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第一話 一発でいいわけ。俺達は。

「一発でいいわけ」


 僕のひとりごとに、


「俺達は」


 続きを言ったのは、クラスで一番清楚な優等生だった。


 九月十七日、木曜日の放課後。

 教室には、僕と彼女の二人しかいない。


 僕は自分の席から、丸めたプリントをゴミ箱に投げた。

 入った。一発で。

 だから、つい口から出た。それだけだ。誰かに聞かせるつもりはなかった。


 教室の後ろで学級文庫を並べていた門宮(かどみや)衛美(えみ)が、文庫本を持ったまま固まっている。


 顔が、みるみる白くなった。

 それから、耳まで赤くなった。


「門宮さん。今」

「言ってません」

「まだ何も聞いてない」

「言ってません」


 二回言った。


 門宮衛美。

 成績は二年で一位。図書委員。誰に対しても丁寧語で、声が小さくて、字がきれい。

 スカートの丈が校則どおりなのは、クラスで彼女だけだと思う。


 その門宮さんの口から、「俺達は」が出た。

 「俺」だぞ。

 彼女の一人称は、どう考えても「私」か、せいぜい「わたくし」だ。


「じゃあ、今の『俺達は』は何」

「……文法の、確認です」

「何の文法だよ」

「一人称複数の」

「誰と誰の」


 門宮さんは黙った。

 文庫本で顔の下半分を隠している。隠れていない耳が、まだ赤い。


 説明しておく。

 「一発でいいわけ。俺達は。」は、ある配信者の言葉だ。

 細かいことをごちゃごちゃやるな。でかいのを一発当てればいい。

 そういう意味で、ファンのあいだで使われている。


 配信者の名前は、うんこちゃん。

 ひどい名前だと思う。僕もそう思う。

 でも本当にそういう名前で、十七年前からゲーム実況の配信を続けている人だ。


 そして、うんこちゃんの視聴者は衛門(えもん)と呼ばれる。


 僕、衛藤(えとう)優一(ゆういち)は衛門だ。

 しかも二世だ。

 親父が配信初期からの衛門で、物心ついたときには、家のリビングでうんこちゃんの声が流れていた。

 僕の子守歌は、たぶんあの大声だ。


 隠してはいない。

 ただ、クラスで話したことは一度もない。話しても、誰にも通じないからだ。


 通じないはずだった。


「門宮さん」

「はい」

「もう一回言う。一発でいい——」

「言わないでください」


 速かった。

 門宮さんが教室の後ろから早足で来て、僕の制服の袖をつかんだ。


 近い。


 こんなに近くで彼女の顔を見たのは初めてだ。

 まつ毛が長い。目が必死だ。


「言われると、続きを言ってしまうんです。体が勝手に」

「それはもう自白だろ」

「…………」


 彼女は、自分の手が僕の袖をつかんでいることに気づいて、ぱっと離した。

 離してから、その手をもう片方の手で押さえている。

 耳が、また赤くなった。


「すみません。袖、しわに」

「一発でいいわけ」

「え?」

「いや、違う。今のは違う」


 違う。今のは本当に違う。


 僕には持病がある。

 照れると、語録しか出てこなくなる。

 語録というのは、うんこちゃんが配信で言った言葉のことだ。

 自分の言葉が出てこなくなったとき、頭の中の棚から、人の言葉が勝手に落ちてくる。


 今も、袖をつかまれて頭が真っ白になって、落ちてきたのがそれだった。

 意味は合っていない。まったく合っていない。


「俺達は」


 門宮さんが小さく言って、自分の口を押さえた。


「ほら」

「今のは衛藤くんが悪いです」


 それはそうだ。


 彼女は観念したらしい。

 隣の席の椅子を引いて、背筋を伸ばして座った。座り方まで優等生だ。


「衛藤くんも、見てるんですね」

「見てる」

「じゅぴちゃんの配信」


 僕の顔は、はっきり引きつったと思う。


「じゅぴ……」

「はい。じゅぴちゃん」

「その呼び方、するんだ」

「します。かわいいので。純さん、とも言います」

「もっと近いな」


 かわいいので、じゃない。

 僕の家では、あの人は僕が生まれたときから「うんこちゃん」だ。それ以外の呼び方は存在しない。

 それを、クラスで一番清楚な女子が、まっすぐな目で、ちゃん付けで呼んでいる。


 鳥肌が立った。

 腕を見たら、本当に立っていた。


「衛藤くんは、なんて呼んでるんですか」

「うんこちゃん」

「う」


 門宮さんが止まった。


「う……」


 口が「う」の形のまま、顔がどんどん赤くなっていく。


「……その呼び方は、口に出すのが、その」

「名前だぞ」

「名前でもです」


 じゅぴちゃんは言えるのに、うんこちゃんは言えない。

 なるほど。新参だ。


 僕は引いていた。確かに引いていた。

 なのに、口の端が勝手に上がりそうになって、困った。


 親父以外の衛門に、生まれて初めて会った。

 それが、同じクラスにいた。

 それだけのことが、こんなにうれしいとは知らなかった。


「いつから見てるの」


 聞いた瞬間、門宮さんの目が輝いた。


「中学のときです最初はゲーム実況の切り抜きがおすすめに出てきて気づいたら毎晩見ていてキングスが始まってからはMURASH FCの動画を全部見て去年のイタリア戦は三回泣いてそれで昔のアーカイブもさかのぼっている途中で」

「待って。息して」

「してます。それよりイタリア戦です。見ましたか」

「流し見で」

「流し見!?」


 門宮さんが、椅子を鳴らして立ち上がった。


「三対一ですよ! 開催国に! 日本が! あれを流し見できる人がいるんですか!?」


 教室に声が響いた。

 響いてから、彼女は自分の口を両手で押さえた。


 ゆっくり座る。背筋を伸ばす。スカートを直す。


「……失礼しました」

「今の、誰」

「私です。忘れてください」


 忘れられるわけがない。

 クラスで一番声の小さい女子が、クラスで一番大きい声を出した。

 こっちが本物なんだろうな、と思った。

 そして本物のほうが、ずっといい顔をしていた。


「さっきの『一発でいいわけ』も、切り抜きで覚えました。最近の言葉ですよね」

「最近!?」


 今度は、僕が立ち上がっていた。


「二〇一二年だ! 二〇一二年の六月! モンスターファーム2の配信! 顔出しするより前!」

「え、あの」

「最近じゃない! 歴史だ!」


 言い切ってから、我に返った。

 門宮さんが目を丸くしている。僕は静かに座った。


「……失礼しました」

「今の、誰ですか」

「僕です。忘れてください」

「十四年前、ですか」

「十四年前」

「私たち、まだオムツが取れたかどうかの頃ですよね」

「そうだな」

「なんで知ってるんですか」

「親父の膝の上で見てた」


 門宮さんが、信じられないものを見る目で僕を見た。

 さっき僕が「じゅぴちゃん」に向けた目と、たぶん同じ目だ。


 おあいこだと思う。


 彼女はそこで、はっと教室の入口を見た。誰もいない。

 それから声を、いつもの小ささに戻した。


「衛藤くん。お願いがあります」

「うん」

「このこと、誰にも言わないでください」

「言わないよ」

「黙っていてくれるなら、何でもします」


 何でも。


 頭が真っ白になった。棚が揺れた。落ちてくる。


「一発で——」

「衛藤くん」

「ごめん。今のも違う」


 本当に違う。意味は、考えないでほしい。


「何もしなくていい。言わない。言う相手もいないし」

「……本当ですか」

「衛門は嘘をつかない」

「それは、誰の語録ですか」

「僕の言葉。いや、訂正する。衛門はわりと嘘をつく。でも僕は言わない」


 門宮さんは少し笑った。


「衛藤くんの言葉、今日初めて聞きました」


 そうかもしれない。


 彼女は笑ったあと、膝の上で両手をぎゅっと握った。

 まだ何かある顔だ。


「あの。何もしなくていい、と言ってもらったのに、すみません」

「うん」

「ひとつだけ、してほしいことがあります」


 逆だろ。

 口止めされる側の僕が、なんで頼まれるんだ。


 門宮さんはスマホを出して、画面を僕に向けた。

 見せるために、椅子ごと寄ってくる。肩が触れそうな距離で、彼女の髪が揺れた。


 画面を見ろ、と自分に言い聞かせた。


 配信者ハイパーゲーム大会 FINAL。

 十一月二十八日、土曜日。東京ドーム。

 当選。二枚。


「ハイゲ当たったの!? 二枚!?」

「声が大きいです」

「ごめん。でも二枚って」

「当たりました。でも、一緒に行くはずだった人が、行けなくなってしまって」


 一緒に行くはずだった人。

 誰だ、と思った。思ったことに、自分で少し驚いた。


「一枚、余っているんです。一人でドームに行く勇気はなくて。誘おうにも、誘える人がいなくて」


 声がだんだん小さくなる。


「さっき、衛藤くんが衛門だと分かったとき。怖かったのと同じくらい、その」


 彼女は顔を上げた。

 耳まで赤い。でも、目はそらさなかった。


「一緒に、行ってくれませんか」


 頭が真っ白になった。


 棚は、揺れなかった。

 落ちてくる言葉が、ひとつもない。語録も、自分の言葉も、何も出てこない。


 黙っている僕を見て、門宮さんの顔が不安そうにくもった。

 それから彼女は、何かを思いついた顔をして、小さく息を吸った。


「抽選、最初の一回で当たったんです。だから」


 彼女は言った。

 教室では誰も聞いたことのない、少し得意そうな声で。


「一発でいいわけ」


「俺達は」


 言ってから、気づいた。

 体が勝手に、というのは本当だった。


 門宮さんが笑った。

 教室では一度も見たことのない、口を大きく開けた笑い方だった。


「今のは、行く、という意味でいいですか」

「……一人称複数だからな」

「誰と誰のですか」


 答えられなかった。

 今度は、僕の耳が熱い。


 家に帰ると、リビングで親父が昔の配信のアーカイブを流していた。いつもの光景だ。

 いつもなら隣に座る。今日は座れなかった。


 部屋でベッドに倒れて、天井を見る。


 俺達は。


 十四年間、あの人の声で聞いてきた言葉だ。

 それが今日から、門宮さんの小さな声でしか再生されなくなった。

 止めようとしても、止まらない。


 スマホのカレンダーを開いた。


 十一月二十八日まで、あと七十二日。

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