5・高潔なる欲望
それなりに大きな町には、馴染みの宿があった。厩や馬車停めなどの設備があることはもちろんだが、それ以上に宿の主人や従業員の態度がいい。
本当に客商売かよと思うほど自分たちだけに無愛想で、こちらの商売を理解して他の客より多く金をむしり取る代わりに、素性にも積み荷にも一切介入してこない。併設の酒場で飯を食っていても酒を飲んでいても、それとなく他の客に口添えして人を近付けさせない。たまに忌々しげな視線や悪態を寄越す人間もいたが、それが――今のルドルフには、居心地がよかった。
・*・*・*・
誘拐から半月ほどを経て、初めて宿に泊まると聞いたユフィーリアは、ほんの少し期待した。
町には背の高いレンガ造りの二階建ての建物がたくさん並んでいて、オレンジやグリーンの屋根があざやかに空に映えている。道も石畳が整備され、その脇には食べ物もお洋服も、様々な店が何件も軒を連ね、なんでも売っており、人で賑わい毎日がお祭りのようなところ――だと、ずっと思っていたからだ。
生まれてこのかた村から一歩も出たことがなかったユフィーリアは、もしかしたらそんな外の世界が見られるかもしれない、すごく楽しいところかもしれない、と道中、胸躍らせていた。
が、実際は馬車に押し込められて留守番だった。
「うわー、すっごい不服そうな顔されてる……」
「……」
「いやね、お嬢さん。気持ちはわかるけど、頭にお花咲いてる客が来たらお店の人も困るでしょ? お湯使えるようにしてあげるし、ご飯だけはちゃんと届けてあげるからさァ」
「……」
「あ、理解してくれたみたいでよかった。聞き分けのいい子はおじさん好きだよォ」
髪と腕の花を見てしょんぼりとしてしまったユフィーリアに、ルドルフはひとつ息をつく。
「まあ、この馬車に近付く人間はいないから、お嬢さんが不用意に外に出なきゃ大丈夫。外のトイレは自由に使えるし、あまり遠くに行かなきゃ首が絞まることもない。おじさんたちもねェ、たまに燃料補給して足伸ばして寝ないとやってけないのよ。おじさんだから」
「……なんか、ごめん」
「……」
ブロンコの謝罪に、ユフィーリアは頭を横に振る。特にすることもなかったので、大人しく檻に入って壁際に寄りかかりながら座った。このところずっと一緒に過ごしていた毛布を引きずり、裸足の足にかける。
それから数日、ユフィーリアは馬車の主と化し、おじさん二人は食事や湯を届けに訪れる以外は自由に行動しているようで、変に気を遣ったブロンコが人形やお手玉を持ってきたことを除けば、ほとんど戻ってはこなかった。
(……子供じゃないんだけどな)
それでも、その時代には与えてもらえなかったものだ。
人形を持ち上げ、向き合う。金の巻き毛に水色の瞳。お姫様のようなフリルとリボンのドレス、キラキラのビジュー。古物市で見つけたらしいが、きっと大切にされていたのだろう。
(何か可愛い名前、つけよう)
それからお手玉を野菜や果物に見立て、二人には見られないよう注意しながら、こっそりとおままごとをした。
毛布と人形、お手玉。
それらは自分のものとしてセットで置くことにして、残りの時間は座席の方に積まれた荷物を片付けながら過ごした。
(……今までどうやって過ごしてたんだろう)
料理に使うもの、食糧や水、生活雑貨。仕分けて置いていくだけでも大分違う。衣類はたたんで、棚に見立てた空箱に詰めた。
本は座席に適当に並べた。ユフィーリアは字が読めない。村では必要ないものだった。一度開いてみたが絵もなくて、何が面白いんだろうとやはり座席にポイッと投げ出す。
馬車の中が薄暗くなると、花がぼんやりと光り始める。そういえば不思議なことに、ルドルフが手折った花はいまだに枯れることなく、彼の胸元で息づいている。
暗くなってからは、ころりと空いた座席に寝転がった。布が張られており、檻の板間よりは幾分かましな寝心地。夜駆も厩に入れられているし、することもない。ただ絡まった髪をいじりながら花を眺めていると、馬車の扉ががちゃりと開いてルドルフが入ってきた。
ランタンが馬車の中を照らすと、ルドルフは目を丸くする。
「うぉ、なんかすごい綺麗になってる……。お嬢さんが片付けてくれたの? こここんな広かったのかァ」
「……」
他に誰がいるというのか。ユフィーリアが起き上がって頷けば、ルドルフは「ありがとうねェ」と軽く流しながら、片手で抱えてきた箱をユフィーリアに差し出してきた。箱には水色のリボンが掛けられ、何事かが書かれたカードが一枚はさまっている。
「……?」
「いいこにお留守番してくれてるお嬢さんにプレゼント。いやー、よくよく考えたらおじさんがこんなの買うなんて怪しさ満点で本気で困っちゃったよォ。なんとかごまかしたけど、慣れないことはするもんじゃない。ああもう、久々に神経使って疲れたわ……」
「……」
ユフィーリアが箱を受け取ると、ルドルフはランタンを馬車からつるし、前の座席にだらりと座る。寒いくらいなのに、帽子をとってわざとらしくそれをパタパタと仰ぎ始めた。
「開けてごらんよ、いいものだよォ」
「……」
プレゼント……と口の中で呟いて、ユフィーリアはその大きな箱を見つめる。
今までユフィーリアがもらったプレゼントは、両親や友人からの誕生日プレゼントだけだった。その友人も叔父夫婦と関わりたくないといって離れていってしまい、それ以来プレゼントなんてもらった覚えがなかった。
それなのに、なんにもない時に自分がもらっていいものなのだろうか。開けた瞬間にお金の要求をされたらどうしよう、と現実的に悩みながら、とりあえずカードをリボンから引き抜いた。
「……」
花をあしらった枠の中に、さらさらと何かが書かれたカード。ユフィーリアがおそるおそるそれをルドルフに差し出すと、ルドルフは不思議そうな顔をして受け取り――それから何か思いついたように、「ああ」と唸った。
「そっか。もしかしてお嬢さん、字が読めない? あー、まああんな田舎住まいの上にあの家族じゃねえ」
「……」
頷くユフィーリアに、ルドルフは困ったようにもう一度唸り、カードからもユフィーリアからも視線を逸らす。
「いや……それは別にいいんだけど、おじさんが自分の口でそれを言うってのが……。そもそも買うときに、咄嗟に口から出たでまかせというか……ねえ」
「……?」
「小さい女の子が好きそうなの探してるって言ったら、露骨にお店の人に怪しまれてねェ。つい……娘の誕生日プレゼントだって言っちゃったもんだから」
「……」
「だから……上一行目がハッピーバースデーで、下二行目がユフィーリアって読むんだよなァこれ……。つづりはもしかしたら違ってるかもしれないけど……」
「……!」
渋い顔をしてカードを返してくるルドルフ。ユフィーリアは箱を膝の上に置いて両手でその小さなカードを持つと、ペンの軌跡を何度も何度も目でなぞった。
(名前。わたしの……名前)
祝福の言葉とともに記された二行目の文字を、一度だけ人差し指でなぞる。それまでなんとも思わなかった、むしろ不可解で理解し難かったものが、途端に愛しくなる。頭の中で何かが弾けたように、今まで味わったことがない幸福感が、指先から伝わってくる。
その不可解な感覚が何なのか、ユフィーリアにはわからなかった。ただ初めて得たその感覚は鮮烈で、指先が自然ともう一度、なめらかな細い線をなぞった。
「……もしかして、字、覚えたい?」
「……」
不意に問われて、ユフィーリアはぴたりとその動きを止める。もともと言動もどこか軽薄で、感情を窺い難いルドルフではあったが、やはりよくわからない表情で自分をじっと見つめてくる。
字を覚えたいかと言われても、覚えたら何ができるのかもよくわからない。ルドルフはもともと商会の人間だと言っていたが、商人はみんな字が読めるのだろうか。
村では神父様や村長さん、あとは村長さんを手伝う数人の大人くらいしか読み書きができなかった。教会には世界樹の絵が描かれたひと抱えはありそうな本が飾られており、週に一回、子供たちだけが集まるミサでは、神父様がその本を開いて内容をわかりやすく教えてくれた。
かといって、字を覚えた自分が商人や聖職者になっている姿を想像することもできない。
(…………でも)
さっきの、不可解な感覚がなんなのかを知りたい。嬉しいことがあったわけでも、美味しいものを食べたわけでもないのに体中に広がった、あの幸福感をもっともっと味わいたい。
ただそれだけを思って、ユフィーリアは小さくこくりと頷いた。
「あー、じゃあとりあえず名前からかなァ。ちょうどお手本もあるし。なんか書くもん手に入れてくるから、暇なときは字でも絵でも書いてればいいよォ。繰り返しが大事だからねェ」
「……」
思いのほか、ルドルフは簡単に言ってくれた。繰り返せば自然と覚えられるものなのだろうか。絵も、最後に描いたのはいつだったか思い出せない。しかしどちらにしても、無意味にごろ寝して過ごすよりはずっとましな気がする。
(お手本)
ユフィーリアはカードを大事に持ったまま、はたと思い出したように箱を持ち上げる。本当に開けてしまっていいのか、目で問えば、ルドルフは何も言わず手で「どうぞ」と示してくれた。
箱に掛けられた、つるりとした光沢のある水色のリボン。端をつまんでするするとほどき、それも大事に巻き取ってカードと一緒に座席に置く。
それからゆっくりと箱を開ければ、
「……!!」
中には一足の、可愛らしい靴とレースの靴下が収められていた。




