幽閉七日目 『ケッタで逃げれると思たん?』
きのう、先輩に「合格や」と言われた。
それから、ずっと考えている。
このままだと、僕は本当に一ヶ月、ここにいてしまう。
幽閉七日目。
夜明け前。
先輩はベッドの上で、まくらを抱いて眠っていた。
僕は布団をたたんで、窓を開けた。
窓は今日も、鍵がかかっていなかった。
◇
物置に、自転車があった。
前にかごのついた、赤いやつだ。
ほこりをはらって、またがる。
タイヤの空気は、ちゃんと入っていた。
門を出て、坂を下った。
風が気持ちいい。
家まで帰れる、と思った。
地図は頭に入っていないけれど、海と反対のほうへ行けば、たぶん伊勢だ。
小さな漁港の横を通った。
船のエンジンの音と、魚のにおいがした。
関東にいたころは、朝の港なんて見たことがなかった。
こぎながら、家のことを考えた。
うちの親は、僕が部活の合宿に行っていると思っている。
先輩が、初日に電話でそう言ったからだ。
僕は、部活に入っていないのに。
帰っても、たぶん誰も驚かない。
それでも、ペダルをこいだ。
三十分後。
僕は、長い上り坂のまん中で、自転車を押していた。
志摩は、坂しかない。
下った分だけ、上らされる。
息が切れた。
ガードレールに腰かけると、空が白くなってきた。
遠くから、車の音がした。
黒い車だった。
開いた窓から、聞きなれた声がする。
半分、さけんでいた。
「磯部さん、そこ右!!……右ってどっちや!? 意味が分からん!!」
運転手の磯部さんは、だまって正しいほうへハンドルを切った。
車が、僕の前でとまった。
「磯部さん、ハザードたいて待ってて!!」
ハザードは、たくものらしい。
後ろのドアが、とまりきる前に開いた。
パジャマの先輩が、転がるように降りてきた。
寝ぐせが、はねている。
先輩は、僕の腕をつかんだ。
肩で息をしていた。
つかむ手が、ふるえていた。
息を切らしたまま、先輩は言った。
「……っ、ケッタで……っ、逃げれると……思たん……っ!?」
もう片方の手で、僕の横の自転車を指さしていた。
ケッタとは、自転車のことらしい。
先輩は、その場にしゃがみこんだ。
息が落ち着くまで、しばらくかかった。
それから、少しだけやさしい声になった。
「……えらかったやろ」
「……偉かった?」
脱走を、褒められたらしい。
「いや、偉くはないです。失敗しましたし」
「ちゃうて。しんどかったやろ、って言うとるんや。三重では、しんどいのを『えらい』って言うの」
三重弁は、まだ半分も分からない。
「キミ、ほんまにしぶといなあ。一週間たっても、まだ逃げるんや」
先輩は笑った。
でも、目は笑っていなかった。
小さい声だった。
「……帰りたいん?」
帰りたいです、と言うつもりだった。
言うために、ここまでこいできたのだ。
口が、動かなかった。
「……わかりません」
先輩は、しばらく僕の顔を見ていた。
それから、立ち上がった。
「ほな、わかるまでおったらええやん!!!!」
坂の上まで、声がひびいた。
磯部さんが、だまって自転車をトランクに積んだ。
◇
帰りの車の中で、先輩は僕の手首をずっとつかんでいた。
「もう逃げやんように」
「逃げません。ケッタ、トランクの中ですし」
「ケッタがあったら逃げるんか」
僕は、答えなかった。
「そこは、逃げへんって言うとこやろ!」
そのうち、先輩は静かになった。
僕の手首をつかんだまま、眠っていた。
パジャマのひざに、草がついている。
暗いうちから、あちこち探していたらしい。
僕は、手首をふりほどかなかった。
家に着くと、先輩は目をこすりながら車を降りて、トランクの自転車を見て言った。
「それな、ボクのケッタやねん。中学のとき、買うてもろたやつ」
「そうだったんですか。すみません、勝手に」
「ええよ。一回も乗ってへんし」
「なんでですか」
先輩は、目の前の坂を見上げた。
「……坂、えらいやん」
今度は、ちゃんと意味がわかった。




