幽閉一日目 『おはよ、童貞クン♡』
目を開けたら、先輩が僕の上に座っていた。
おなかのあたりが重い。
あと、やわらかい。
長い茶髪が、カーテンみたいに僕の顔にかかっている。
「おはよ、童貞クン♡」
志摩貴春先輩が、にんまり笑った。
「ここ、ボクの実家の離れやで」
人生で初めて、女子に乗られた。
それが、誘拐の現場だった。
どうしてこうなったのか。
話は、今日の放課後までさかのぼる。
◇
僕はモテない。
女子との最後の会話は、中学の体育祭で言われた「じゃま。」だ。
しかも、あれは会話ではなく指示だった。
そんな僕でも、二年の貴春先輩のことは知っている。
学校の全員が知っている。
茶髪のロングに、長い脚。
実家は三重のすごいお金持ち。
そして、こんな噂がある。
――年下の童貞を見つけると、実家に一ヶ月幽閉するらしい。
冗談だと思っていた。
普通、思う。
一学期の終業式が終わった帰り道。
階段の踊り場で、その貴春先輩がうずくまっていた。
震えていた。
肩も、指先も。
動物病院の待合室のチワワみたいに、小さく。
声をかける勇気は、僕にはない。
あったらモテている。
……でも、そのまま通り過ぎることもできなかった。
僕は自販機で水を買って、先輩の横にそっと置いた。
それから、その階段の三段下に座って、スマホを見るふりをした。
何分たったか分からない。
急に、後ろから叫び声がした。
「……な、なんやあ!?」
振り向くと、先輩が両手をほっぺたに当てていた。
顔が真っ赤だった。
「キミ、いつからおったん!? え、この水、キミの!?」
「あ、はい。いらなかったら捨ててください」
「捨てやんわ!」
先輩は水のペットボトルを胸に抱えて、僕をじっと見た。
「……あ、あり、ありがとぉ」
噛んだ。
噂の先輩が、お礼で噛んだ。
「キミ、一年生?」
「はい」
「……彼女おる?」
「……生まれてから一度も」
その瞬間、先輩の目が光った。
本当に光った気がした。
「ほな、これお礼」
先輩がスクールバッグから出したのは、伊勢茶のペットボトルだった。
僕は素直に飲んだ。
女子から物をもらったのが、生まれて初めてだったからだ。
三口目で、階段が回りはじめた。
◇
「……さっきのお茶な、睡眠薬入れててん♡」
先輩は僕の上で、楽しそうに言った。
「犯罪ですよね!?」
「ンナハハハハハww」
笑ってごまかされた。
「というか、なんでそんなお茶を持ち歩いてるんですか」
「そんなことより〜」
流された。
「見てみ。ええ部屋やろ?」
言われて、僕は首だけ動かして部屋を見回した。
広い。
僕のアパートの部屋より、どう見ても広い。
エアコンは静かに効いていて、木の床がぴかぴかに光っている。
奥には、僕の背より高い冷蔵庫まである。
壁ぎわには、大きいソファと本棚。
本棚には、ゲームのパッケージが、ぎっしり並んでいる。
「幽閉って、もっとこう……座敷牢とかじゃないんですか」
「そこの冷蔵庫は、飲みもんしか入ってへんけど。母屋の冷蔵庫には松阪牛あるで。食べるか?」
「なんで人質をもてなすんですか」
「今日から夏休み。一ヶ月、ここがキミのおうちやに♡」
「帰ります」
「逃げたいん? 駅まで歩いて二時間やで」
先輩は僕の鼻を、指でつんとつついた。
「もう、逃げれや〜ん♡」
それから先輩は、ポケットから小さな四角い袋を取り出した。
銀色の袋。
「0.01」と書いてある。
先輩はそれを、口にくわえた。
長い髪を、そっと耳にかける。
「幽閉一日目、はじめよか♡」
よく見ると、くわえた袋の端が、かすかに揺れていた。
カチ、カチ、と小さな音もする。
歯が鳴るような音だった。
エアコンが効きすぎているのかもしれない。
余裕の笑みだ、と僕は思った。
これが経験者か。
僕は震えた。
そのとき、ドアの向こうから声がした。
「貴春〜! ごはんよ〜!」
「…………は〜い! お母さん! すぐ行くで、待っといて〜!」
先輩の声が、一瞬で、甘くなった。
語尾まで丸くなった。
誰だ今の。
先輩は袋をポケットにしまって、僕の上からぴょんと降りた。
「今日な、てこね寿司やって。お母さんのてこね寿司、世界一やでな」
聞いてないです。
「キミのぶんも、あとで持ってきたるわ。お母さんにはまだ内緒やで、静かにしとってな」
幽閉されている側が、協力を求められている。
先輩はドアの前で振り返って、にんまり笑った。
「続きは、ごはんのあとやに。かわいがったるでな、童貞クン♡」
ドアが閉まる。
外から、鍵のかかる音がした。
遠ざかっていく足音は、どう聞いてもスキップだった。
僕の夏休みは、こうして始まった。
始まってしまった。




