幽閉四日目 『一年の問題やろ? 楽勝やに』
幽閉四日目の朝。
離れのすみに、僕の通学カバンが置いてあった。
中には、夏休みの宿題が全部入っていた。
「磯部さんが、いっしょに運んでくれたんやに。気ぃきくやろ」
志摩貴春先輩は、自分の手がらみたいに言った。
誘拐のついでに、宿題まで運ばれている。
この家からは逃げそこねたうえに、宿題からも逃げられないらしい。
先輩は僕の布団を部屋のすみへ押しやって、部屋のすみの机を指さした。
「ほな、やろか。机つるで。そっち持って」
「机を、どこに吊るすんですか」
「吊るさへんわ! 運ぶことやん。学校でも掃除のとき言うやろ」
言っていた。
みんなが何を吊るしているのか、ずっと分からなかった。
僕は中学のとき、親の転勤で関東から越してきた。
三重の言葉は、いまだに半分くらいしか分からない。
二人で机を、部屋のまん中までつった。
先輩は僕のとなりに、ぴったり座った。
近い。
シャンプーのにおいがして、数学どころではない。
「一年の問題やろ? 楽勝やに。見せてみ♡」
先輩は、僕の問題集をのぞきこんだ。
のぞきこんだまま、動かなくなった。
一分たった。
三分たった。
エアコンの音だけがしている。
「……これ、今年から教科書変わった?」
「変わってません」
「ほな、問題のほうがまちがっとるな」
「まちがってません」
先輩は、ゆっくり問題集を閉じた。
それから、急に大きな声で言った。
「苦しいのもまた人生!!!!」
開き直った。
◇
先輩は押し入れから、古い紙のたばを出してきた。
「見てみ。これが本当のボクの実力や」
通信簿だった。
『よくできた』に、丸がずらりと並んでいる。
「な? ほとんど『よくできた』やろ。先生にも、ようほめられたんやに」
「先輩。これ、小学校のですよね」
先輩の声が、ひっくり返った。
「よ、『よくできた』は『よくできた』やろ!!!! 何年生でも!!」
中学と高校の通信簿は、最後まで出てこなかった。
そのとき、ドアが開いた。
おかっぱ頭が、ひょいとのぞく。
先輩の姪っ子の、つむぎちゃんだった。
「きはる、これ解ける? 学校でだれも解けやんかったやつ」
つむぎちゃんが出したのは、パズルのドリルだった。
図形を回したり、積み木の数をかぞえたりするやつだ。
先輩は、ちらっと見た。
「三番。次が七個。その次は、右から二つめ」
一秒だった。
つむぎちゃんが、答えのページをめくる。
「……ぜんぶ合っとる」
「こういうんは得意やねん。もこたんにも勝ったことあるで」
もこたんというのは、先輩の東京の友だちだ。
きのう、磯部さんに聞いた。
先輩は、鼻を高くした。
僕は自分の問題集を開いて、先輩の前に置いた。
「では、こちらもお願いします」
「それは、ちゃうねん」
「何がちがうんですか」
「それは勉強やん。ボクが得意なんは、ひらめきや」
先輩のひらめきは、教科書のないところでしか光らないらしい。
つむぎちゃんが、僕のノートを横からのぞいた。
「おにいさん。二問目、マイナスつけ忘れとる」
小学生に、符号のまちがいを見つけられた。
「つむぎ、公文で先までやっとるでな」
先輩が、また自分の手がらみたいに言った。
◇
夕方になった。
僕の宿題は、二ページ進んだ。
ほとんど、つむぎちゃんのおかげである。
片づけのとちゅうで、押し入れの奥に、もう一冊問題集があるのを見つけた。
表紙に『二年』と書いてある。
名前のところに、十か条と同じくせのある字で『志摩貴春』。
中は、まっ白だった。
「先輩。これ」
「二年の問題やで。キミには無理や」
「先輩にも、無理なんですよね」
先輩は問題集を取り上げて、押し入れのいちばん奥に戻した。
ふすまを、ぴしゃりと閉める。
「苦しいのもまた人生!!!!」
夏休みは、あと二十六日ある。




