンプスに足を引っ掛け、ドアの鍵を開ける。手がふるえて、当たり前の動作がうまくできない。そんな自分が悔しくてたまらない。
ガチャ――バタンッ。
開きかけたドアを、後ろから伸びた手が閉ざした。ビクリとして振り返る。
ニックがこちらを見ていた。ドアノブにおいたままの手をそのままに、もう片方の手を春子の脇のドアにあてる。両腕に閉じ込められる格好になっていた。ますます頬が熱くなった。
「なによ、はなしてよ」
「いやです」
はっきりとした声。真剣な目が、捕えるように春子を見据える。春子は自分を守るかのように両腕を体に巻きつけた。
「春子さん」
ニックがつらそうに目をほそめる。
「僕は、あなたを傷つけたくありません」
「私は傷つけられてなんてない。そう言ってるでしょう」
昨日寒いと思った玄関は、今のぼせそうに暑い。息が苦しい。体が近すぎる。春子の後ろはドアで、これ以上一歩も下がることができない。
唇の端を無理に上げる。眉を寄せるニックと目が合う。
「大丈夫。私はあなたがいなくても平気よ。またちがう人を連れてくる。ずっとそうしてきたんだから」
瞬間、ニックの顔が傷ついたように歪んだ。
「――いやだ」
飾ることも偽ることも知らない、まっすぐな言葉。小刻みに、しかしはっきりと首を横に振る。ニックは一瞬俯き目を伏せ、ふたたび春子を見た。濡れたように黒い目が、垂れた前髪の間から春子を見ている。
春子はニックから視線をはずすことができなかった。
どうして嫌なの? なにが嫌なの?
尋ねてみたい衝動と、答えを知ったら後戻りできなくなる恐れでなにも言えない。
ぽたり、と冷たい水が落ちてきた。
ニックの頬に、涙がながれていた。
ニックが、泣いてる?
呆然と見つめる春子の視線に気づいてか、自分の頬にそっと手をのばした。指先の涙を見つめて、
「これが、涙ですか。僕、はじめて泣きました」
言うと、力なく笑った。
「変な味がします」
春子も、自分の頬を触れた。落ちてきたニックの涙。指先で拭って、ココアの上にのせた生クリームを舐めるように、そっと舌で舐める。人間と同じ、塩辛い味なようにも、この上もなく甘い蜜の味のようにも思える。
「……勝手よ。自分は出て行く気で、そのくせ私にはほかの人といるな、なんて」
声がふるえた。
「そんなの卑怯よ」
――幸せになってください、どうか。今度こそだれかを愛してください。
和美の声が頭の中に響き渡る。愛するなんて、そんな恐ろしいことできない。
でも、離れていってほしくない。そう願っている声は抑えることができなかった。
ニックが黙ったままぽたぽたと涙を流した。
「ここに、います。すみません、春子さん」
ニックの震える声を聞いたとたん、ほっとして全身の力がぬけそうになった。このままではまずい。別れたほうがいい。頭では思ってるのに、そんな道を選ぶことができないとわかっていた。
出会って二日しか経っていないのに。
自分の大切なものを根こそぎ奪われたような心細さと不安と、それとは別のなにかが春子の体の中で混ざり合っていた。




