7・ゆらぎ
それは本当に小さな小さな忍び笑い。
最初は空耳かと思ったが、しっかりと聞こえる。ドキドキと途端に波打ちはじめた心臓を抑えるように、ユフィーリアは祈りのペンダントを握りしめた。久しぶりに手のひらに感じる食い込み。
(……幽霊? 悪魔?)
きょろきょろと周囲を見回してみるが、辺りはもう夜のとばりが降り始めており……自身の花の灯りだけでは、隣の馬車さえ満足に見ることができない。声はとても愛らしいのに、どこか薄気味悪い。幼い頃に聞いた怖い話を頭が勝手に思い出してしまい、得体の知れない恐怖に肌が粟立った。
もう馬車に戻ろうか――そう思ったとき、
『くすくす。ねえ、ここよ。こっち。足元』
(……え?)
先程よりもはっきりと意思を宿した言葉が聞こえてきて、ユフィーリアはぱっと自身の足元に目を遣った。
一歩後ずされば、スカートの影から細かな花をふたつみっつ咲かせた雑草が生えている。
『ああ、やっぱり! あなた、世界樹の雌花ね。あなたがいたから、わたしもちょっとだけ元気になれたんだわ』
(これ……なに? もしかして……もしかして花が、しゃべってる……?)
こくりと息を呑んで、ユフィーリアはその場にしゃがむ。
『ねえ、もっと近くに寄れない? もっとそのお花を見せてちょうだいよ。やっぱり世界樹の花は大きくて美しいわね……ねえ、こうしておしゃべりしているのも何かのご縁なのだから、夜露や朝露をひとしずくいただけない? それだけで、わたしもここをわたしだらけにできると思うの。どうせすぐに踏まれちゃうかもしれないけど、それよりもっと広く、もっと遠くまで、わたしはわたしを咲かせてみせるから。あなたにはそれができるのよ!」
「……?」
『でも不思議よね――どうして世界樹の雌花は人間にしか芽吹かないのかしら。永遠にも等しい命を持つ世界樹が、短命の人間とつがうなんて、おかしな話よね』
「……」
雑草が何を言っているのか、全部はわからなかった。ただ――世界樹と人間がつがう。その言葉に、ユフィーリアは目を丸く見開いた。ルドルフが語っていた祖父の話は、真実だったのだろうか。
『……って、あなたは全然しゃべらないのね。あ、でもいいわ。普通、人間にとって植物たちは、話さないモノだものね。あなたもわたしたちと同じなんだから、それでいいのよね。それより……』
「?」
『くすくす。ねえ、世界樹の雌花であるあなたが、どうしてそんな人間が履くような固い靴を履いているの? おっかしい。わたしたちに必要なものは根であって、足なんていらないのに』
「……っ」
『ねえ、どうして? わたしは何度も固い靴に踏み潰されてきたのよ? それを、わたしたちと同じ花を咲かせるあなたが履くなんて。おかしいでしょ? ねえ、捨てちゃいなさいよ。そんなのいらない、いらない。それにその汚い洋服も! わたしたちに必要なのは、わたしを支える茎や幹、たくさんの葉っぱだけよ。脱いじゃいなさいよ。世界樹の精霊様だって、きっと同じように仰ると思うわ』
「……」
ユフィーリアは立ち上がると、無言のままふるふると頭を横に振る。
(捨てない……絶対に捨てないし、脱がない……)
得体の知れない恐怖に、背筋をなぞられたような寒気が走る。
『可哀想に。まだあなたは発芽したばかりで、わからないのね――でもきっと、いつかわかるわ。その頃には、きっとあなたはわたしになってる。楽しみね。くすくす』
――怖い。
まるで食事中に汚物の話をされるような、何か言い様のない気持ち悪さがこみあげてきて、一歩を後ずされば馬車のステップにぶつかった。
「ユフィーリア……!?」
その瞬間、自分の名を呼ぶ低く太い声とともに伸びた蔓が大きくかき分けられ、ブロンコが姿を現す。
「……!」
その姿を見たユフィーリアは顔をくしゃっと歪めると、反射的にその大きな体にがばりと抱きついた。
「ッ!? ちょっ……待って、……」
そして何が起きたかまったくわからないブロンコは、手にしていた包みを取り落としそうになりながらべったりと張り付いたユフィーリアを抱え、花の蔓を一瞥したあと馬車に乗り込む。
結局ユフィーリアは次にルドルフが食事を持ってくるまでブロンコにしがみついており、
「に、兄ちゃん……助けて……」
「……」
「いやなーにしてんの、二人で。それに外の花、またお嬢さんの仕業? 何があったの。てかどうすんのよ、あれ……もう一泊くらいしたかったんだけど、見つかると面倒そうだし、このままずらかるかァ……」
ルドルフは呆れたようにユフィーリアを剥がすと、さっさと水や食糧の確認をし、夜駆を連れ結局そのまま宿を――街を後にすることにした。
「……」
放り出されたユフィーリアの手に残ったのは古い木のトレイ。パンにチーズ、豆と野菜屑のスープ。ほのかに甘い湯気が立ちのぼる温かいミルクが、すごく美味しそうだった。代金はいいのだろうかと思ったが、宿代と口止め料として少し多めの額を厩に放ってきたらしいので、それはありがたく頂戴した。そして、
「あ……そうだ、これ」
「……?」
「待って。毛布……見えないように、吊すから」
食事を終えたユフィーリアにブロンコから手渡されたのは、またもリボンの掛かった平たい紙の包み。
十字に掛けられたリボンにはやはりカードが挟まれており、先に兄からもらったカードと並べてみると、同じ形の文字が同じように二列になって記されていた。
(……ハッピーバースデー、ユフィーリア。……)
包みの中身はわからなかったが、いろんな気持ちが体の奥から湧き上がってくる。頬がほかほかするような感覚とともに、口角が上がっていく。
(おんなじ。やっぱり兄弟なんだ……)
ブロンコはユフィーリア愛用の毛布を紐で檻の端と端に結んでカーテンのようにすると、無言のまま手招きしてくる。箱を抱いたままユフィーリアが立ち上がれば、その奥にそっと押しやられた。
(……開けていいのかな……?)
こちらの箱は明るい青のリボン。するすると丁寧にほどき、カードとともに大切に床に置く。それからそうっと包みを開いていけば、
「……!!」
中には襟元に大きなレースがあしらわれた、一着の服が入っていた。
綺麗に折りたたまれた服の肩部分を持ち上げれば、スカートがふわりと広がり落ちた。さらさらの布で作られた、袖なしの黒のワンピース。真っ白なレースの襟が、その黒の布地に綺麗に浮かんでいる。
(……すごい。ふわふわ……)
しばらくぼうっと見とれていると、毛布の向こうから遠慮がちに声が掛けられる。
「……着れた?」
「……!」
それで我に返ったユフィーリアは、慌てて今まで着ていたぼろを脱ぐと、そのレースの襟のワンピースを頭からかぶった。
正直、花や葉があるので服の着脱は今まですごく面倒だった。湯をもらうたびに格闘していたのだが、今はそれが気にならない。絡まる髪をばさっと襟ぐりから取り出すと、背に空気が流れ込む。花びらと葉が何枚か散ったが、どうでもよかった。痛みより、早くお披露目したい気持ちの方が勝っていた。
毛布をたくしあげて姿を見せれば、ブロンコはほっとしたように肩を落とした。
「……ゴメン、ちょっと大きかったかも。花があるから、袖が邪魔かと思ったんだけど、寒かったらゴメン」
「……」
ユフィーリアはふるふると頭を横に振ったあと、ぺこりと頭を下げる。それからふと視界に入ってきた靴を見て、ブロンコに駆け寄ると、左手でつんつんと手を引っ張り右手で足元を指し示した。
「あ、靴……? ……兄ちゃん?」
「……」
ユフィーリアはにこっと笑い、もう一度ブロンコを見上げる。ブロンコは混乱したような表情をしてユフィーリアと幌の向こうにいる兄を何度も見比べていたが、はっと何かに気付いたように頷いた。
「ええと、……ん、すごく似合ってる」
「……」
満面の笑みで頷くユフィーリアに、ブロンコもかすかに笑む。
その日の夜、ユフィーリアは靴が入っていた箱に人形やお手玉、リボンやカードを詰め、それを抱えるようにして眠った。
眠る直前まで冷めなかった贈り物への興奮と、雑草への嫌悪と妙な焦燥感。何かから自分と箱を隠すように毛布にくるまり、ここにあるものだけは、絶対に手放すまいと誓って、目を閉じた。
それから野営の際に拾った、擦ると黒く跡がつく石で、カードの字を真似て「ユフィーリア」とふたに大きく書いた。
「誰も盗らないよォ。でも、初めて書けたねェ。下手くそだけど」
「……」
「に、兄ちゃん……」
ただ次に立ち寄った街では約束どおり、ルドルフはペンとインク、小さな無地の綴じ本――すべて贅沢品だ――を持ってきてくれた。
馬車が停まっている間、ユフィーリアは二人に適当な手本を書いてもらい、ペンの正しい持ち方を習い――文字も絵も、飽きることなく書き綴っていた。
「今日はなに描いてんの、見せてよォ」
「……!」
「絵だけは絶対に見せてくれないんだもんなァー。いいけどさァ」
たまに覗きにくるルドルフから、綴じ本を守るのも日課になった。




