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第二話 イヤホンは片方ずつ

「衛藤くん。イヤホン、片方いりますか」


 金曜日の放課後。図書室のいちばん奥、書庫の前。

 クラスで一番清楚な優等生が、持ち込み禁止のスマホを両手で持って、僕を待っていた。


 話は昼休みにさかのぼる。


 門宮さんは、いつもどおりだった。

 背筋を伸ばして、小さな弁当を食べている。話しかけられると、箸を置いてから返事をする。

 四時間目には先生に当てられて、教科書も見ずに正解を答えていた。

 昨日、教室で「三対一ですよ!」と叫んだ人と、同じ人には見えない。


 その人が、いつのまにか、僕の机の中に四つ折りのメモを入れていた。


 放課後、図書室の奥に来てください。当番なので、誰も来ません。


 きれいな字だった。名前は書いていない。

 書いていなくても、こんな字を書くのはクラスに一人しかいない。


 門宮(かどみや)衛美(えみ)。

 昨日、僕のひとりごとの続きを反射で言ってしまった、隠れ衛門(えもん)だ。


 誰も来ません、の一文を、僕は午後の授業のあいだに十回は読んだ。

 他意はない。たぶん、ない。

 僕、衛藤(えとう)優一(ゆういち)は、そういう期待をしない男だ。


 十回読んだけど。


「で、イヤホン」

「はい。見せたい動画があるんです。図書室なので、音は出せません」

「スマホはいいの」

「よくないです」


 門宮さんは真顔で言った。


「校則違反です。生まれて初めてです。さっきから手が震えています」

「じゃあやめれば」

「やめません。どうしても、誰かと見たかったので」


 彼女は書庫の前の床に、スカートを押さえてきちんと座った。

 僕もとなりに座る。本棚と本棚のあいだで、入口からは見えない場所だ。


 差し出されたイヤホンは、今どき珍しい有線だった。

 コードが短い。

 片方を僕の耳に入れると、もう片方をつけた門宮さんの肩が、僕の肩に当たった。


 彼女の肩が、小さく跳ねた。


「……すみません。コードが、短くて」

「いや」

「長いのもあるんです。家に」

「うん」

「今日は、たまたま、短いほうで」


 たまたま、を二回言わなかっただけ、昨日よりは落ち着いている。

 耳は赤い。

 僕のほうは、肩が当たっている場所のことしか考えられなくなっていた。


 まずい。棚が揺れている。


「一発で——」


 口の前に、文庫本が出てきた。

 門宮さんが、持っていた本で僕の口をふさいでいる。


「図書室です」

「……はい」

「言われたら、私、続きを言ってしまうので」


 声を出さずに笑っている。

 教室では見たことのない顔を、昨日から何回見ているだろう。


 動画は、おとといの配信の切り抜きだった。

 うんこちゃんと、歌手のオーイシマサヨシさんがやっているラジオ番組。

 十一月のハイゲFINALで流れるテーマソングを、生放送の中で、視聴者と一緒に作る回だ。


「これ、生で見てました」


 門宮さんが小声で言った。小声なのに、もう速い。


「最初の十分で曲の方向が決まって、そこからすぐにサビができたんです。何もなかったところに、目の前で曲ができていくんです。私、曲が生まれるところを初めて見ました。途中で転調するところがあって、そこで二人が同時に立ち上がって、私も部屋で立ち上がって、母に『どうしたの』って言われて」

「息して」

「してます」


 画面の中で、サビのメロディが流れた。

 片方の耳だけで聞いているのに、鳥肌が立った。昨日の鳥肌とは、種類が違う。


「ここ」

「ここ!」


 声がそろった。転調のところだ。

 そろったうえに、片方は大きかった。


「ここです! ここで上がるんです! 何回見ても、ここで立っちゃうんです!」


 門宮さんは、本当に立っていた。

 イヤホンが僕の耳から引っこ抜けた。図書室に、彼女の声だけが響いている。


 僕は、彼女の膝から落ちた文庫本を拾って、彼女の口の前に出した。


「図書室です」

「…………」


 門宮さんは文庫本のむこうで真っ赤になって、音も立てずに座り直した。

 座ってから、小さな声で言う。


「……熱くなると、だめなんです。止まらなくて」

「いいだろ、別に。熱くない衛門なんて、いない」


 彼女が顔を上げた。


 近い。


 目の前に、門宮さんの顔がある。

 彼女の目が大きくなって、それからゆっくり、画面のほうに戻っていった。


「……今のは、そろいましたね」

「そろったな」

「衛門なので」

「衛門だからな」


 二人とも、画面を見ている。

 たぶん二人とも、画面は見えていない。


 そのとき、入口のほうで戸が開く音がした。


 門宮さんが消えた。

 正確には、一秒で立ち上がり、スマホを本のあいだに挟み、髪を直して、カウンターに立っていた。


「返却ですね。お預かりします」


 小さくて、落ち着いた、いつもの声だった。

 下級生は「ありがとうございます」と頭を下げて出ていった。図書委員の先輩が三十秒前まで床で叫んでいたとは、夢にも思っていない顔だ。


 戸が閉まる。

 門宮さんが戻ってきて、僕のとなりに座り直した。


「……続き、見ましょう」

「誰も来ないんじゃなかったのか」

「ほとんど、来ません」

「今の、誰」

「私です。どちらも」


「衛藤くんは、どうでしたか。あの回」

「親父が泣いてた」

「お父さまが」

「八年前に、この番組の前の番組で、同じやり方で曲を作ってたんだよ。親父はそれを毎回リビングで見てた。僕はとなりで、宿題をやらされてた」

「ドラゴンエネルギーですか」

「知ってるんだ」

「曲は知っています。大好きです。でも、ああやって作った曲だとは知りませんでした」


 門宮さんが、目を輝かせて僕を見た。


「教えてください。その頃のこと、全部」

「全部は無理だ。小学生だったし」

「覚えているところだけでいいです。私、さかのぼっても、さかのぼっても、追いつけないんです。純さんの昔に」


 純さん。

 やっぱり首のうしろがぞわっとする。

 でも昨日ほどではなかった。慣れというのは怖い。


「じゃあ、交換で」

「交換?」

「僕はキングスをちゃんと見てない。門宮さんは全部見てるんだろ」

「全部見ています。三周しました」

「それを教えて。僕は昔の話をする」


 門宮さんは、返事の前に一度、口を押さえた。

 うれしい顔を隠したのだと、一秒遅れて分かった。隠しきれていなかったからだ。


「はい。交換です」


 切り抜きが終わると、彼女は動画の下のコメント欄を開いた。


「私、コメント欄を読むのが好きなんです」

「へえ」

「みんな、同じところで熱くなっているんです。転調のところも、サビができたところも。懐かしいって書いている人もいて。それを読むと、私だけじゃないんだなって思えるので」


 指が、画面をゆっくり動かしている。


「家でも、教室でも、誰にも言えないので。ここだけが、話の通じる場所でした」


 僕は何も言えなかった。

 僕には親父がいた。通じない教室から帰れば、通じるリビングがあった。

 彼女には、それがなかった。


「でも」


 門宮さんは画面を消して、イヤホンを外した。

 外したのに、肩は離れなかった。


「声に出して話せたのは、昨日と今日が初めてです。文字より、ずっと楽しいです」


 まっすぐ言われた。

 頭が真っ白になった。棚が揺れる。落ちてくる。


 口の前に、また文庫本が出てきた。


「まだ何も言ってない」

「顔で分かります。語録が出る前の顔です」

「そんな顔があるのか」

「あります。昨日、覚えました」


 昨日の今日で、顔を覚えられている。

 それがどういうことなのか、考えるのはやめておいた。考えたら、今度こそ棚ごと倒れる。


 下校のチャイムが鳴った。


 門宮さんは立ち上がって、スカートのほこりを払った。優等生の顔に戻っていく。

 戻りきる前に、彼女はスマホをもう一度出した。


「連絡先を、教えてください」

「え」

「ドームの待ち合わせに必要です。事務的な理由です」

「事務的な」

「事務的な理由です」


 二回言った。


 交換した。

 彼女のアイコンは、本棚の写真だった。どこまでも隠れている。


 校門を出て一人になったところで、スマホが震えた。

 門宮さんからの、最初のメッセージだった。


 一発でいいわけ


 歩きながら笑ってしまった。

 俺達は、と返す。すぐに既読がついた。


 もう一通、来た。


 連休明けも当番です。続きを見ましょう。イヤホンは、長いほうを持っていきません


 持っていきません。

 持っていきます、の打ち間違いだと思って、三回読んだ。


 打ち間違いじゃ、なかった。

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