クリスマスの街角
――おとうさーん、サンタさんきたー!
子どものはしゃいだ声が廊下をつたってリビングに届いた。
「う……ん」
春子は目を閉じたまま寝返りを打つ。その拍子に片腕がソファから滑り落ちた。玄関の向こう側から、笑い声が聞こえる。相変わらず目を閉じたまま、もう片方の手でブランケットをギュッとつかんで胸まで引き上げる。
その瞬間、
「イタッ」
甲高い叫び声が近くで聞こえ、ギョッとして目を開く。
いまの、なに。
あわてて起き上がる。白いカーテンの向こうから、さんさんと世界を照らす陽の光が透けて見える。カーテンの間から陽がこぼれて、壁に光が切り取られたような形で貼りついている。今日もよく晴れていることがわかった。
ガラステーブルの上には、昨日取ったピザの箱が開いたまま、一切れだけ残っている。二枚の皿にはピーナッツの殻とオレオが数枚。皿にピザのソースが赤くついている。潰しただけの状態でカーペットに転がる缶ビール。
見た途端に、口の中が泥でも詰められたようにどんよりと重く苦くなっていることを意識した。暴飲暴食の残り香がむわっと口に残っている。
クリスマスケーキなんていつ頼んだっけ? 記憶にない。
近所のコンビニのレジ袋からのぞくホールケーキの紙箱は開いたまま、半分食べられている。皿はないけどケーキの片隅にフォークが二つ。直に食べたらしい。
視線を手元に引き寄せる。二つの穴ぼこと目が合った。
「キャッ」
短く叫んで飛びのく。といってもソファの後ろは壁なので、勢いあまって壁にしたたか頭を打ち付けてしまった。
「いった!」
「大丈夫ですか」
ニックがおろおろと声をかける。
ニック。
そうだニックだ。彼がいたんだ。
起きぬけのぼんやりした頭で見ると、彼のお世辞にも優しそうとは言えない相貌は刺激的すぎるほど刺激があった。細胞のすみずみまで、一瞬で覚醒する。近所に住むサンタクロースが来る来ないと騒いでいた女の子など、一目見ただけで大泣きしてしまうこと間違いなしだ。
「あの、すみません……」
ニックは見た目とは想像もつかない高く澄んだ声で、申し訳なさそうに言った。
「ちょっと、離していただけますか」
そこでようやく春子は理解した。ブランケットだと思って握りしめていたのはニックの翼だったのだ。
昨晩これを布団代わりに眠っていたらしい。翼に触れてみたい、と思った春子の願望は難なく叶ったということだ。
翼をがっしり握りしめていた右手の力をゆるめ、親指の腹でそっとなでる。とてもやわらかい。ニックは春子の仕草にとまどったようにわずかに身を震わせた。
ぼんやりと思い出す。昨夜あれから、ピザを二人前取ったのだ。
「あなたって、食べ物食べれるのよね?」
近所のピザ屋に電話した後念のため確認すると、ニックは困ったように首をかしげた。
「さぁ、どうなんでしょう」
「どうなんでしょうって、なによ」
春子は眉を寄せて、じろじろとニックの体を観察した。欠食児童のようだと思った細い、針金のような体。まともな栄養を取ってないことはわかる。
これがこの生き物の標準体型なのだろうか。もしそうだとしても、同居人としてこれはいただけない。
「食べなくても、生きていくことはできます。僕たちは地上の生き物と違って、食べることを生きる条件にしてないんです」
「ふーん」
便利なカラダね、と春子は言った。
「じゃあなにが条件なの?」
なにげない質問だったはずだが、ニックはすっと視線をそらす。
「あの……それは」
なぜか言いよどむ。少し違和感を感じた。
けれどすぐにその思いを消し去る。なんといっても出会ったばかりだ。ほかにも聞きたいことは山ほどある。
「まぁいいわ。とにかく私はね、もっと筋肉の付いた男が好みなの。赤十字のポスターに載ってるアフリカの少年みたいな体型、さっさと卒業してちょうだい」
春子はシュンシュンと沸騰した薬缶を止め、マグカップを出した。男が使ったままにしてあった流しのカップも洗って使う。
マグカップを二つ並べ、湯をそそぐ。そこにゴディバのココアパウダーを入れて溶かし、かきまぜる。すこし迷って、仕上げに生クリームを浮かべた。
熱いココアの上に乗せた生クリームはすぐにとろりと溶けていくけれど、店に出すわけでもなし、おいしければいいというのが春子の持論だ。
目の前で繰り広げられる一連の動作を、ぼうっと見つめていたニックにマグカップを渡す。問うようにこちらを見るニックに「飲んでみて」とうながす。
ニックは受け取ったマグカップに並々とそそがれているココアを、大切な宝物でも抱くようにじっと見つめていた。やがて呟く。
「とてもいい匂いです」
春子は苦笑する。
「いいから、飲んでみてよ」
春子は流し台に背をあずけ、後ろ手に引き出しからスプーンを二つ出す。
一つを差し出し、「いい?」というように手本を見せる。
まだ溶けてない、上のほうに盛られた生クリームをひとすくいして口へ運ぶ。しゅわん、と口の中で音もなく消えた甘いクリームの味をたしかめてから、マグカップを口に運ぶ。
生クリームとココアが一緒に口に流れてきて、えもいわれぬ味が口内に広がる。いろいろ試したけど、やっぱり老舗のチョコブランドのココアが一番ね、と思う。
そんな様子をじっと見ていたニックは、見よう見まねでココアを口に運んだ。
その瞬間、二つの暗い穴だった彼の目に光が宿ったように見えた。喉をならし、ごくごくと飲み下す。かなり熱いのに、やけども気にしない早さだった。
あっという間に空になったマグカップを、ふしぎなものを見るような顔でニックは呆然と見ていた。自分の身に起きたことが信じられない、といった様子だ。
ただのココアなのに。
春子は笑い出しそうになるのをどうにかこらえた。そして尋ねる。
「おいしいでしょう」
のろのろと春子を見る眼差しからは、ゆっくりと光が削がれていく。暗闇にともったろうそくが消えていくようだ。口元にはココアの茶色い液体がついている。
「おいしい……?」
「いま、おいしそうにしてたじゃない」
言いながら気づいた。そうか、食べ物を口にしたことが無いなら、「おいしい」がなにかもわからないのか。
「おとうさん」や「おかあさん」や「おいしい」、という感情。彼には知らないものが多くあるのだろう。
春子はなんと言っていいかわからず、それでもニックが大切そうに両手で握りしめているマグカップに目をやった。
「あっという間に食べたり飲んだりしてね、もっとほしいと思ったり、もう一度ほしいと思ったり、あとは」
この表現で正しいのだろうか? 春子は考えながら口にした。
「気もちいい、と思ったり。口にしたときにそう感じたら、おいしいということよ」
おいしい、という感覚を言葉で説明するのはむずかしい。言いながら春子は、食とセックスは非常に近いところにある、と言った作家がいたことを思い出した。
なるほど、たしかに近いのかもしれない。
ニックは春子の言ったことを自分なりに頭の中に浸透させようとしているようだ。しばらくじっと手元のマグカップを見ていた。やがてゆっくり頷いた。
「おいしい、と思います。この液体は」
液体、ときたか。まちがってはないけれど。春子は今度こそ笑った。
「ココアっていうのよ。覚えてね」
会話に苦労はないけれど、ところどころ補完しなければならない情報が多い。日本語の上手な留学生を迎え入れたような気分になった。
出前のピザ、缶に入ったピーナッツ、チョコレートやオレオ。ニックはその夜一晩でいろいろな物を食べた。
なんでも「おいしい」と言って食べるニックを、春子は楽しんで見ていた。餓死寸前の子犬が一心にミルクを飲んでるのを見守っているような気分。自分にそんな母性的な感情は無いと思っていたけれど、どうなのかしら。
そこまで考えて、春子は思考を遮断する。
いや、違う。そんな立派なものじゃない。突然振って沸いた新しい玩具を楽しんでいるだけよ。そう考えて、春子はそっと口先で笑う。
もしかしたら、サンタクロースが私に届けてくれたのかもしれない。この箱の中、退屈しないで愉しめる玩具を。
ピザをほおばる含むニックを見ながらビールを口に含むと、春子はそう思った。
「あの、春子さん?」
ニックはおろおろと困惑しながら身をよじる。
「もう離していただけますか」
ニックの羽を指先でもてあそびながら思考に耽っていた春子は、ふっと顔を上げた。ニックを見て、ごめんと呟いて手を離す。はじめて名前を呼ばれたな、と思いながら。
ソファから立ち上がると、凝った首を回しながらカーテンに手をかけ、いっきに左右に引く。シャッと小気味良い音がする。十二階から眺める空はどこまでも同じ色調の、完璧な水色をしていた。今日もいい天気。
「うわぁっ」
その瞬間、後ろから悲鳴が聞こえた。
え、と思い振り返ると、ニックが目にタバスコでも入ったかのように苦しげに身をよじっている。
おどろいて駆けつける。エビのように丸まっているニックの背中の翼はもだえるようにバサバサと羽ばたき、カーテンが風でゆらめいた。巻き起こった風で髪が頬にはりつく。
「ちょっと、どうしたの」
「いたい……っ」
「え?」
当惑する春子をよそに、両手で顔面を抑えながらニックは、
「はやく、閉めてください……っ」
震える指でニックは窓を指さす。とまどいながらも春子は、
「カーテン? 閉めればいいの?」
手の向こうの顔が、わずかに立てに揺れる。春子はいそいで後ろを振り返ると、勢いよくカーテンを閉めた。ニックの取り乱した様子が伝染し、春子の心臓も激しく鳴る。
カーテンを握りしめたまま、そっと振り向く。
「閉めたわよ」
その言葉に、ニックは覆っていた両手をそろそろと顔からはずす。翼もはためくのをやめて静止する。しかし目は閉じたままだ。
なんと言っていいかわからない。状況に着いていけない。
「だいじょうぶ?」
ニックは深く息を吐くと、ゆっくりと目を開けた。春子と目が合うと、小さく頷く。顔が一層青白くなっている。
「あの」
かすれた声が絞り出される。ニックは二度、三度空咳をして、
「すみませんでした」
「そんなこといいけど、大丈夫なの?」
また無言で頷く。青白い顔にはハッキリと苦悩が刻まれていた。
視線をのろのろと春子の後ろのカーテンに移す。つられて春子も振り返る。白いカーテンは陽の光を受けてやわらかく光っている。
ニックは口を開き、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「僕がいた世界は始終夜でした。アサやヒルがない。だから、ヒカリを今、初めて見ました」
言葉の一言一言がニック自身を切りつけるかのように顔を歪めている。
「目の芯まで刺されたように痛かった。これがヒカリの力……」
呆然としたようにニックは言うと、組んだ両手をぎゅっと握りしめる。俯く表情は黒い髪で覆われ見えない。
春子はニックに近寄って、座り込むニックを見下ろした。翼が黒い繭のようにニックの体を包み込んでいる。
「ねぇ」
はい、と弱々しい声が下からはい上がってくる。
「よくわからないけど、要するに見慣れてないから眩しいってことよね?」
ニックは返事をしない。春子は小さく息を吐くと、黒い繭とソファの間をすり抜けて隣接する自分の部屋に入った。机の引き出しを開ける。ここにたしか……。
やがて目当てのものを探し当て、ふたたびリビングに戻る。まだ丸くなっているニックめがけてそれを放った。
カツンッと良い音で左側の翼に当たり、跳ね返ってカーペットに落ちる。振り返ったニックがなにか言うより前に、
「それあげるわ」
ニックは床に落ちたものを拾い上げる。ゆっくりと首を傾げ、
「……なんですか?」
春子はそばに行くとニックの手からそれを取り上げた。身を引くニックより早く、さっと彼の鼻柱にひっかける。口の端をふっと上げて言う。
「なかなか似合うじゃない」
ピンク色のサングラス。全身黒のニックがかけたサングラスは、枯れ枝に咲いた小さな花のようだった。ニックはとまどったようにサングラスをさわって尋ねる。
「これ……なんですか?」
「強烈な日差しから身を守る魔法のアイテムよ」
言うがはやいか、春子はカーテンを右側だけサッと開けた。ニックが脅えたように身を縮こませる。
「だいじょうぶ。落ち着いて見て」
ギュッと目を閉じていたニックは、おずおずと目を開ける。そしておどろいたように見開いた。
左半分をカーテンで覆ったままの空。雲が遥か彼方に小さく浮かんでる。横切る飛行機が遠くに見えた。白く固まっているいくつものビルや家々。長い橋のような電車の高架。
地上の風景。
ニックは魅入られたように黙って風景を見ていた。そっと呟く。
「ほんとうに来たんだ。地上に」
春子を振り向いて言った。
「この世界はうつくしいですね」
春子は、壁にもたれたまま首をめぐらし、窓の外を見る。
世界はうつくしい? おもわず唇がゆがむ。
私はそう思わない。
昨日と同じようにココアを飲みながら、春子は尋ねた。
「室内の明りは大丈夫なのね。太陽の光となにがちがうのかしら」
ニックは生クリームを赤い舌で舐めることに一生懸命で、春子の言葉が一切耳に入ってないらしい。春子は黙って手を出すと、サングラスの縁をつまんで上にあげた。
「うわっ」
「聞いてるの」
「す、すみません」
叱られた犬のように春子を見上げる。笑いがこみ上げてきたけれど皮膚の下完璧に押し殺して、重ねて聞いた。
「だから、なんで部屋の明かりは眩しくないのかって聞いてるのよ」
「あぁそれは」
なんてことない、というようにニックは言った。
「デンキは偽物だからです」
「…………は?」
「太陽の光は、生命の光です。あの光が命を生みます」
長い舌が唇の回りについているクリームをぺろりと舐める。
「だけど、人間が使ってるデンキの光は、なにも生み出さない。闇を避け、闇を恐がる考えから生まれている光です。太陽が本物だとしたら、デンキは偽物です」
ココアを大事そうに両手で持ちながら、ニックは淡々と言った。
「なにかを恐れるという感情は僕らには身近な存在です。だからまぶしくない。痛みを覚えない。……言ってること、わかりますか?」
最後はやけに自信なさげに聞く。春子はニックの言葉をじっと自分の中に落としこみ、眺め、そしてゆっくり口を開いた。
「そんなことないよ」
「え?」
ココアに生クリームが溶けていく。甘い香りが室内をたゆたう。春子は瞳を閉じた。
「なにも生まないなんてことはないはずよ。だってあの光は」
眼裏に、いくつもの家々の灯りが浮かぶ。
人々の営みの光。帰りたいと願う人を、ここだよ、と引き寄せる灯り。あのあたたかさ。
星の光を凌駕するぬくもり。
私が二度と手に入れられない、あのひかり。
「ほんものよ」
そっと吐く息が、ココアを震わせる。こちらを見るニックの視線を避けるように、カップに口をつけた。甘い香りと味が喉を通り、体をあたためる。 おいしい。おいしいという感情は、ひとを安心させる。
口角を上げ、笑顔を作る。
「ねぇあなた、まだ全然こっちの世界知らないのよね?」
「あ、はい」
こくこくと頷くニック。ニックにすっと身を近づけ、誘惑するように囁く。
「ちょっと冒険してみない?」
通りにはクリスマスソングと人々の笑い声、ざわめき声が溶けて流れている。
サンタクロースの格好をした店員が店頭でケーキを売っていた。その隣の携帯ショップの前では、これまたサンタクロースの帽子をかぶった店員がプラカードを片手に声をかぎりにセールを謳う。
薄い氷を街全体にかぶせたような寒さだけれど、それが気になる人はここにはいないらしい。楽しげに大声でなにか話しながら歩く高校生くらいの女の子たち。体をのけぞらせ、はじけるような笑い声を上げている。頬と頬を寄せるように歩くカップル。おもちゃ屋の大きな紙袋を抱えて走る子どもと、「走っちゃだめ!」と言いながら走って追いかける母親。
クリスマスの街は目的地に急ぐ人であふれていた。嬉しさと希望で一人一人がいつもよりうんとキラキラ光っている。
そのキラキラ光っている街の中、春子とニックは一際浮いていた。老いも若きも、すれ違う人が必ず怪訝そうな顔でニックを見る。しかしそれは彼とある程度距離があるときのことで、いざ間近にニックが迫ると途端に素早く視線をそらす。そしてすれ違いきってから再び見ることの繰り返しだった。
ニックは居心地悪そうに始終コンクリートの地面を見つめながらのろのろと歩いた。歩く、という行為を長く行うことが慣れていないようで、溝やちょっとした段差に足をとられやすい。スニーカーのかかとを踏んでるせいもあるだろうけれど、春子のスニーカーではサイズがかなり小さいからこうして履くしかなかった。
黒い髪が覆う白すぎるほど白い肌。ピンクのサングラスの向こうから覗く冷たい瞳。尖った耳。そして裾がぎざぎざに切られたワンピースを着る男。これでは人目を引かないほうがむずかしい。黒い翼が無いことが唯一マシな点だった。
「ニック、ちゃんと隠しておいてよ」
春子は何度目かの釘を刺した。ニックはそのたびに神妙な顔でうなずく。
クリスマスの往来で男の背中から羽が出た、なんてことになったらパニックになる。春子はなにもないニックの背中を何度も確認せずにいられなかった。
出かける前、カラスの羽のような翼をどうにかしてもらわないことにはしょうがなかったので、ニックに
「思い切って切ってみようか」
と提案したところ、涙ながらに抵抗された。
「羽なら『収納』することができますので、それで見逃してください」
ニックは妥協案を訴えた。我が家の収められる米はこれだけです、と役人に懇願する小作人のような悲痛な声だった。
「なに、それ?」
眉を寄せる春子に、ニックはうなずいて見せると瞳を閉じた。
翼が音もなく、ニックの両肩を離れていきそうなくらい大きく広がる。窓の向こうの光が遮られ、春子の部屋だけ夜に突き落とされたかのような暗闇に浸された。
その一瞬後。
鳥が羽ばたく一瞬前に大きく広げたような翼が、
シュンッ。
強力な磁力に引き寄せられるかのように、背中に吸い込まれていった。
ニックは目を開き、おどろいて目を見張る春子をそろそろと見やると、腰をひねって背中を見せた。
あとには翼を通すために裂かれた二つの穴があるばかりだった。
春子はそっと近寄り、その背中に触れた。人間の皮膚より固い。固くて、つめたい。ふいに子どもの頃あそんだ着せ替え人形の感触を思い出した。たしかに生きているのに、あの人形よりも冷たい皮膚。
穴の部分を二本指でなぞってみる。翼の感触はない。人間の腹をさわっても胃や腸の形がわからないのと同じなんだろうか。ぼんやりとそんなことをおもいながら、
「なんでこんなことできるの?」
「だって、じゃまじゃないですか。ずっと背中にあると肩もこるので、みんな中に『収納』してしまうんですよ」
あっさりとニックは答える。ふとおもった。
翼を体内に隠した悪魔って、この世界にほかにもいるのかしら? 口の端を意識的に上げてみる。
まぁそんなことどうだっていい。
「さぁ、冒険の始まりね」
ニックが歩道に足をとられて転んだのが三回目になったとき、春子は言った。
「着いたわよ」
関東にいくつも店舗がある有名なデパート。とまどうニックを引きずるようにして連れこむ。暖房が効いた室内に、冷えたからだがほっとしてゆるんだ。
真っ白なタイル張りの店内で、お互いの贈り物を選んでいるカップルが何組か、おどろいたようにこちらを見てきた。けれど春子は一向に構わない。
「メンズ・ヤング」と書かれたフロアにエスカレーターで行くと、一番近い店にニックを放り込むように押し出す。
「この男がクリスマスの街の中、マッチ売りの少女みたいに見えない服装にしてください」
細身のライトグレーのスーツに身を包んだ細面の店員は、春子の言葉に一瞬呆気に取られたようだった。しかしすぐさまにこやかな表情を浮かべると、
「かしこまりました」
そう言って上から下までニックをじろじろと観察した。すれちがう人々が送る好奇の眼差しとは微妙に異なる、鍋に入れる野菜をスーパーで吟味するかのような目だった。
ニックは予防注射に連れてこられた子どものように泣きそうな顔で、不安げに春子を振り返る。春子は意に介さず、ガラスの棚の一番上に次々と並べられる洋服を見ていった。適当に手にとって、棒立ちしているニックに押し付ける。
「ほら、着替えて」
「きがえ……?」
途方に暮れた顔でニックはくり返す。照明のせいか彼のメンタル的な理由からか、頬が一層白くなった気がする。春子はビシッと奥の個室を指差し、
「あそこで着替えるの。行って来なさい」
言い放つ。
ニックは頭をがっくりとうな垂れて、春子が手に取ったシャツとパンツをおそるおそる受け取った。すかさず店員が
「ご案内します」
とニックを誘導していく。
銀の取っ手がついた更衣室に入っていくニックを見届けると、春子はフフンと笑った。
おもしろいわ。今までできなかった遊びよ。
「退屈しないわね」
とりあえずは。
一人つぶやき、ほくそ笑む。ゆったりと両腕を組んで鏡張りの壁にもたれかかる。
ニックが更衣室にいる間にも、店員は春子におススメのジャケットや入荷したばかりのシャツを紹介していった。それらを吟味しながら、更衣室に目を配る。そしてふと思った。
洋服の着方くらいわかるわよね?
ニックの着ていた穴だらけの布、という印象の服を思い浮かべ、念のため更衣室まで行きノックする。
「着替えられた?」
「あ、すみません。あの……この前に付いてる、マメのようなものはなんでしょうか」
心細げな声が返ってきた。マメ?
「ボタンよそれ」
案の定、と思いながらドアノブに手をかける。
「もうなにやって――」
ドアを開ける。そして目を見張った。
ニックは裸で立っていた。
途方に暮れたような表情より、その裸の体に視線が釘付けになる。
胸元、へそ、二の腕、腿。棒のように細いからだの隅々を、赤黒い蛇のように皮膚を横切るいくつもの傷。沈黙が小さな更衣室を覆う。なんと言っていいかわからない。真新しい傷も古い傷も、無数にある。
ニックは張りつめた顔で自分の体を見る春子に、ふしぎそうに首を傾げた。
「春子さん?」
黒い瞳がまっすぐにこちらを見る。目の前の、傷つけられて育った男。「自分だけで生きている」と昨日言っていた。
それは、ようするにこういうことなんだろう。たくさんの傷を受けながら、生きていくことなんだろう。
春子はニックの手の中にある、「服を着る」という一連の努力によって早くも皺くちゃになったシャツを黙って取り上げた。腕を取り、袖を通してやる。ボタンをひとつ留めるたび、白いシャツで蛇の傷がかくれていった。
シャツの上から店員が着ていたものより一段暗い色のグレーの一つボタンのジャケットを羽織らせる。ニックは所在無げにしょっちゅう視線をさまよわせ、鏡に映る自分をはじめて見る生き物を見るような目で見ている。
濃いインディゴのジーンズに片足ずつ足を通すよう指示すると、いよいよ怯えるように身を引いた。
「いいから、はやく」
小さな子どもにするように膝をつき、足を通しやすいようにジーンズの足を片手で広げながら、もう片方の手でニックのふくらはぎをグイとつかんだ。
のけぞったニックがバランスを崩し後ろの壁に頭をぶつける。痛いっとさわぐその様子を裏で聞いていた店員たちの、こらえきれず笑う声がドア越しに聞こえた。
せまい室内でドタバタしながら、それでもどうにかすべての服を着せた。春子は暑くなり自分のコートを脱ぎながら、
「うん、なかなかいいじゃない」
と満足げに言った。
ニックはなにが「いいじゃない」なのか全くわからない様子でポカンとしている。
夢から覚めたばかりのような顔で呆けているニックの手を引き、二人で更衣室を出る。春子が話しかけた店員以外にも、レジ打ちをしている店員やカップルの客数組と、一度にいくつもの人と目が合う。ライトグレーのスーツの店員はにっこり笑って言った。
「すごくお似合いですよ」
あらためてニックを振り返る。細身のジャケットとジーンズは体型によく合っていた。ガリガリの手足を貧相ではなくスタイリッシュに演出している。
こうして見るとどこからどう見ても人間の男だ。ニックは視線が春子とぶつかると、すがるような目で見つめてくる。おもわず笑ってしまった。
「いいじゃない、褒められてるんだから自信持ちなさいよ」
仕上げに店内にある先のややとがった黒い靴を履かせた。靴というものを履く習慣がなかったニックは、ガラスの靴をすすめられたシンデレラのようにおっかなびっくり足を通した。明るい照明に照らされて光る靴は、ニックの足にぴったりだった。
ってことは私は王子様? それとも、舞踏会に招待する世話好きのおばさん魔女?
どちらも自分らしくない。思いつきに苦笑する。春子はニックをふたたび上から下まで見て、店員を振り返る。
「あと、サングラスってありますか? 今してるのよりもっと、彼に似合うのがあれば」
「あの、すみません」
ニックがこれまでより少し大きな声を出した。振り返ると彼は自分のサングラスの縁をさわり、足元を見つめたまま言った。
「これはこのままにしてください。お願いします」
おどろいた春子と目が合うと、いたずらが見つかった少年のように、どこかバツの悪そうな顔でさっと視線をそらす。そらしたまま、そっとささやく。
「これがいいんです」
店を出ると、街は相変わらず幸福の只中にあった。
腕を組む、腰を抱く、手をつなぐ、見つめ合う。
誰もが申し合わせたように同じようなことをしながら歩いている。彼らの歩いているその足跡までもが、チカチカとイルミネーションのひとつのように瞬きそうだ。
春子とニックはちょうど間に一人通れるくらいの間を空けて歩いていた。春子の片手は通学にも使っているブランドロゴの入った黒いバッグを持ち、もう片方の手はだらりと下がったままだ。
一方ニックの両手には店の紙袋が提げられている。中には着ていたワンピースが入っていた。店員に捨ててもらおうかと思ったけれど、なぜだかニックはそうしなかった。家に持ち帰ったところで、雑巾代わりにもならないというのに。
「さっきも思ったんですが、すごいにおいがしますね」
ニックは顎をそらし、尖った鼻をひくつかせた。うっっとりとしたように目を閉じ、
「こっちの世界は、あらゆる匂いがする。生きているものって、どうしてこんなにいろんな匂いがするのでしょう」
春子は通りを眺める。目の前の通りを走る車の排気ガスの臭いしかわからない。ニックが言う「いろんな匂い」とはどんなものだろう。
以前地方に住んでいる友人が上京して一人暮らししたとき、くしゃみが止まらなくなった、と言っていた。すっかり慣れている春子にはわからない感覚だ。それと同じようなものだろうか。
目の前を走る車を、ショーウィンドーに飾られる豪華なおもちゃを見る子どものような眼差しで見るニック。分かり合えないことが山ほどあるんだろう。でもかまわない、そんなこと。どうぜずっと一緒にいるわけじゃない。
今はただ、愉しめばいいのだ。一風変わった同居人との生活を。
ニックの腕に手をからめる。電飾をつけた大型トラックが通り過ぎるのをぼけっと見ていたニックは、我に帰ったようにびくりと体を緊張させた。
「別に取って食やしないわよ。誘拐犯でも見るような顔しないで」
冗談のつもりで言ったのに、ニックはにわかに青ざめておもいきり首を振った。
「そんなことおもってないです、あの、ほんとです。すみません」
一生懸命取り繕うとする反応がおもしろく、おもわずくすりと笑う。
「嘘よ。それよりあなた、すみませんばっかりね。もうちょっと堂々としてもいいんじゃない」
ニックは春子の言葉に黒い目を少し大きくした。しかし一瞬後にはその目をすっとそらす。なんと言っていいかわからない、とでも言うように。
すぐに目をそらしてすぐに謝罪の言葉を吐く、気弱な悪魔。ガラスの靴の代わりに革靴を履いて、迷い込んだ舞踏会に途方に暮れている。
春子はニックをじっと見た。歩道の真ん中で立ち止まった二人の背中や肩や鞄に、絶え間なく人がぶつかる。あたたかな水のように流れていく恋人たちを、石が二つ、せき止める。
「あなた――」
口を開いた春子を、別の声が遮った。
「はるこ」
おどろいて振り向く。振り向く前からわかっていた。昨日まで毎日聞いていた、やけに甘ったるい、幼さの残る声。
「拓哉」
赤いダウンジャケットに色落ちしたウォッシュデニム。二つ連なっているウォレットチェーンには、バイクの鍵がぶら下がっている。見慣れた服装、見慣れた顔。
その隣には、はじめて見る女の子。
自分とはちがうタイプだ、とおもった。華やかな顔と評されることが多い春子と異なり、耳下で切りそろえられたショート・ボブの彼女はとんぼのような丸いめがねをかけて、地方の中学生のような素朴な印象だった。けれど黒く丸い目は、きれいな水の中に浮かべた果実のような、清潔なまなざしをしていた。
拓哉が視線を春子の手元に移した。それで自分がニックに腕をからめたままなことに気付く。ニックの腕を離さず、拓哉に向かって言った。
「私の次の人って、随分ダサいのね」
拓哉の目が見開かれ、次の瞬間顔が真っ赤に染まった。眉間にぐっとシワが寄る。隣の女の子と目が合う。
立ち止まる四人のただならぬ雰囲気に、すれちがう人々が好奇の視線をよこす。安全であたたかな場所から、向こう岸の火事をよろこんで見ている。
クリスマスのムードくらいじゃ隠せない、しょうもない人間の本質。
拓哉は隣の女の子をかばうように一歩前に出た。彼は周囲の視線より、元彼女の落とした爆弾で頭がいっぱいらしい。
「おまえだって、新しい男ができてるじゃないか」
赤く充血した目を鋭くニックに向ける。
拓哉は怒ると人のことを「おまえ」と呼ぶ。春子はそれが嫌でしかたなかった。この娘にも、同じような態度をとるのだろうか。
拓哉はさらに声を張り上げる。往来を歩く人が、いよいよ注目している。
「やっぱりおまえはそういう女なんだよな。最初から僕じゃなくてもよかったんだろ。だけど和美はちがう。僕のことを一番に想ってくれる。だから大事にしたいんだ」
和美と呼ばれた女の子がくっと首をそらし、拓哉を見上げる。従順でおだやかな犬が、主人を見る姿を思い起こさせた。
「だけどずいぶん悩んだよ。春子のこと傷つけるって」
言いながら、拓哉の目にふたたび涙が浮かぶ。和美が拓哉から視線をこちらに向きなおす。捨てられた子犬のようなさみしげな顔で。怒ってるのでも、非難してるのでもない。
――私、同情されてる?
「でも、悩む必要なんて無かったみたいだな」
自嘲するように拓哉は言う。下から上へと、冷たい目でニックをなぞるように見ながら、
「どうせもう、家に連れ込んでるんだろ」
低く吐き捨てるような声で言った。
春子は拓哉の真っ赤な目を見返した。喜怒哀楽がはげしい人。怒ると子どものように感情をむき出しにして、そのまま怒りをおさめるタイミングを見つけられない人。以前からそうだった。怒りを向けられているのは自分なのに、どこか他人事のように見ていた。
――ダンッ。
突然、なんの前触れもなく、拓哉が後ろに吹っ飛んだ。コンクリートの道路に強く尻餅をつき、勢いあまってそのまま倒れこむ。通りを歩く人々が悲鳴を上げる。和美が急いで駈け寄る。春子も一瞬頭が真っ白になった。
はっと弾かれたように振り向く。心臓がドクドクと体内で蠢く。すでに拓哉の周りには人が集まっている。
大丈夫か。どうしたの? 幸せそうに微笑んでいた人々が、驚愕の表情で立ち止まり、脅えた目でこちらを見ている。
彼はそこに、そのままの状態で立っていた。
「ニック」
ニックはのろのろと振り向いた。
――ゾクリ。
黒い眼が、永遠の時間をも閉じ込められるような深さと昏さを抱いてこちらを見ている。氷水にひたした手で足首をつかまれたように、すっと血の気が引いていくのがわかる。
悪魔の羽は見えないのに。いまどきの若者の格好をしているのに。
今この場にいる誰もが知っているような気がした。
この男は悪魔だと。
地獄の底からやってきたのだと。
恐怖が心臓をつかみ上げ、逃げ出したい衝動に駆られる。その一方で、まったく別の想いが芽生えていた。その思いは強烈に、春子の心の芯をつかむ。気がつけば笑んでいた。
ようやく見つけた、とおもった。
周囲の人々の声がすべて雑音に変わる。なにも聞こえない。
春子は座り込んだままの拓哉に背を向け、夢見るような足取りでニックのもとに歩み寄った。二人の距離が徐々に縮まっていく。五歩、四歩、三歩。
彼は相変わらず昏い目をしている。夜を映す湖のような瞳はなにも見てない。春子さえも意識の外にいることがわかった。
二歩、一歩。
目の前の男の桃色のサングラスを上に上げる。途端に我に返ったように顎を上げ、うわっと短い悲鳴を上げる。
「や…………」
両手で顔を覆って、いやいやするように首を横に振る。春子は愉しくなってきて、ますます笑みを広げる。
やめてください、も言えない気弱な悪魔。孤独とはなにか、体現している男。
私にふさわしいわ。
サングラスを取り上げたまま、耳元に口を寄せる。
「どんな魔法をつかったの?」
ピタッと動きを止めるニック。顔を覆う手の向こうから、苦しげなうめき声を漏らす。春子はなだめるように優しくささやいた。
「いいのよ、怒ってなんかない。守ってくれたんでしょ?」
ニックの体が震えている。春子はその体を包むように抱きしめた。冷たい体。男に抱きしめられたときもたらされる、あのぬくもりはないけれど。
抱きしめたまま、首だけそらして拓哉とその彼女を振り返る。拓哉は地面に尻餅を着いたまま、呆然とした顔で地面を見ている。彼女は拓哉のもとに跪きながらこちらを見ていた。さみしげな、可哀相なものを見るような目で春子を見る。
気に入らない。同情なんてほしくない。
ニックがかすれた声でささやく。
「すみません」
「謝らないで」
翼が隠されている場所を、爪でひっかくようになぞる。ここに自分だけが知っている、香りの良い蜜がある。
「僕……傷つけるつもりはなかった……」
春子の胸の中で、両手を顔で覆う。
「こわい。自分がこわいです」
ニックをじっと見る。自分の力に、人を傷つけることに、まっとうに傷つくことができる男。彼のほうが自分よりよほど人間らしい。
なんだか笑いたくなって、笑う変わりに春子は抱きしめた手を離した。一瞬たしかに燃え上がった火は、音もなく消えてしまった。
内面に起きた一連の変化を悟られないよう、笑顔を作る。
「いいじゃない、あなたがフッ飛ばさなかったら、まちがいなく私が殴ってたわ」
そんな、とニックは泣きそうな顔をして春子を見る。それからふと真顔になり、物問いたげな視線を向けた。春子はすっと視線をそらし、
「お腹空いたわね。なにかおいしいもの食べに行きましょう」
ニックにも拓哉にも視線を向けず、言いながら歩き出した。
クリスマスの飾りつけが施されたカフェでランチセットを食べ、街をぶらぶらと歩いた。心よりもっと手前、口の中で適当に練って投げ出すような他愛もない話をする。心に蓋をして笑顔をつくる。
春子には造作も無いことだった。
「春子さん」
通りを歩きながら、ニックが指さす。
「あれなんですか?」
人波がいっそう膨れ上がっている場所。大勢の人が携帯電話で撮影したり、人に写真を撮ってもらったりしている。
「ああ、あれはクリスマスツリーよ」
イルミネーション特集に必ずとりあげられる有名な高さと豪華さを誇る、この街のクリスマスを象徴するツリー。
一つ一つの飾りが大きく、本格的なつくりになっている。木の実のようにまぶされている赤や緑の丸いオーナメント。サンタクロース、トナカイ、杖のかたちのキャンディ。樹の根元には、大きなプレゼントの箱が色とりどり置かれている。
ニックはもの珍しげにしげしげと見つめ、そっと息を吐いた。
「とてもきれいだ」
「……そうね」
うなずきながら、胸に苦い思いが広がる。両腕をぐっと組み合わせる。
「私は好きじゃないけどね」
「どうしてですか?」
二つの黒い穴が、春子を引き込むように見つめている。どうしてか、さきほどの和美の視線と重なった。
春子はさっと顔をそむけ、笑って言った。
「だって裸の木のときは見向きもしないくせに、ちょっと飾ったとたんこれよ。携帯で写真なんか撮っちゃって。人ってどうしてこうも簡単なのかしら。ほんと、お祭り好きなんだから」
はるちゃん。
忘れていた声がよみがえる。
跳ね返すように、組んだ両腕に力をこめる。まったくちがうことを考えたい。どんなことでもいいから。春子は組んだ両腕で体を抱くようにして言った。
「あの人が言ったこと、嘘じゃないから」
「え?」
ニックを見ないまま言う。周りには幸せそうな恋人たちや親子連れ。私だってああいう風に笑える。それなのに、この場所で自分の周りだけ四角く切り取られているような違和感が拭えない。周囲から漂う甘い空気が、春子のところで跳ね返っている気がする。
組んだ両腕をパッとほどく。挑むようにニックと視線を合わせた。
「誰でもいいのよ私。一緒に過ごしてくれる人なら。あの人がよかったわけでも、あなたが特別なわけでもない。いつもこうなの」
口の端が上がる。笑顔が崩れ、きっと嫌な笑い方をしている。
私は王子様じゃなくて、お節介な魔法使いでもなくて、シンデレラをいじめる継母ね。
「私、誰とでも寝れるわ。そしてこの世にはそういう女が好きな男がたくさんいるの。あなたは世界がきれいって言ってたけど、私から見たらこんな世界、笑っちゃうくらい汚いわ。クリスマスツリーと同じ。着飾ったところで、いつか終わりは来る。あとに残るのは見向きもされない枯れ木だけよ」
自分にはたまにこういう節がある、と自覚していた。衝動的に、相手を傷つけずにはいられない言葉を吐く。相手が許せる領域を超え、ほとんどの場合そこで関係は終わっていた。
ニックは怒らなかった。それまでのように途方に暮れた顔も、泣きべその表情も浮かべなかった。
薄桃色のサングラス越しに、春子をじっと見つめていた。
視線が春子の肌をすり抜けて、心にまで浸透してくるかのようだった。もう、今日はあちこちから見られてばかり。冒険なんてしなければよかった。 自分はあの家にいるべきだったのだ。冷たく無機質な冷蔵庫ルームに。
ニックが春子の腕に手をかけてきた。びくり、と身を揺らす。顔を横切っていた笑いが消えた。
「どうしてですか」
今までよりも少しだけ、強い口調でニックは言った。真新しい革靴が地面を踏む音がする。一歩近づく。
「どうしてずっと、哀しい匂いをさせてるんですか」
ニックと目が合った。吸い込まれる。黒い穴の持つ引力に。星の無い夜空。
かつて自分も同じ目をしていたことがある。もしかしたら、今もまだ。はじめて見たときから、わかっていた。
それなのにどうして、彼ばかりこんなに無垢なんだろう。
頬につめたいものが滑った。涙だと気づくのに数秒かかった。
ニックがなにかをささやいた。けれど聞き取ることはできない。問い返すこともしたくない。もうこれ以上、なにも聞きたくない。
「においってなによそれ。馬鹿にしてるの?」
涙と混ざった声音は滑稽なくらい震えていた。絶え間なく零れ落ちてくる涙が、自分を嘲笑っているようだ。
昨日から泣いてばかりいる。泣くことをずっと疎んでいたのに。私はあの人のようにならないと、決めていたのに。
瞳を閉じた。無意識のうちに、ニックの薄い胸に頭をもたれていた。ニックの体が緊張に固まるのが伝わってきたけれど無視した。清潔なシャツの匂いが鼻先に漂う。心の底からすくいとったような深い息をはいた。
ニックを見上げる。ニックも春子を見ていた。穏やかな黒い眼。もうさっきのように、肌の下まで刺してくるような目じゃない。ほっとして、ほっとしたら悔しくなった。自分ばかり心を読まれているみたい。狡い。
「ばか」
じろっと睨んで言うと、ニックは途端に表情を崩して
「えっ。あの、す、すみません。僕、失礼なこと言ってしまって……」
手でさりげなく目をこすって涙を拭う。笑顔を作って、
「もうココア作ってあげるのやめようかな」
「えっ」
ショックを受けた顔に、おもわず本当に笑ってしまう。片手で口をおおう。ふと、肩の力がぬけるのを感じた。
「ほら、帰るわよ」
その声にニックがこちらを見た。あ、と春子は思った。
ニックが微笑んだ。うれしそうに、幸福そうに。
はじめてみる、本物の笑顔だった。
春子はそっと息を吐いた。
こんな風に笑うんだ。ゆっくり開く花のように、そっと静かに笑う。華美ではなく、けれど心をあたたかくさせる笑み。
春子は、自分も笑っていることには気がつかなかった。




