第六十七幕 『大樹寺の問い』
第六十七幕 『大樹寺の問い』
義元の敗北後、尾張の世論は急速に変化した。
駿河文教党への風当たりは強まり、各地で駿河派の政治家への批判が噴出する。
今川体制の崩壊を予感させる空気の中、騒動の中心にいた松平元康は、メディアの格好の標的となっていた。
記者や報道陣が事務所に押し寄せ、元康は身動きすら取れなくなっていた。 その窮地を救ったのは、水野信元だった。
水野はあえてマスコミの前に姿を現し、元康の元へ堂々と赴いた。 そして、密かに脱出の策を提示する。
「私が囮となり、世間の目を引き付ける。その隙に、お前を三河へ送り届ける。」
元康は逡巡した。 だが、選択肢はなかった。
水野は事務所を後にする際、各方面へ大胆な発言を繰り返し、注目を集める。 その間、水野の手の者たちは元康を秘密裏に三河へと案内し、無事に尾張を抜け出すことに成功した。
元康の姿は、松平家の菩提寺・大樹寺にあった。
祖父・清康、父・広忠をはじめとする先祖たちの霊前へ報告し、静かに手を合わせる。
桶狭間で今川義元が逮捕され、自らの政治生命も危うくなったこのとき、元康の胸には深い疲労と虚無があった。
やがて、彼は寺の住職・登誉天室上人の前にひざをつき、自らの胸の内を明かした。
「もう、これ以上続けるつもりはない……。私は政治の道から身を引きたい。」
石川数正ら幹部たちが必死に説得するも、元康の決意は固いかに見えた。 だがそのとき、登誉上人は静かに語りかける。
「元康様、今の世は争いと苦しみに満ちた荒れた世界でございます。 しかし、だからこそ、あなたのような人が平和で穏やかな世の中を目指して歩んでいく使命を負っているのです。 “厭離穢土・欣求浄土”——この乱れた世を嫌い、清らかな未来を求めるという言葉を、どうか心に刻んでくださいませ。」
その言葉が、元康の胸に深く響いた。 先祖たちが見守る中で、彼は思いを巡らせる。
義元の確約。 清康の信。 そして、三河の空白——
「……わかった。私は岡崎へ向かう。」
その言葉は、静かに、しかし確かに発せられた。 こうして、元康は政治家としての道を続けることを決め、地元・岡崎へ十三年ぶりの帰還を果たすこととなった。
義元の影が消えたあとに残ったのは、ただの空白ではなく、元康が自らの歩む道を問われる静かな時間でした。
大樹寺での言葉と沈黙が、彼の迷いにゆっくりと輪郭を与えています。
ここから物語は、三河という“誰のものでもなかった地”へと静かに焦点を移していきます。
次の幕で、その選択の続きを見届けていただけたら嬉しいです。




