9・お母さんと、お父さん
息が白く、宙に浮かび上がる。幌の隙間から外を覗けば、辺りは霧が立ち込めていた。
抱きしめていた人形を宝箱に寄りかからせ、もともと着ていたぼろからワンピースに着替える。
ワンピースをもらってからは、嬉しさが勝ってしまい花や葉っぱのことは気にならなくなっていた。痛覚があることだけが厄介だったが、叔父や叔母に殴られていたときとそうは変わらないと思い至り、一瞬の痛みさえやり過ごせば何も感じなくなっていった。単に麻痺してしまったのかもしれない。
(……そういえば、普通の植物って痛覚があるのかな? でももしあったら、お野菜は……)
それ以上は考えるのが怖くなってやめた。
続けて靴下と靴をはいて外を覗くと、すでに起きていた二人の姿があった。二人はすぐにユフィーリアに気付いてくれる。
おはよう代わりにぺこりと頭を下げれば、ルドルフはあくびをしながら、腕を空に伸ばした。
「おはよ~、おじさんは眠いから、ご飯食べたらまた寝ちゃうけど。誰もいないから、出てきても大丈夫だよォ」
「おはよう。あ……ユフィーリア」
「?」
いつもどおり朝食の準備に取りかかっていたブロンコに呼ばれ近付くと、ブロンコは自分が首から下げていた長いストールを広げ、首から肩へ、花を避けながらぐるぐる巻いてくれる。
手編みのウールの毛糸とは異なるすべすべの質感。薄く感じたのに、巻いてくれたところだけもうホカホカとしていた。
「……」
「ワンピースだけだと、寒そうだから……」
「……」
「俺はコート着れるから……大丈夫」
「あーあー、また甘やかすー」
この頃は、兄弟ともにこちらの言いたいことを察知して、勝手に答えてくれる。大体あっているので、ルドルフの茶々を流してもう一度ぺこりと頭を下げれば、ブロンコもほのかに笑って応えてくれた。
それから夜駆にもおはようのハグ。
(……今日もふかふか。つやつや。あったかい。もしかしたらこのストールも、同じような動物の毛から作られてるのかも。……大聖堂には、何か動物っているのかな? いたらいいなぁ)
水をあげるため、近くの川に汲みに行こうと木のバケツを取り出し馬車を回り込めば、白い靄の中にぼんやりと世界樹の影がにじんでいた。
(もう、あんなに大きい……)
村にいた頃とは明らかに違う。空を覆う梢の葉群れも、いびつに伸びる枝も、でこぼことした幹も――白と灰青の影となって、眼前に浮かんでいた。
「……」
逃げるように目を伏せ、川へ下りる。だが――
(……? なに、これ……?)
そこには、今までに見たことがないような光景が広がっていた。
土手を這うように、川の底から半円状の巨大な樹の根か枝らしきものがいくつもねじれて生えている。中には自分の背よりも高くうねるものまであり、ここだけ別世界のようで、ユフィーリアはきょろきょろと周囲を見回しながら川に近付いた。
ただ根はかなり古いもののようで、水辺のものは苔むし、地面に盛り上がっているものは土器のように固くひび割れている。命を託そうとしたのか、割れてしまった幹の根元から細い細い枝を伸ばすものもあったが、どれも途中で力尽きてしまっている。新芽は枯れ、指でも簡単に手折れそうだった。
「あー、いた。よかったァ、川にでも落っこちたんじゃないかと思って焦った……。もうご飯になるよォ」
「……」
どうやら思った以上にその場にいたらしい。帰りが遅いことを一応心配してくれたらしいルドルフが土手を下りてきて、ユフィーリアは樹のひとつを指さした。
ルドルフはユフィーリアの方を見ることなく、いびつな樹を叩きながら呟く。
「これ、世界樹の根っこだって。すごいよねェ、まだけっこう距離あるのに。たまーにこうして、いっぱい突き出てる場所があるんだよね。まあ一カ所に生えるより、あちこちに根っこ伸ばして新しく芽を出した方が植物にとっちゃ合理的だろうし。もしかして、あっちのでかい樹が枯れちゃったら、こっちから伸びたりもするのかねえ」
「……」
――そのとき、なぜかユフィーリアの中にひとつのことが思い浮かんだ。
記憶の中の耳触りな声。
――夜露や朝露をひとしずくいただけない? それだけで、わたしもここをわたしだらけにできると思うの――
ユフィーリアはバケツを置くと、ストールの隙間から見えている花や葉っぱを見回す。起きたばかりだから、もしかしたら――それとも、もう落ちてしまったか、ストールに吸われてしまっただろうか。
腕を上げたり髪を引っ張ったり、じたばたと忙しなく動くユフィーリアに、ようやくルドルフの視線が向く。
「何してんの?」
「……!」
その呼びかけにユフィーリアがルドルフの方を見遣れば、胸元に差されたままの一輪の花の中で何かがきらめいているのが目に入った。
(しずく……!)
たったひとつぶの、ぷっくりとした透明のしずく。ユフィーリアはルドルフに座るよう、一生懸命に手で示す。
「なーに、どうしたの」
「……」
その意を察したルドルフは、やれやれと言わんばかりの表情で膝を曲げた。ユフィーリアはルドルフの胸元の花を指し示し、今度は動かないでと両手を広げてルドルフを制す。
「んー、この花が欲しいの?」
「……」
頷いて、しずくをこぼさないよう両手でそうっとそうっと胸ポケットから花を引き抜けば、ルドルフの視線が自然とそれについてきた。少しだけ花を傾けてみせれば、ルドルフはあの下がり眉をひそめ、怪訝そうに呟いた。
「朝露……?」
ユフィーリアはもう一度うなずき、一番近くにあった根の、根元からひょろりと生えた樹の芽の前に立つ。
先端の葉は黄色く変色しかけ、今にも枯れそうな――。
(……元気に、なりますように)
ユフィーリアはその場にしゃがむと、手にした花を杯のように傾け……ゆっくりとその朝露を、芽に落とした。
「お嬢さん――」
――その直後、地面が揺れた。
「うっわ、ちょっ――ユフィーリア!!」
まるで巨大な蛇か何かが地の中を移動しているかのように、周囲の地面が波打つ。川の水がうねり、足元がぼこぼこと盛り上がる。
ルドルフはユフィーリアに手を伸ばして、無理矢理に引き寄せて、抱きかかえた。
「……!」
ユフィーリアもまた、ルドルフにしがみつきながら目を見開いて周囲を見回す。
地面からは新しい根が盛り上がり、生き物のように意思を持って、ユフィーリアが朝露を落とした樹の芽を目掛けて伸びていく。樹の芽の回りからも、何本も何本も新しい芽が生まれ、それがどんどん集まって、太く束になっていく。その束から枝が分かれ、分かれた枝から葉が萌え出る。まだ若い、黄緑色のみずみずしい葉っぱ。葉は先に開いたものから色を濃くし、群れになり、朝の薄靄を払いのけていく。
「――なん……だ、これ。なんだよこれ……。嘘、だろ……」
「……」
揺れが収まると、辺りは野と川辺の草花が茂り、樹の根と幹がいびつに伸びる、不思議な空間になっていた。ユフィーリアが見覚えのある野の草花も、知らない花もある。森の奥に迷い込んだような――どこか非日常めいた異質な雰囲気に反し、青く清々しい、ぱっきりとした新緑の薫りが空気に満ちている。
ルドルフは脱力したように自分たちを取り囲む根に寄りかかり、目の前に伸びた一本の若木を呆然と見上げる。ずるりと落ちるように地面に降りたユフィーリアも、辺りを窺いながら若木の根元まで足を進め、まだ小さな梢を見上げた。
「……」
息をすることも忘れていたようで、胸いっぱいに溜まっていた空気を吐き出す。まさか、ここまでになるとは思わなかった。これをあの雑草に与えていたら、どれだけあの場所を侵食していたのだろう。
(……さっきの樹の芽は、他の芽に呑まれちゃったのかな? これも、世界樹になるのかな?)
そんなことを思いながらそっと若木の幹に触れてみる。すると何か温かいものがお腹の奥を通り抜けていくような、不思議な感覚がした。
『……お母さん?』
「……!?」
その感覚が抜けるのと同時に、ささやくような声がユフィーリアの耳に届く。
足下からするするとやわらかな蔦が何本も伸び、不思議そうにユフィーリアの髪に、頬に、腕に、体に触れて、最後は仔猫が親猫に甘えるように、優しく頬を抱いてきた。
『お母さん。お母さんも、まだ小さいんだね』
(……お母さん? わたしのこと? ……あなたが、話しているの?)
『そうだよ、お母さん。ありがとう、ぼくを元気にしてくれて』
お母さん、と口の中で呟く。なんだか言葉にし難い、不可思議な感覚が頭の中に落ちてくる。
(えっと……このお花には、不思議な力があるんだね……)
『うん。ぼくたちは命の源。世界中のお花や葉っぱとつながって、みんなを元気にしてる。みんなが元気になれば、鳥も虫も、動物も、みんな元気になるから。でも今は、お父さんがひとりぼっちで頑張ってるから……さみしくて、心が疲れちゃって、うまくいかないの』
(……お父さん?)
蔦がしゅるりと動いて、世界樹の方を指す。
『待ってる。ずーっと、ずーっと』
「――ユフィーリア!!」
「……!」
「帰ろう」
突然後ろから抱きかかえられて、視界が揺れる。ルドルフはそれ以上何も言わず、隆起した根の間を縫い、あるいは跨いで、土手を上がる。
(……)
遠ざかる若木を、ユフィーリアは自分でもよくわからない気持ちで見つめる。嬉しいでも悲しいでもない、今までに味わったことのない気持ちだった。
「兄ちゃん! ユフィーリア!」
「すぐ出るぞ」
「ん……」
駆け寄ってきたブロンコへと抱き移されたユフィーリアは、ふと握りしめたままだった一輪の花に気付き、背を向けて歩き出そうとするルドルフのストールをつかむ。
「なに、どうしたの」
「……」
「兄ちゃん」
振り向きもせず、斜を向いて視線だけを寄越して語気強く答えるルドルフに、怒っているのかとユフィーリアは一瞬ひるむ。が、弟に諫められたルドルフは一度大きく息を吐くと――今度はちゃんと振り返って、ユフィーリアに向かい合ってくれた。
「なーに。これ、帽子から靴までおじさんの一張羅だから、引っ張られて伸びちゃったらどうすんの」
「……」
いつもの軽薄そうな笑みと口調。出会ってからずっと自分を見つめてきた、無関心で、まっすぐなまなざし。
ユフィーリアがゆっくりと花を差し出すと、ルドルフは少しの間その花を見つめ……あの長い指先で茎をそっとつまむと、再び胸元に戻した。
「……こんなことになるなら、あのとき千切るんじゃなかったなァ」
それからもうすべてを悟ってしまったかのように下がり眉をなお下げ、帽子を目深にかぶり直すと、笑った。
「おじさんもねえ、ちょっとは見たかったよォ……海」




