第六十六幕 『静謀の余白』
第六十六幕 『静謀の余白』
大高の空は、どこか遠くを見ているような色をしていた。
元康は事務所の一室に佇み、窓の外に広がる静けさを見つめていた。
義元の逮捕。 駿河文教党の撤退。 そして、信長の動き——
それらが一つの流れとなって、彼の足元を静かに揺らしていた。
「……千秋が動いたのか。」
誰に語るでもなく、元康は呟いた。 あの場にいたのは偶然ではなかった。 信長の言葉、配置、そして千秋の協力—— すべてが、彼をあの場所へと導いていた。
「俺は……見られていたのか。」
義元の傍にいた者として。 清康の血を継ぐ者として。 そして、次に何を選ぶかを問われる者として。
机の上には、義元の残した資料が静かに置かれていた。
その中には、駿河文教党の支部構成、資金の流れ、そして未公開の政策草案が含まれていた。
元康はそれらに手を伸ばすことなく、ただ見つめていた。 それは、過去の重みであり、未来への問いでもあった。
そのとき、扉が静かにノックされた。 入ってきたのは、千秋だった。
「……お疲れ様です。」
元康は振り返ることなく、声だけで応じた。
「千秋さん。あなたは、いつから信長と?」
千秋は少しだけ間を置き、静かに答えた。
「ずっとではありません。 ただ、義元さんが“確約”を求めた時—— 信長さんは“選択”を始めたのです。」
元康はゆっくりと振り返り、千秋の目を見た。
「俺にも、選べということか。」
千秋は頷いた。
「義元さんの政は、終わりました。 でも、三河はまだ、誰のものでもありません。」
元康は窓の外に目を戻した。 その先には、静かに広がる尾張の街があった。
そして、遠く——大樹寺のある方角を、ただ静かに見つめた。
「……なら、俺は……俺のやり方で……選ぶ……」
その言葉には、まだ迷いがあった。 確信ではなく、自問のような響き。 だが、確かに一歩が踏み出されようとしていた。
こうして、義元の逮捕から始まった政の空白は、 新たな選択の胎動へと移り始めていた——。
義元の影が消えたあとに残ったのは、静けさではなく、選択を迫る余白でした。
元康の迷いも、信長の静謀も、まだ形にならないまま揺れ続けています。
ここから物語は、誰のものでもなかった三河へと静かに踏み込んでいきます。
次の幕で、その胎動の続きを見届けていただけたら嬉しいです。




