第五話 せーの、で再生
『こんばんは。門宮です』
画面の中で、門宮衛美が頭を下げた。
四十五度。きっちり二秒。
『本日は、お時間をいただき、ありがとうございます』
連休最終日の夜、九時。
ビデオ通話の最初の一分は、面接だった。
背筋がまっすぐ伸びている。
髪は、学校と同じ位置で結んである。
うしろの本棚には、背表紙の高さをそろえた文庫本が並んでいる。連絡先のアイコンと同じ棚だ。
クラスで一番清楚な女子は、家でも清楚だった。
少なくとも、最初の一分は。
「……こちらこそ。衛藤です」
僕、衛藤優一も、つられて頭を下げた。
下げてから、なんで面接になっているんだ、と思った。
『では、始めます』
「何を」
『アーカイブです。先週の月曜の、トルネコのリマスターの回』
声が、一段上がった。
『風邪をひいてるのに、声がすごく明るい回です。私、あれを最初から見たかったんです。切り抜きでは見てたんですけど、通しでは、まだで』
一分が、過ぎたらしい。
『あの、途中で二体目の——』
「ネタバレするな」
『……失礼しました』
口を両手で押さえている。
押さえた手の向こうで、耳が赤い。
『では、せーの、で』
「せーの」
二人で、同時に再生を押した。
うちのリビングで聞き慣れた声が、僕のパソコンから流れた。
同じ声が、スマホの向こう、彼女の部屋からも小さく聞こえる。
〇・五秒くらい、ずれている。
「ずれてる」
『私のほうが、早いです』
「僕のほうが、押すのが遅かったのか」
『はい。〇・五秒』
優等生は、ずれまで測る。
配信の中で、うんこちゃんが鼻声で笑っている。
風邪だと自分で言っているのに、ずっと楽しそうだ。
ダンジョンを一歩進むたびに、よく分からない歌を口ずさんでいる。
『これです。これが見たかったんです』
門宮さんが、画面に顔を近づけた。
近づけすぎて、おでこしか映っていない。
『熱があるのに、なんでこんなに元気なんですか』
「うちの親父は、元気なときより風邪のときのほうが好きだって言ってた」
『分かります。コメント欄も、同じこと言ってます』
彼女は、配信を見ながら、コメント欄も読んでいる。
僕は配信しか見ていない。
同じものを見ているはずなのに、彼女は二倍、忙しい。
『このトルネコで受験を乗りきった、って書いてる人がいます。前の配信のときに』
「受験って、何年前だよ」
『分かりません。でも、そういうのを読むのが好きなんです。知らない人が、同じ声で、自分の話をしてるのが』
そう言ったときの彼女は、画面じゃなくて、どこか遠くを見ていた。
イヤホンの中にしか、ないので。
おとといの夜、彼女はそう言った。
コメント欄は、彼女にとって、リビングの代わりだったのかもしれない。
四十分が過ぎたころ、画面の中で、二体目が出た。
白い悪魔が、角を曲がった先に、もう一体いる。
配信の中で、うんこちゃんが、画面を二度見した。
『そこです!』
門宮さんが、立ち上がった。
スマホのカメラには、彼女の膝しか映っていない。
『二体目ですよ! 二体目! 一体目で安心したところに! ここ、切り抜きで何回見ても、ひゅってなるんです!』
膝が、ぴょんぴょんしている。
僕は笑った。声を出して、笑った。
膝が止まった。
ゆっくり、しゃがんで、顔が戻ってきた。
『……失礼しました』
「今の、誰」
『私です。忘れてください』
第一話と、まったく同じやりとりだった。
違うのは、今日の彼女は、少し笑いながら言ったことだ。
立ち上がったせいで、彼女の服が見えた。
学校のブラウスじゃない。
大きめの、灰色のパーカーだった。袖が長すぎて、指先しか出ていない。
結んでいた髪も、ほどけかけている。
清楚じゃない。
でも、こっちのほうが、ずっと門宮さんだった。
『……なんですか』
「なんでもない」
『今、何か言いかけました』
「言いかけてない」
かわいい、と言いかけた。
口に出したら、それはもう語録じゃない。僕の言葉だ。
だから、飲みこんだ。
彼女は目を細めて、画面の中の僕を見ていた。
それから、急に目を丸くした。
『衛藤くん。うしろの、壁の』
しまった。
靴下は片づけた。プリントも片づけた。
壁の習字だけは、画びょうが固くて、はがせなかった。
『一発でいいわけ』
門宮さんが、読み上げた。
そして、止まる前に、口が動いた。
『俺達は』
両手で口を押さえる。
遅い。もう言っている。
「反射で言った」
『言ってません』
「言った」
『言ってません』
二回。
『……達筆ですね』
「親父の字だ。正月に書いた」
『お正月に、それを』
「書き初めだ」
『書き初めに』
彼女は、ほどけかけた髪ごと、机に突っ伏した。
肩が、ずっと震えていた。
そのとき、僕の部屋のドアが開いた。
「優一、トルネコか。俺も——」
親父だった。
画面の中で、門宮さんが、跳ねるように起き上がった。
一秒だった。
背筋が伸びる。髪を耳にかける。パーカーの袖から、手をきちんと出す。
『はじめまして。衛藤くんのクラスメイトの、門宮と申します。夜分に、お邪魔しております』
四十五度。きっちり二秒。
親父は、口を開けたまま固まった。
「……ご丁寧に。父です」
『存じております。昨日、壁越しに、お声を』
「聞こえてたのか」
『はい。とても、よく』
親父は僕を見た。
僕は親父を見なかった。
「……優一。いい友達だな」
それだけ言って、親父はドアを閉めた。
閉めたドアの向こうで、廊下を歩く足音が、一回だけ止まった。
たぶん、立ち上がりかけて、座り直したのだと思う。廊下で。
アーカイブが終わったのは、十一時を過ぎてからだった。
『明日から、学校ですね』
「そうだな」
『明日からは、また、優等生です』
彼女は、パーカーの袖を指先まで引っぱった。
『なので、最後に、一つだけ』
「何」
『さっきから、目が合わないなと思ってたんです』
言われてみれば、そうだった。
僕は画面の彼女を見ている。彼女も画面の僕を見ている。
だから、カメラには、どちらの目も向いていない。
『カメラを見ると、目が合うはずなんです。でも、カメラを見ると、衛藤くんの顔が見えなくなるので』
「どっちかしか、できないのか」
『はい。なので、三秒だけ、カメラを見ます』
彼女が、まっすぐこっちを見た。
一。
目が合った。画面ごしなのに、合っていると分かった。
二。
彼女の耳が、みるみる赤くなっていく。
三。
『……以上です。おやすみなさい』
通話が、切れた。
真っ暗になった画面に、自分の顔が映っていた。
口が、開きっぱなしだった。
三秒。
目を閉じても、一秒目と二秒目と三秒目が、順番に戻ってくる。
三秒目の、耳の赤さが、いちばんはっきりしている。
僕も、カメラを見ればよかった。
見ていたら、目は合った。そのかわり、あの耳は見られなかった。
どっちを選んでも、正しかった気がする。
どっちを選んでも、同じくらい、眠れなかった気がする。
壁の習字が、こっちを見ていた。
十一月二十八日まで、あと、六十六日。




