8・身代わり
さらにいくつかの町を経て、あと数日のうちには目的地である神都に到着する――それを知った後のユフィーリアは、それはもう不機嫌だった。
眉根を寄せて、心なしか頬はいつもふくれている。夜駆のたてがみに顔をうずめ、動かないでと無言の抗議。幸いにも、夜駆はユフィーリアの味方となってくれた。
結果、行程は遅れに遅れ、その数日はあっという間に経った。当然ではあるが、大聖堂は影も形も見えない。世界樹の影だけはその幹の太さ、梢の大きさを増していたが、季節柄もありいまだ大気の色に紛れ遠くの山々のように青く、本来の色味が見えることは稀だった。
ある朝、ルドルフはユフィーリアを座席に座らせると反対側に無理矢理ブロンコを据え、二対一の体でユフィーリアの説得に乗り出した。
「あのねお嬢さん――俺たちは一応、人買いなワケ。お嬢さんを大聖堂に送り届けてお金をもらうのが、俺たちの目的。いい?」
「……」
「嫌じゃないの。そりゃあねえ、おじさんたちもフラフラ遊んでるだけで金が入ってくるならそうするよォ。お嬢さん連れて、どこへだって行ってあげられる。海でも砂漠でも――」
「あ、兄ちゃん……」
「……!」
海。砂漠。
その単語を聞いたユフィーリアは、寸前までむくれていた顔をぱっと上げて、きらきらとした目でルドルフを見上げた。ルドルフはしまった、と口の中でぼやき、その視線を避けるように帽子を目深に傾ける。
「無理無理無理。こんな時期の海なんて真っ黒で寒いだけだし、砂漠なんてもってのほか。ていうか、行かないから」
「……」
「ダーメーでーす。海水浴びて、花しおれちゃったらどうすんの」
「……?」
「あのねェ、海の水はしょっぱいの。おとぎ話とかで聞かなかった? 海の底には、永遠に塩が湧き出る壺が落っこちてて――ってそんなことはどうでもいい。そういう昔話は坊主たちの方が詳しいだろうから、大聖堂で聞けばいいでしょ」
「……」
「だから嫌じゃないの。――あー、もう。なんでそんな急になついてくんの。子供の頃に拾ってきた犬っころ思い出すわ……」
「……あの犬、毛並みがそっくりだった。ブラシ通らなくて、毛玉、大変だった……」
「頭に花は咲いてなかったけどな」
「……」
犬でも猫でもなんでもいい。話せないままでも。ただ――ようやく楽しくなってきたこの時間を、失うのが耐えられなかった。
すがるようにブロンコを見れば、うっと息を詰まらせ、巨体を縮めながら困ったようにルドルフを見上げる。
「お前もほだされてんじゃないよ、ったく」
「ご、ごめん……」
「弟に泣きついてもダメ。とにかく、――わかってくれよ。おじさんたちもねえ、いろいろと事情があんのよ。とにかく金がいるの。一緒にいる間は、できる限りのことしてあげるから」
「……」
「はあ~……」
ついには大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて黙り込むユフィーリアに、ルドルフは斜を向いて溜めに溜めた息を吐き出す。
一方でブロンコはあたふたとハンカチを取り出して愚図るユフィーリアの顔を拭き、見えないところで兄に足で小突かれていたが、それは甘んじて受け入れた。
・*・*・*・
夕暮れ時――野営の準備も慣れたもので、ユフィーリアはブロンコを手伝いながら食事の支度をする。
もらった靴のおかげで前より動きやすい。走るたびにふわふわ揺れるワンピースの裾も、なんだか気分を明るくさせてくれた。
「あー、お嬢さんが駄々こねるせいで、無駄に食糧使っちまった。ほっぺも最初に会った頃より丸くなったんじゃない?」
「……」
大いに良いことだ。ユフィーリアはルドルフの嫌味をものともせず、にこにこと笑って頷く。ルドルフはユフィーリアには何も言わず、夜駆に何事かを愚痴っていた。
食事だけではない。最初の晩にもらった干した果物も、実は毎日おやつとしてちびちびと食べていた。その特段の甘さに舌鼓を打ち、ほくほくと幸せな気分に浸る。それもどこかの町で補充してもらったので、まだしばらくは持つ。
二人といると、村での生活が嘘のようだった。だから本当は、世界樹の話なんて嘘だったんじゃないかとさえ思える。あんな雑草の戯れ言も。
だからずっとこのままでいたい。
「――あーもうわかったよ。海さえ見れれば満足なのね? それでいいんだね? 一回だけだからね!」
ルドルフからその発言を引き出してからのユフィーリアは、朝起きてから夜眠るまで、ずっとにこにことしていた。
そしてお腹もふくれ、お気に入りの毛布と人形を抱きしめ眠りについた深夜――。
焼き石をくるんだ布を足で弄びながら、夢うつつに人の気配と、まぶたにオレンジ色の光を感じたユフィーリアは、うっすらと目を開いた。
毛布に隠れるようにしてそちらを窺えば、ランプの小さな灯りを挟んでルドルフとブロンコが何事かをボソボソと語り合っている。重そうな外套を肩から掛け、足元には金属でできた箱型の火鉢を置き、寒さを遣り過ごしながら酒を飲んでいる。
(……あったかそう)
ユフィーリアはぼやけた意識のまま、そんなことを思いながら目を閉じる。視界が失せると、かえって今度は漏れ聞こえる会話が気になった。
「……そりゃあ、俺だっていいこだとは思うよォ。でもねえ」
「わかってる……。だけど、兄ちゃんは……本当に、それでいいの? イリアの時みたいに……」
「……あー」
(……イリア?)
もう一度薄目を開けば、黙々と干し肉をかじるルドルフの姿が滲んで見えた。
ルドルフは次の言葉を発しない。ただ小さな陶器の酒器を傾け、そこに視線を落としながら、時折うなるように息を吐いている。
だがそれも空になったのか、手酌をしながらようやく細くかすれた声を漏らした。
「……今更、どんな顔して会えるのさ。俺はテメエの娘可愛さにこんなクソみてーな仕事引き受けて、代わりによその娘を何人も売り飛ばしてきた。親父以上に最低のクソ親父だ。……あの子を誰かの代わりになんかするつもりはないし、俺だって……なれやしないさ」
「……でもユフィーリアは……なついてる」
「そりゃ今までが悲惨で、いろいろを知らなかったからだ。あのろくでなしの家と比べたら、腹はふくれるし、菓子だの玩具だの……たまに良い物もらえるし。それをしたのがたまたま俺たちだったってだけだ。大聖堂に行ったら、間違いなくもっといい生活ができる。お前だって覚えてるだろ」
「それは……、うん……。あの絵一枚で、もう一個店作れるくらいの額の話、してたから……」
「絵だけでそんななんだ――本物なら、今のご時世そこらのお姫様よりいい暮らしになるかもしれないぞ。そしたら俺たちのことだって、あのろくでなしと同じように忘れてくさ」
ブロンコは向かいの兄を見つめたまま、少しの時を置いて答えた。
「……そうかな。忘れないよ。だって……兄ちゃんが、教えたんだから。自分の名前も、甘いものの美味さも、わがまま言うのも、甘えるのも。全部……兄さんが……」
(……)
それは、兄を慰めるものだったのだろうか。責めるものだったのだろうか。
ユフィーリアは、寝返りを打つふりをして毛布に顔をうずめる。胸の奥がきゅうっとひねられるように縮んで、痛い。それをごまかすために人形を胸に抱きしめたが、ますます逆効果だった。
(そっか……。やっぱり、そうだったんだ……)
自分で自分を嘲る態度。丸めた靴下を、そして靴を履かせてくれたときの慣れた手つき。あの時に感じたことは、きっと正しかった。
(……あの人、本当に、娘がいたんだ……)
イリア、と口の中で呟き、続いて自分の名を思い浮かべる。
ユフィーリア。
イーリア。
イリア。
なんとなく似た響きに、ルドルフからは一度も名を読んでもらったことがないことに気付く。否、ただ一度、靴を履かせてくれようとしたとき――あのとき以外は。
(……きっとイリアは、すごくすごく、愛されていたんだろうな。あの人も……幸せだったんだろうな……)
だから。
道化にならなければ、呼べなかったのかもしれない。「クソみてーな」自分の人生を、遣り過ごせなかったのかもしれない。
(……バカだな……わたし……)
何を調子に乗って、浮かれていたんだろう。
勝手になついて、勝手に甘えて、勝手に思い上がって。
ずっと、このままならいいなんて――。
(代わりが欲しかったのは、わたしの方だった……)
閉じたまぶたの中が、熱く潤む。
きっと忘れられない。この時間も、今の気持ちも。本当は、そんな気持ちを味わえただけで十分だった。それだけで十分だった。
(……ありがとう、でいいんだよね。それだけ伝えられたら……もう、いいんだ。あとは大聖堂へ行って、二人が欲しい分だけのお金をお礼がわりに持たせてあげられたら……わたしの役目は終わり)
ユフィーリアはもう一度眠りにつこうと、目を開くことなく時が経つのを待つ。
その後も二人の話し声がぽつぽつと聞こえてきていたが、寝たふりを続けている間に本当に寝てしまったらしく、次に目を開けたときには朝になっていた。




