幽閉一日目・夜 『お母さんのてこね寿司、世界一やでな』
ドアには、鍵がかかっている。
窓には、かかっていなかった。
普通に開いた。
網戸まで、するすると開いた。
幽閉とは。
僕は窓から顔を出した。
真っ暗だった。
街灯が一本もない。
かわりに、カエルが百匹くらい鳴いている。
駅まで歩いて二時間。
先輩はそう言っていた。
この闇の中を、二時間。
僕は静かに窓を閉めた。
網戸も閉めた。
虫が入るからだ。
鍵なんか、最初からいらなかったのだ。
◇
三十分後。
ドアの鍵が、がちゃりと鳴った。
「ただいま〜、童貞クン♡ ええ子にしとった?」
志摩貴春先輩が、お盆を持って入ってきた。
てこね寿司。
あおさの味噌汁。
それから、おにぎりが二つ。
米と、米だった。
「お母さんにな、夜食ほしい言うたら、おにぎりまで握ってくれたんやに」
先輩は、自分が握ったみたいな顔で胸を張った。
「食べてみ」
僕は一口食べた。
赤身の魚に、甘じょっぱいタレがしみている。
酢飯に、しそと海苔。
うまい。
誘拐された先で食べていい味じゃない。
「……おいしいです」
「せやろ!?」
先輩が、ぐいっと身を乗り出した。
「お母さんのてこね寿司、世界一やでな! カツオの漬け方がちゃうねん。ボク、これで育ったんやで」
目がきらきらしている。
さっきまで僕をからかっていた人と、同じ顔とは思えない。
「おにぎりも食べ。塩だけやのに、なんでかうまいんやに」
食べた。
なんでか、うまかった。
「先輩」
「ん?」
「ごちそうさまでした。では、帰ります」
「しぶといね。キミ」
先輩はあきれた顔で、僕のおでこを指ではじいた。
「スマホ、返してもらえませんか」
「一ヶ月後な♡」
「充電だけでも」
「しぶといねん」
二回目は、語尾が強かった。
「ほら、お風呂行くで。お風呂は母屋や」
「お母さんには内緒なんですよね?」
「いま居間でドラマ見とる。あと四十分は動かん。さっさと入り」
娘による、母の完全な行動把握だった。
僕たちは渡り廊下を、忍び足で歩いた。
居間のほうから、テレビの音と、お母さんの笑い声が聞こえる。
誘拐された側が、なぜ息をひそめているのか。
母屋の廊下には、絨毯が敷いてあった。
歩いても、歩いても、風呂に着かない。
「内風呂でええ? 露天のほうは今日、お湯張ってへんねん」
「露天風呂まで、あるんですか」
「あるけど?」
聞かなければよかった。
先輩が戸を開けた。
旅館みたいな風呂があった。
ひのきの湯船。
五人は入れる。
窓の外には、小さな庭まである。
壁には、テレビが埋まっていた。
「……ここ、家ですよね」
「家やで?」
「お風呂にテレビがありますけど」
「お風呂でも見たいやん」
答えになっているようで、なっていない。
「広いやろ? 一緒に入る?」
「入りません!」
「ンナハハハハハw 今日は一人で入らしたるわ♡ ボク、外で見張っとるでな」
今日は、と言った。
僕はひのきの湯につかりながら、考えた。
誘拐されて、てこね寿司を食べて、ひのき風呂でテレビを見ている。
被害届に、どう書けばいいのか分からない。
◇
無事に離れへ戻ると、先輩はドアに鍵をかけた。
にんまり笑っている。
「さて。ごはんも食べたし、お風呂も入ったし」
ポケットから、あの銀色の袋が出てくる。
「続き、しよか♡」
来た。
僕は正座した。
ほかに、どうしていいか分からなかったからだ。
「あの、先輩」
「なんや〜? こわなったん?」
「いえ。続きって、具体的に何をするんですか」
先輩が止まった。
「…………え」
「僕、経験がないので。先に手順を聞いておきたくて」
銀色の袋が、先輩の指から落ちた。
床の上で、ぺち、と鳴った。
「じょ」
じょ?
「冗談やん! 本気にしたん!? やらし〜、童貞クンやらし〜!」
先輩は袋を拾って、ものすごい速さでポケットにしまった。
長い髪で、顔が半分かくれている。
かくれていない方の耳が、赤かった。
からかわれたのだ、と僕は思った。
さすが経験者だ。
緩急がすごい。
「もう遅いで、寝るで!」
先輩が押し入れを開けた。
布団が一組出てくる。
先輩はそれを、自分のベッドの真横に、一ミリのすき間もなく敷いた。
「あの」
「見張りや。キミ、しぶといでな」
「窓、鍵かかってませんでしたけど」
「外、こわかったやろ?」
こわかった。
「ンフフフフw ほな、おやすみ♡」
電気が消えた。
カエルの声だけが聞こえる。
ベッドの上から、いい匂いがする。
眠れるわけがない。
十分くらいたっただろうか。
「……なあ」
小さな声だった。
さっきまでの先輩の声と、ぜんぜん違った。
「帰らんといてな」
寝言かもしれない。
僕は返事をしなかった。
できなかった。
幽閉一日目が、終わった。
あと二十九日ある。




