第四話 語録で返しちゃだめなやつ
連休二日目の夜、十時。
スマホが震えた。
『もしもし。門宮です。本日の講座を始めます』
布団の中のささやき声で、業務連絡が始まった。
門宮衛美は、通話でも最初の一分だけは優等生だ。
一分を過ぎると、こうなる。
『それでキングスリーグは七人制なんですけど試合前に引いたカードで試合中に特別ルールを発動できるんですここが普通のサッカーと全然違うところで』
「声」
『……声が』
自分で口を押さえる気配がした。
ごそごそ、と布団の音がする。
『失礼しました』
「うん」
『続けます。小さい声で』
小さい声は、耳に近い。
近い声で、彼女は一時間、サッカーの話をした。
僕、衛藤優一は、内容を半分も覚えていない。
覚えているのは、彼女が笑うとき、息が先に聞こえることだ。
連休三日目の夜。
今度は僕の番だった。
昔の配信の話をした。
といっても、僕が覚えているのは配信の中身じゃない。リビングの景色のほうだ。
親父が画面の前で笑っている。
母さんが「音、下げて」と言う。
僕はその横で宿題をやっている。やっているふりをして、画面を見ている。
「だから僕にとっては、うんこちゃんの声は、家の音なんだ」
『家の、音』
「冷蔵庫の音とか、風呂が沸いた音とか。そういうのと同じ棚に入ってる」
門宮さんは、しばらく黙っていた。
『いいなあ』
丁寧語が、取れていた。
『うちは、私だけなので。イヤホンの中にしか、ないので』
何か言わなきゃいけない、と思った。
思っているうちに、彼女の声が、だんだん遅くなっていった。
『えとうくん……』
「うん」
『あしたも……かけて……』
そこで途切れた。
かわりに、寝息が聞こえてきた。
切るべきだ。
切るべきなのは分かっている。
画面の通話時間は、二時間四十分を過ぎていた。
僕はスマホを枕の横に置いて、天井を見た。
耳元で、クラスで一番清楚な女子が、すうすう寝ている。
十分たってから、切った。
十分のあいだ何をしていたのかは、聞かないでほしい。何もしていない。聞いていただけだ。
連休四日目の夜。
『昨日は、すみませんでした』
第一声が謝罪だった。
『私、寝てしまって。通話、何分つながってましたか』
「すぐ切ったよ」
『履歴に、二時間五十分とあります』
「すぐ、切った」
『私が寝たのは、二時間四十分ごろだと思うんですが』
優等生は、計算が速い。
「十分は、誤差だ」
『誤差』
「誤差だ」
二回言った。
彼女は小さく笑って、それ以上は聞かなかった。
その夜、初めて僕のほうから聞いた。
「門宮さんは、なんで隠してるの。衛門だってこと」
布団の音が、止まった。
『……中学のとき』
声が、いつもよりもっと小さくなった。
『好きなものを言ったら、笑われたので』
それだけだった。
何を言って、誰に、どう笑われたのか。彼女は言わなかった。
『衛藤くんは、笑わないんですか』
笑う?
「笑うわけないだろ!」
声が出た。自分でも驚くくらい、大きかった。
「三周して、PDFを十二ページ作って、イタリア戦で三回泣く人間を、誰が笑うんだ! そんなの、いちばんかっこいい衛門だろ!」
壁が、どん、と鳴った。
「うるせえぞ優一! デート中か!」
親父だった。
僕は布団をかぶった。
「……失礼しました」
『……今の、誰ですか』
「僕です。忘れてください」
スマホのむこうで、彼女が笑っている。
笑いながら、少し鼻をすすった気がした。
『衛藤くん』
「うん」
『私、中学のとき、そう言ってくれる人が、一人もいなかったんです』
頭が真っ白になった。
棚が揺れた。落ちてくる。
「一発で——」
止めてくれる人は、いなかった。
彼女は何も言わずに、待っている。
だから、自分で止めた。
「……違う。今のは、語録で返しちゃだめなやつだ」
止めたはいいが、そのあとが出てこない。
自分の言葉の棚は、からっぽだった。
五秒。十秒。
何も言えないまま、時間だけが過ぎた。
『……今の、うれしかったです』
「何も言ってない」
『語録を、やめてくれたので』
彼女の声は、ささやきなのに、はっきり聞こえた。
『何も言えなくても、衛藤くんの言葉のほうが、いいです』
切る前に、彼女が言った。
『明日で、連休が終わりますね』
「そうだな」
『最後の日なので。同じアーカイブを、同時に見ませんか。せーの、で再生して』
「いいよ」
『それで、あの』
布団の音がした。
『明日は、ビデオ通話にしても、いいですか』
「え」
『顔を見て、話したいので。……布団からは、出ます』
通話が切れたあと、僕は部屋を見回した。
床に脱いだ靴下がある。
机の上に、先週のプリントが積んである。
壁に、親父が正月に書いた習字が貼ってある。『一発でいいわけ。俺達は。』。達筆だ。
明日の夜までに、やることができた。
まず靴下だ。




