出会った男
それじゃ、僕はもう行くから。
その男は春子の顔も見ずに言った。
春子はきれいに洗われたスニーカーを履く、男の後ろ姿をぼんやりと見ていた。小さくブランドロゴの入ったボストンバッグが彼の隣に置かれている。男が所属しているサークルの合宿にも使っていたボストン。3泊4日の合宿に使っていた鞄に彼の荷物がすべて収まっているのがふしぎだった。男というのはどうしてこうも、荷物が少ないのだろう。
彼は立ち上がってボストンバッグを片手で持ち上げた。一瞬重量でボストンが下がる。
春子はただ黙って彼を見つめていた。ゆるいパーマのかかった黒髪を、左の耳にかける。彼の後ろのドアから、近所の子どもの笑い声が聞こえた。甲高い声が静かな部屋を刺すように響く。
「元気で」
ドアを背にまっすぐ立った彼の瞳は真っ赤に充血していた。ボストンバッグを握る手も、唇も震えている。
自分から別れを切り出したくせに、どうして最後に悲劇のヒーローを演じたがるのだろう。
「ごめん、こんなことになって」
俯く男の左の目から、一筋の涙が滑った。
涙もろい人だった。だった、と早くも過去系で男を表す自分を、おもわず嗤いそうになる。涙ではなく、笑いに歪みそうになる口元をそっと押さえ、目をそらす。男はなにを勘違いしたのか、いよいよ本格的に涙を流し始めた。
ドサッと大きな音をたててボストンバッグを玄関に落とす。玄関に並べていた春子のハイヒールが片方、落ちた鞄につぶされる。
男はその大きな体で、春子を抱きしめた。何度も嗅いだ男の匂いが、春子を包む。熱い体温。湿った首筋から、汗のにおいがした。
春子はつかの間、されるがままに目を閉じる。男に思い切り抱きしめられることは心地いい。
うっとりしている春子を、男は全身の神経をそそいで、とばかり今度は勢いよく体から引き剥がす。真っ赤な目で春子をまっすぐ見つめ、はっきりと言った。
「さようなら」
なにかを吹っ切った決然とした表情で、今度こそ春子を一度も見ることもなく彼は扉を開くと、出て行った。
扉が開いた瞬間、外の冷気がひやっと春子を包んだ。抱きしめられたぬくもりはあっという間にかき消される。
バタン。
ドアの閉まる音に続いて、コンクリートの廊下を歩いていく足音が刻まれていく。春子はそこに立ったまま、鞄に潰され転がったハイヒールをぼんやりと見ていた。また近所の子どもの笑い声がする。今度はハッキリと会話も耳に届く。
ねぇおとうさん、きょうサンタさんくるー?
さぁどうかな、おまえがいい子にしてたらなぁ、来るかもしれないぞ。
「……来ないわよ、サンタクロースなんて」
おもわず呟いて、唇を強くかみしめる。
来ない。
サンタクロースなんて来ない。
そのままコンクリートの玄関にずるずるとしゃがみこむ。折った両膝に額を付け、自分で自分を抱きしめるようにうずくまる。流れる長い黒髪が、春子をこの世界と切り離す帳のように体を覆った。
また一人になってしまった。
十二月二十四日。
クリスマス・イブだった。
玄関を背にして左側にトイレと風呂、右側に春子と男、それぞれの部屋が二部屋つづいている。玄関に近い部屋は今、完全な空になっている。春子は通り過ぎるときチラリと一瞥したが、別段なんの感情も沸いてこなかった。
玄関からまっすぐに進み、リビングのドアを開ける。
ヒーターが点いたままになっているリビングはあたたかく、玄関の寒さで硬くなっていた体がほっとゆるむのを感じた。
黒いカーペットに黒いビニール革のソファ。スタンドランプはスタンドが黒で、ランプカバーは白。アルバイトで溜めたお金で思い切って買った黒い液晶テレビは大型の三十二インチ。リビングの中央にあるテーブルはガラスでできていて、低い脚は黒く猫足を象っている。
リビングとつながっているキッチンも、主がよほど料理をしないか潔癖であるかのどちらかであることを伺わせる整頓された形を保っている。冷蔵庫は黒。冷蔵庫のドアに貼られているメモにはゴミ出しや料理係りの当番表が付いたままになっている。
余分なものの無い、モノトーンでできた四角い箱。
彼ははじめて春子の部屋に来たとき、「家具の雑誌に出てきそうだね」と無邪気な笑顔で春子を振り返った。誰もが同じことを言う。春子は男の言葉に薄く笑った。
べつにお洒落な部屋づくりを意識しているわけではない。ただ、生活に余計なものを増やさなかったらこうなったのだ。女性らしい小物も、買って満足するだけで使わない鞄にも服にも興味はなかった。
テーブルの前のソファに倒れこんだ。壁にかかっている時計を見る。七時前。時間を見たらお腹がすいてきた。リビングにつながっているキッチンをぼんやりと見る。なにも作る気がしない。ピザでも取ろうか。
クリスマスの夜、ひとりでピザを食べる女。
自分で想像して笑ってしまった。あの男は今夜、新しい恋人とオシャレなレストランでディナーだろうか。春子の知らない女と楽しそうにクリスマスケーキを頬張る男を想像してみる。嫉妬も恨みも沸いてこなかった。ただ、また今回も、と思う。
また同じことをしてしまったんだ、私。
正面の電源の点いてないテレビに、無表情でこちらを見る自分が映る。
テレビも今日はクリスマス一色だろう。イルミネーションもクリスマスソングもいらない。はやくクリスマスなんて終わればいい。リビングに面したベランダから覗く景色に視線をうつす。家々の灯りが闇夜の世界にポツポツと光をまたたかせていた。
春子はマンションの十二階に住んでいる。東京の足立区と埼玉県の境にあり、都心に出勤する人たちがベッド・タウンとして活用する「ギリギリ東京じゃない街」。住み始めて二年になる。
通う大学までわずか二駅で行けることと、駅から歩いて五分もしない立地条件が好ましかった。すぐ近くには本屋とドラッグストアと大型家電量販店が入ったテナントがあり、コンビニも弁当屋も病院もある。各駅停車しか止まらない街だけど、住むには便利だった。
マンションの部屋から夜を見る。この高さだと、家の明かりも夜空の星もあまり変わらない。だけどクリスマスの家々の灯りは、ここまでとうてい聞こえない笑い声までも含んでいそうで、夜空の下孤独に光る星を凌駕して輝く。
でも、私はちがう。誰といても、また一人になっても、やっぱり。
私の部屋の灯りはきっと、星の光り方だ。自分だけでは光れない。太陽の輝きを一瞬だけもらって、光る。その証拠に――。
視線を外からリビングに戻す。
どれだけ灯りをともしても、どうしてこうも空虚なのだろう。無機質なのだろう。
冷蔵庫のなかにいるみたい。無機質で、明るいのに寒い。
もうずっと、春子はそんな冷たさの中にいる。
長いこと、ずっと。
あたたかい室内で物思いに沈んでいると、ふたたび睡魔におそわれる。やけに体が疲れている。昨晩あまり眠れなかったせいだ。あの男が、話し止めないから。春子はわかった、と何度も言っていたのに。結局、酔っているのだ。自分に。
つぎは、どうしようかな。
眠りに落ちる直前のあたたかさに身をたゆたせながら、春子はおもう。
次は、どんな人を招きいれようか。
眠りの世界に誘われるその一瞬前だった。
「――あの、すみません」
声がした。
え?
春子はハッとして目を開ける。ソファから身を起こし、声のしたほうを振り向く。
どくん、と心臓が大きく鳴る。からだの血がいっせいに引いた。
ベランダに、男が立っていた。
サスペンスドラマで、若い女は襲われたとき必ず声を上げる。でも、あんなの嘘だ。本当の恐怖に身を曝されると、声なんて出ない。身動きひとつできない。金縛りにかかったようだ。浅く呼吸をしながら、春子は男から目を離せずにいた。
目の前に立つ男は全てが黒かった。夜の狭間から現れたようだ。肩に垂れている真っ黒い糸のような髪。
その髪が縁取る輪郭に埋めこまれた黒い目が、春子を捕らえた。なんの感情もなく、目というより穴を思わせた。二つの暗く深い穴。吸いこまれたら二度と這い上がることができないほど底知れぬ深さなのに、つい身を乗り出して中を見ずにいられない、朽ちた井戸を思わせる目。
男がベランダからガラス戸に手をかけるのを、春子は呆然と見つめていた。ソファに縫いつけられたかのように動くことができない。呼吸が速くなる。手足が冷たい。流れる血が冷水に代わったかのようだ。
部屋に冷気が入ってきた。目を見開く。鍵はかかっているはずなのに――。
明るい照明の下、夜を背景に男は春子の部屋に立っていた。
奇異な身なりだった。魔女のような膝下までの黒いワンピースを着ている。けれどだいぶ汚れ、すそがぎざぎざに裂けている。裸足だった。しかし春子を恐怖の底に落としたのはそんなことではない。
黒い服をまとった男の背中には、翼があった。
カラスのような、漆黒の羽。あまりに大きい為、端がガラス戸に引っかかりそれだけまだ外の空気にさらされている。
男は気にする風でもなく、じっと春子を見つめている。春子も男から視線をはずすことができない。思考が麻痺している。
ありえない、こんなこと。
男が口を開いた。黒い身なりに反して、口蓋だけは血のように鮮烈な赤だった。毒々しいまでに。熟れすぎたリンゴのようだ。
「すみません、ここ、どこでしょうか」
見た目に反して、声変わりする前の少年のような、高い声だった。春子が反応できずにいると、男は困ったように一瞬俯いて、そのまま上目遣いに再度尋ねた。
「あの、ここって、どのへんでしょうか?」
――ココッテドノヘンデショウカ。
言葉の意味が脳にとどくまでに時間がかかった。震える体が、声を出すことを拒否している。硬く握りしめた拳の爪が掌に食い込む。その痛みが気絶することをどうにか食い止めていた。
男はゆっくりと春子に近づいていく。一歩、二歩。
「あの、すみません――」
「近づかないで!」
大声を出していた。ひきつって、甲高い声になる。
男は弾かれたように飛びのいた。見た目の恐さと異なる滑稽ともいえる仕草だ。しかしもちろん笑う余裕なんてない。
ドックン、ドックン。跳ね上がる心臓は痛いくらいだ。
「いいこと、三つ数えるうちに出て行って。さもないと、警察を呼ぶわよ」
声が震える。だいじょうぶ、だいじょうぶ。自分に言い聞かせる。
掌に更に強く爪を食い込ませる。痛みに眉をひそめる。かまわない。もっと痛くなれ。それで発狂せず男と対峙できるのならそのほうがいい。
男は大股二歩で春子に近づいてきた。あっと思ったときは手遅れだった。
鼻先に顔がある。後ろはソファで、部屋には春子しかいない。最悪の事態を想定して、恐怖に目を閉じた。
「すみません」
柔らかい声。そっとささやくような声音。
おもわず顔を上げると、男と目が合った。星のない夜を永遠に閉じ込めたような黒い瞳。男の背中についた黒い羽が、青白い顔に影をつける。
男は春子の握りしめた両手をつかんでいた。冷たい手だった。ギョッとして振り払おうとするも、無意味な抵抗だった。薄気味悪いほど白い両腕は、欠食児童のように細い。しかしその見た目からは想像もつかないほど力は強かった。恐怖が春子の心臓をギュッとわしづかみする。
もしむりやり襲われそうになったら、プライドにかけて舌をかんで死んでやろう。
そう誓ったとき、ふわり。男がそっと春子の手を開かせた。血の滲む掌。
男は掌をじっと見た。無表情だった男の顔に、はじめて表情らしきものが浮かんだ。
まるで自分が痛みを感じているかのように、わずかに眉を曇らせる。
「僕が恐いですか?」
「――――」
どっくん。どっくん。
心臓は喉までせりあがってきている。そんなの、ものすごく恐いに決まってる。突然窓から現れて、羽なんて付けてる裸足の男、正気とは思えない。男は、掌を見つめたままもう一度ささやいた。
「すみません。そうですよね、気持ち悪いですよね」
「……あなた……」
何者?
おもわず出かけた問いは、言葉になる前に遮断される。男は春子の手をはなし、
「あの、ほんとに、道に迷っただけなんです。すみませんでした」
言うやいなや、後ずさりしてガラス戸へと戻っていく。そして。
春子は目を見開いた。
男はベランダによじ登っている。まるで、そう、身を投げようとするかのように。今、片足を手すりにかけた。
「ちょ――」
恐怖も忘れ、ソファから飛び降りるとおもわず怒鳴っていた。
「なにやってるのよ!」
両足をベランダの手すりにかけた男は、おどろいたように振り向いた。その拍子に体制を崩す。春子の見ている目の前で、目が合ったまま傾いでいく体。
「やめて!」
走り寄る。理屈ではない。目の前で人が飛び降りようとしているのだ。さっきとは別の意味で心臓が音を立てる。そんな、やめて。
男の姿がフッと階下に消える。
「――いやぁ!」
その場にしゃがみこみ、絶叫する。誰かに体を揺さぶられたように全身がガタガタと震える。
なんで。うそでしょ。
体をかかえるようにうずくまる。寒さも感じない。
十二階下の地上でグロテスクに倒れている男を想像して、めまいがした。からだの震えが止まらない。今日はなんて一日なんだろう。
あの、大丈夫ですか。
「――――え?」
夜の気温と同じくらい冷たくなっている顔を、のろのろと上げる。そこには。
春子は今度こそ、声を失った。
ベランダの手すりに手をかけて、男はこちらを見ていた。
ただし、ベランダの向こう(・・・)側に立って。
氷漬けになったように固まって動かない春子にとまどったように、男はおずおずと手すりから両手を離した。空いた両手を胸の前でもじもじと動かす。
「あの、すみません。僕、見ての通り、なんですけど。この通り元気ですので、ご心配は無用です」
黒い羽が、男の肩の上で大きく広がっていた。時おり傾いた体の向きを微調整するようにはためく。男の羽が作りだす風が空気を小さくかき混ぜる。
――これ、なに?
男の上に人形劇で使うようなテグスやロープは見えない。
カラカラに乾いた喉を、息の塊がごくりと音をたてて通っていく。体がおののいた。
飛んで、る。
人が、空を。飛んでいる。
「あの、驚かせてしまいまして、すみません」
「――――」
すみませんじゃないわよ、死ぬほどおどろいたわよ。あなた、大体どんな体の機能でそんなことになってるのよ。今のところまだ人類は空を飛ぶことはできなくて、ましてやそんな羽を付けてなんて物理的にも無理があって、だからあなたって結局のところ。
「何者なの」
男はとまどったように頬をかいた。爪が異常なまでに長い。異常といえばすべて異常なんだけれど。
まさか。チラリとおもう。まだパニック状態にある脳が、判断する前に言葉にした。
「……サンタクロース?」
――ねぇおとうさん、きょうサンタさんくるー?
とっさにそんなことを聞いてしまったのは、女の子の言葉が頭の片隅にあったからだろう。男は勢い良く首を横に振る。
「ち、ちがいます」
「……そうよね」
いい歳をして、たとえ一瞬でも「サンタクロース?」などメルヘンチックなことを聞いてしまった自分が、しかし恥ずかいとも思えないほど頭が麻痺している。ぼんやりと目の前に浮かんでいる男に見入った。
「僕は」
男は言葉を口にする寸前、目をつぶり眉を寄せた。今から忌まわしい呪いを口にするとでもいうように。
ゆっくりと男の口が開かれる。闇夜に目立つ真っ赤な唇。
「――悪魔です、すみません」
悪魔。アクマ。
春子はぼんやりと、男の言葉を反芻する。
漫画で、映画で、音楽の授業で――あれは「魔王」だっけ? まぁどっちでもいい。
サンタクロースと同じくらい有名な空想上の生き物。言われてみれば、男の身なりは明らかにサンタクロースよりも悪魔のほうがしっくりくる。まさしくイメージ通りの「悪魔」だ。
春子は目の前に浮かぶ人物を凝視した。寒さはとうに感じなくなっている。
でも、と同時に思う。
ちがう。
色んなところで折にふれ読んだ、聞かされた「悪魔」は、この男とはちがう。
外見はたしかに恐ろしい。とがった耳もぞっとするほど黒い瞳もそがれた鼻腔も、そしてなによりこの翼も。ハロウィンで悪魔のコスプレをすれば、こんな感じになるだろう。
自分を悪魔だという男は、胸の前で落ち着かなげに両手を組み合わせている。時折こっちを伺うように見るけれど、春子と目が合うと一瞬でそらす。教師に立たされている児童のようだ。
――気持ち悪いですよね。
さっきこの男は、自分で自分をそう言った。
男に対し消えることのなかった恐怖が、「悪魔」と言われてからのほうが薄らいでいくのを感じる。
目の前で空を飛んでいる。人間の構造上は絶対にできないこと。まちがいなく、この男は春子とは違う体のつくりで生きている。
春子はゆっくりと立ち上がって、手すりに手をかけた。男の顔を正面からじっと見る。男はとまどったように後ろにスッと下がる。
「それでは、あの、僕――」
「ねぇ」
春子は大きな声を出した。この男が夜に溶けるのはきっと、あっという間だ。
男は叱られた犬のような顔で春子を見る。
そんなに恐がらなくてもいいじゃない。なんだかおかしくなるけど、表情には出ない。
「あなたのこと、もっと話してちょうだい」
春子の後ろには灯りの点いたままの部屋があった。空っぽのまま光る箱。つめたく明るい冷蔵庫のへや。
一人でいたくなかった。
いつもそんな理由で、それだけの理由で、はじめてしまう。
春子は微笑んだ。どんな状況でも、笑顔は自分の中から引き出すことができる。今日はこれを着よう、と決めてクローゼットから洋服を取り出すように、的確に。
「部屋に入らない?」
男は名をニックと名乗った。姓はなし。ただのニック。
「ニックって、このスペル?」
春子は冷蔵庫に貼ってあった当番表メモを剥がし、その裏にボールペンでNickと書いた。
癖なのか緊張なのか、肩をグッと上げて正座して座るニックは紙をじっとのぞきこみ、やがてへらっと笑った。弱いものが強いものに媚びて反射的に出してしまうような、だらしない笑い方だった。
「あの……わかりません。すみません」
字という概念がないのだろうか。でも言葉は通じている。単に知らないだけだろうか。自分とそう変わらない年齢に見えるけれど、いくつくらいなんだろう。
疑問は次から次へと浮かんできて、頭をかき回す。オーバーヒートして熱くなる脳を落ち着かせようと、フーッと息を吐く。吐く息は震えていて、まだ自分が完全に冷静さを取り戻してないことを表している。
当たり前だ。
ニックをチラリと見る。
ニックの羽。浮かんでいるときはテントのようにピンと張られていたけれど、今は正座している体に沿うように閉じられている。
カラスの羽のように真っ黒だけれど、間近で見ると一本一本がとても大きく長い。胸まである春子の黒髪と同じくらいだ。その羽にさわってみたい衝動にかられた。
悪魔の羽。どんな感触がするのだろう。禍々しいまでの黒はしかし、見るものを引きつける昏い魅力を放っている。
じろじろと自分を見る視線に耐えかねたように、ニックはガラステーブルの下からのぞく自分の両手を握りしめながら落ち着かなげに身をよじる。黒いカーペットに翼がこすれた。春子はその様子を見ながら、Nickと書いた隣に、自分の名前を書く。
佐藤 春子
「私の名前よ。サトウハルコ。読んでみて」
「さとうは、るこ?」
「さとうは、じゃなくて、さとう、はるこ」
小さな子に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。ニックは真っ黒な瞳でじっと春子の動く口元を見ている。やがてゆっくりとくり返す。
さとう、はるこ。
「そう。よくできました」
ニックはますます居心地が悪そうに身じろきする。組んだ両手をほどき、指で自分のワンピースの胸もとをつまみながら、視線を部屋の遠くに移動させる。穴ぼこのような深く黒い目を落ちつかなげにしばしばと瞬かせた。
春子は気にせず質問した。
「あなた、へんな服着てるけど……男よね?」
ニックは首をかしげ、
「はい。この服、変なんですか? 地獄では、みんなこれを着るんです」
なにげなく返ってきた言葉に息をのむ。地獄。本当にそんなものあるのだろうか。
鼓動が大きくなる。おもわず前のめりになり、ニックの胸ぐらをつかみ引き寄せた。
「うわっ」
仰天したニックが悲鳴をあげる。さっきと逆だ。しかしそんなこと気にしていられない。
「そこにいる人、あなた知ってるの」
「え……」
「人間て、死んだら行くの? そこに」
声がかすれる。心臓が高鳴るたびに、自分の体温が吸い取られていく気がする。
「おしえて、そこに、だれがいるの」
ニックはどまどったように何度も目をまたたく。春子は手にいっそう力をこめた。
「そこに行ったらどんな目に遭うの。おしえて」
あ、とおもった、一瞬後。
ニックの目がおどろきに見開かれる。次の瞬間、ぐにゃりと歪んだ。熱い涙が頬をつたう。
――あなたは、そんなところにいないわよね?
ニックの胸元から手を離して、両手を顔にあてる。春子の持っているすべての記憶のなかで、いちばんあたたかいもの。まだ世界がきらきらと光って見えたあの頃。
はる、いってきます。
笑って手を振る後ろ姿。口から言葉がこぼれた。
おとうさん。
「……おとうさんて、なんですか?」
そっと問う声に、悲しみの淵から春子は顔を上げた。ぬれた頬に黒い髪が貼りつく。困惑したように自分を見るニックと目が合った。
「え……」
取り乱した姿を見られたことよりも、質問の意味に衝撃を受けた。
おとうさんて、なんですか。
「今、なんていったの」
おもわず聞き返す。ニックもとまどったように、反芻する。
「オトウサンは、あなたの知り合いですか」
「……えっと」
にわかに混乱する。「おとうさん」が父親をさすことを知らない、という意味なのだろうか。それとも父親という存在そのものがわからないのだろうか。
「あなたには、いないの? 家族。おとうさんや、おかあさん」
ニックは眉根を寄せて春子を見た。怪訝な顔をしている。
「僕たちは、生まれるときは一斉に生まれます。地上の生き物が玉の中から生まれるのと似ています。そこに、オトウサンとオカアサンはいません」
僕たち、と悪魔を総称してニックは言っている。でも、と春子は思う。
「じゃあ、どうやって生きていくの」
ニックはしばし、質問の意味がはかりかねたように逡巡していた。長い爪で頭をかく。糸のように細長い黒髪がサラサラと流れる。
「僕たちは、生まれてからずっと、自分だけで生きていきます」
これで質問の答えになるのだろうか、ととまどったように小首を傾げてニックは応えた。
春子は、教師に分からない質問を振られたような顔で答えるニックをじっと見た。真っ暗な闇の中、卵から還る目の前の男を想像してみる。まだ小さな、人間の赤ん坊とかわらない大きさ。泣きながら、生まれ落ちる。
けれど抱きとめてくれるひとも、ご飯を与えてくれるひともいない。
そんな世界から来たのだ。目の前に座る男は。
「オトウサンという人は、地獄にいる人間の中にもいなかったと思います」
ニックは言葉をさぐるようにゆっくり話す。
「地獄は広いので、僕もそこにいるすべてのものを知っているわけではありません。でも」
春子の頬に残っているであろう涙の跡に目をやり、
「自分のことを思って泣いてくれる人がいる人間は、地獄には一人もいません。だからオトウサンは、地獄にはいません」
朗らかに、だから大丈夫です、と重ねて言う。春子はニックの言葉から、地獄を想像した。
自分のことを思って泣いてくれる人が一人もいない世界。どんな荒涼とした場所なんだろう。
同時にふと思う。
私はどうだろう? 私のことを思って泣いてくれる人はいるだろうか? 別れたばかりの男の顔を思い出す。彼の涙は、自分の為の涙だ。コイビトと別れる状況に酔っていただけで、私のために泣いていたわけじゃない。
だったら。私は地獄行きかもしれない。
苦いものを舐めたような感覚が胸に広がり、なのに口元は笑ってしまった。
べつにいい、それでも。
あの人が地獄に行ってないのならば。
春子はふぅっと息を吐く。これ以上地獄に関しての質問はやめにしておこう。世の中、知らないですませるならそうしたほうがいいこともあるのだ。あまりに多くを知りすぎると還ってこれない。常識とか良識とか世間とかに。ただでさえ自分はそこの境界を越えやすいのだから。
おもいきり泣いたせいか、喉がかわいた。そういえばおなかも空いていたんだった、と思い出す。
会ってすぐの人間に泣き顔を見られるなんて、常の春子では考えられないことだった。けれど思いのほか羞恥もない。相手が人間ではないからだろうか。それとも色んなショックで感覚が麻痺しているのだろうか。ゆっくりと立ち上がり、キッチンへと向かいながら問う。
「あなた、行くところはあるの」
最初春子に、ここはどこですか、と尋ねた。行きたい場所があるのかもしれない。
ニックを見ると、質問に恥じ入ったように首をすくめる。
「いえ、あの、ひたすら上を目指していたので、ここが地上かわからなくなって……。すみません」
「べつに謝らなくてもいいけど」
朝、男が飲んでいたコーヒーカップがそのまま流し台に置いてある。それを無視して、別のグラスに冷蔵庫からミネラルウォーターを注ぐと飲み干す。
「じゃあ行くあてはないのね」
水を飲んでから薬缶に火をかける。薬缶も黒だ。徹底してるね、と男は笑った。火力を「強」に設定して火をつける。やわらかい青い炎がコンロの下に立ち上がる。春子はニックを見ないまま言った。
「もし、すぐに向こうの世界にもどるわけじゃないなら――」
「もどりません」
思いのほか強い口調でニックは言った。
「僕はもう、あそこにはもどりません」
ニックをチラリと一瞥する。ふーん、と受け流して
「じゃあここに住む?」
へ? とまぬけな声が返ってきた。ぜったい家には帰らない、と家出少年のような決意表明をしていたニックは、あわてたように春子を見た。
春子は再び笑顔を引き出した。薬缶が水を湯に変えるべく低い音をたてている。
「ちょうどさっき、部屋がひとつ空いたのよ」
アパートの大家のようにさらりと言った。ニックがなにを思い向こうの世界からやって来たのか。なぜもどりたくないのか。そんなことはどうでもよかった。ただひとつ言えること。
この部屋にひとりでいたくない。相手がだれであってもかまわない。そう、たとえ悪魔だとしても。
ニックは呆然と春子を見ていた。まるで悪魔に魅入られた人間のように。そして春子は、人間をたぶらかす悪魔のように悠然と微笑んだ。
十二月二十四日。クリスマス・イブ。
こうして春子と悪魔は出会った。




