3・小悪党の誤算
ユフィーリアは髪をつまみ、そこに絡む花をしげしげと見つめる。
(このお花……、本当に光ってる……)
木香薔薇のように花びらのフリルが折り重なり、その中央にはタンポポの綿毛のようなふわふわとしたものが丸く鎮座している。そのふわふわから放射状に広がる、黄金の蕊。花はほんのりと白い光を纏い、ユフィーリアをおぼろげに暗闇に浮かび上がらせていた。またふんわりと漂う香りは今までユフィーリアが触れたどの花よりも薫り高く、甘い。もしも自分が蝶々や蜜蜂だったら、真っ先にこの花に飛んでいくだろうとさえ思えた。
「お嬢さん――あんた、どっかに妖精かなんかの血でも混じってんの?」
「……」
冗談なのか本気なのかわからない男の問いに、ユフィーリアは首を横に振る。男は先程までの笑顔を潜め、眉根を寄せてユフィーリアを見下ろしていた。それからゆっくりしゃがんでユフィーリアより背を低くすると、言葉を続ける。
「……それ、触っていい?」
「……」
おそらく、また植物に纏わり付かれるのを嫌っての言葉だろう。だがそう言われても、ユフィーリアには判断できない。自分でも何が起きているのかわからないまま、とりあえず頷いてつまんだ髪を差し出してみた。
男は周りの植物を窺いながら、ほころびかけの小さな花を一輪、あの細く長い指でぷちりと千切り取る。
「……っ!」
「え――もしかして、痛かった?」
「……」
再度頷くユフィーリアの目に、じわ、と涙が浮かぶ。手折られた瞬間は刺すような痛みが走り、今は摘まれたところがジンジンと波打つように痛んで、それ以上に胸が苦しくなった。
「あー、ゴメン。ほんとゴメン。まさか痛覚があると思わなかったんで……おじさんが悪かった」
胸を――祈りのペンダントを握りしめて背を丸めるユフィーリアに、男はあたふたと謝り出す。それからハンカチをズボンのポケットに突っ込むと、千切った花を胸ポケットに刺した。
その直後、
「バ――バケモノ!! 誰か! 誰かぁ!!」
辺りに、硝子を割ったような女の声が響く。
――叔母だった。
その声に、叔父やもう一人の人買いも遠くから駆けてきた。周囲からは遠慮がちに錠を下ろす音が聞こえ、薄く開けられた扉からこちらを窺う気配がする。
「早くー! 早く誰か来てー! ユフィーリアに魔物が取り憑いた!」
「あー……これ、すっげぇ面倒くさいことになりそう……」
そう呟いた男の側に、叔父よりも先に体格のいいもう一人の人買いの男がやってくる。男はユフィーリアと、その周りに咲く小花を見て驚いたように足を止め息を呑んだが、しゃがむ男の胸元に目を遣ると、ただ一言「兄ちゃん」と呟いた。
「なァ、お前、これ魔物に見える?」
「いや……見えない」
体格のいい男は、低い声でゆっくりと答える。
「昔、母さんが読んでくれたおとぎ話に出てくる女神様……の小さいのに見える」
「俺も祖父様のコレクションで見たことがある。あー、ただの田舎娘と思って来てみりゃ、とんだ大誤算だ」
「どうする? 兄ちゃん」
「――よし、運ぶぞ。ここは駄目だ、神都の大聖堂まで行く」
「……!?」
男たちのやり取りに、ユフィーリアはみるみる目を丸くする。
神都とは、あの世界樹の根元にある広大な宗教都市のことだ。いわばこの国の中枢であり、村から出たことのないユフィーリアにとっては、神話やおとぎ話の世界と変わりのない場所だった。
この人たちは、叔父が呼んだ人買いではなかったか――そんなことを考えながらぽかんと二人を見ていれば、しゃがんでいた男は丸い帽子を押さえながら立ち上がった。
「あのねェ――おじさんたちも好きでこんなクソみたいな仕事してるわけじゃないんだな。特におじさんたち、モノを見る目だけはあるから、売っていいモノと駄目なモノくらいの区別はつくんだよォ。まあ元締めに払う分さえもらえりゃ、娼館でも教会でも同じようなもんだ――行くぞ!」
「……っ!!」
男が駆け出すと、体格のいい男が軽々とユフィーリアを小脇に抱えて後に続く。
「人さらいめ!! 金寄越しやがれ!!」
背後では叔父の怒号が響いていたが、
「人さらいって……娘売り飛ばすようなヤツが、なーに言ってんだかねェ」
男は走りながら内ポケットからあのくしゃくしゃの書類のようなものを取り出すと――
「最高値だぞ、喜びな! テメェの食い扶持のために娘を売り飛ばす、甲斐性なしのろくでなしが!!」
「……」
――罵りの言葉とともに、丸めて後ろに放り投げた。
ユフィーリアがちらりと後ろを見れば、叔父たちはそれ以上を追ってこず、こちらを見ようともせず、ランタンの明かりの中、その紙を広げている。
十年分の別れがそんなものであったことに、ユフィーリアはかえって清々しさのようなものさえ胸の内に覚えてしまった。自分にどれだけの値がついたか知れないが、その金で夫婦二人、一生を幸せに過ごすことはできるのだろうか。
それからわずかな時を置いて、男たちは近くに停めてあった幌馬車にユフィーリアを放り込むと、あとはどんどん、村から離れていった。
・*・*・*・
その夜、ユフィーリアは夢を見た。
どこか暖かい場所で、ユフィーリアは優しく何かに抱かれて、まどろんでいた。
背や腕に感じる、空気よりもいっそう温かく、しっとりと肌に吸いつくような感触。もう忘れてしまった――多分、人肌の感触。周りからかすかに届く、草の萌える香りが、葉がさざめく音が、妙に懐かしい。春なのだろうかと一瞬思った。
しかしその直後、裸足で駆けた土の冷ややかさを、喉を枯らした刺すような空気の冷たさを、妙に生々しく思い出してしまった。
ユフィーリアがぎゅっと身を縮めれば、ユフィーリアを抱く何か――誰かは、ユフィーリアの髪に頬をうずめ、同じように瞼を閉じる。その気配だけ、なんとなく感じられた。
大丈夫、とやわらかい囁きが、耳元をくすぐる。
もう大丈夫だよ。ずっと待っているから、と。
耳慣れない、穏やかな青年の声。優しいのに、どこか切々とした憂いも底に含んでいる。
『あなたも……寂しいの?』
声が出た。返事の代わりに、寄せられた頬が縦に動く。
『そう……』
待っている、というなら、どこへ行けばいいのだろう。この冷え込んだ冬の夜を繰り返し、春まで進めばこの穏やかな声の青年に出逢えるのだろうか。
目を開けば、見慣れない木の天井が最初に瞳に映った。
体に伝わる振動。どこかふわふわとした心地が体に残っているのは、このせいだろうか。ころりと寝返りを打って、ようやくここが馬車の中だと思い出す。
馬車はどうやら罪人などを運ぶ護送車に、後から目隠しとして幌を張ったものらしく、外からは見えないが後部は木の檻になっていた。その檻の中で、自分は眠ってしまったらしい。今は幌が白い光をうっすら透過し、馬車の中を明るくしている。幌の梁から提げられたランタンが右に左に不規則に揺れて、見ていたら気持ち悪くなりそうだった。
ユフィーリアはいつの間にか上等な毛布にくるまれており、そこから抜け出て上半身を起こす。
ランタンの下には向かい合った座席が造られていたが、そこにはなんだかごちゃごちゃと物が置かれている。炊事に使う道具や大きな瓶、服、本。その合間を縫うように、今は体格のいい方の男が帽子を目深にかぶって座ったまま眠っていた。
(そうか。昨日……わたし、この人たちに浚われたんだ。それに、花が……)
手や髪をたしかめれば、花は相変わらず咲いている。――というより自分が眠っていたせいか、花自体は閉じてしまってはいたが、たしかに体からは植物が生えていた。
ユフィーリアは昨晩のことを思い出す。
自分を連れ去った二人の男たちは実の兄弟で、下がり眉の方はルドルフ、体格のいい方はブロンコという名前らしい。
煩雑に物が置かれた座席より檻の方が広かったので、ユフィーリアとルドルフはそこに座り込んでいろいろと問答していた。
問答といってもユフィーリアは頷いたり首を横に振ったりしていただけで、ルドルフは自分たちの素性についてはあまり明かさなかったが、ユフィーリアのことはいろいろと訊ねてくれた。本当の両親を亡くしたことをなんとか伝え、妖精だの精霊だのおとぎ話の住人の血筋ではないことも、理解してもらえたと思う。
が、どうにもその辺りから記憶がない。腹が減ったならこれでもしゃぶってなと干し林檎や干し葡萄が入った袋をもらって、それを舐めたり柔らかくなったところを食んでいるうちに眠くなっていった。単純だが、食べ物をもらって体の方が安心してしまったのだろう。
(なにしてるんだろう……わたし)
ユフィーリアは毛布を引きずり檻から出る。扉も錠も開けっ放しだったが、どうせこの体ではどこへ行くこともできない。ユフィーリアは眠るブロンコにそっと毛布をかけ、向かいの座席の荷物をぎゅうぎゅうと寄せて、ようやく空いた隅っこの席にちょこんと腰を下ろした。
「――目が覚めたかい、お嬢さん」
「……」
その気配に気付いたのか、御者台からルドルフの声が聞こえてきた。声が出ないので、代わりに隣でひっくり返っていた鍋底をトントンと指先で叩く。返事代わりに、薄く笑う息づかいが耳に届いた。
「それじゃあ、どっかで停まって朝飯にするか。――おい、ブロンコ! 起きろ、飯にするぞ!」
「ん……わかったよ、兄ちゃん」
ブロンコは盛大にあくびをしながら、帽子を直して両腕を突き上げて背伸びをする。それからすぐに自分に毛布がかかっていることに気付いて、隅っこにいたユフィーリアに目を留めると、また帽子を目深にかぶり「……ありがとう」と囁くような声で告げた。




