垣根のないリアルとバーチャル
窓から差し込む朝の光が私の顔を温める。鼓膜を激しく揺らす目覚まし時計の音とスマホのアラーム音で飛び起き、時計を手に取るとかなりヤバい時間であることに気づいて目を見開く。ココとのチャットが長引くと、決まって寝覚めはこんな時間になるのは覚悟の上だが、だからと言って設定時間を早めることはしない。ギリギリまで寝ていたいからだ。
母親が初めて挑戦したフレンチトーストはほぼ黒焦げだったが、メニューのレパートリーを増やしてくれることに感謝して完食。牛乳をゴクリと飲んで玄関へダッシュする。
大分脚力が付いてきたので、こういう朝の運動は効果的だと結論づけたが、その代償は遅刻ギリギリという危険な状況なので予断は許さない。
学校に近づくと、昇降口から女生徒の悲鳴に似た歓声が上がっている。また湖透先輩が遅い登校のようだ。先輩を追う集団に入らなくなって久しい。嫌いになったのではなく、今日もまた私にだけ振り向いてくれないという事実を確認するのが悲しいからだ。
廊下を歩く集団が道を塞いでいるので前に行けず、少し距離を置いて後ろを歩く。今日のSPはいつもの女友達ではなく、生徒会役員のようだ。
会釈するので振り返る湖透先輩に顔を合わせないよう、体ごと横へ移動するので、私は蛇行するように歩く。そうしているうちに、先頭を歩く海心都先輩が振り返り、ちょうど私と目が合った。男装の麗人に――と言っても女生徒の制服を着ているが――見つめられているみたいでドキッとする。ちょっとうつむいて、また前を見ると、海心都先輩はまだこちらを見ている。顔を上げていると、蛇行する私を目で追っているのがわかった。さすがに首が疲れたのか、前を向いてくれたが、ドキドキが止まらずフーッと長めに息を吐いて心を落ち着かせた。
教室に入ると、ファンクラブの四人が待ち構えていたのには仰天し、腰が引けた。彼女たちの横には、苦笑するココが立っている。
「ファンがお待ちかねだよ」
ココの一言で教室中に笑いが弾けた。顔を赤らめる一人が一歩前に歩み出る。
「みんなで仲間を申請したのですが……」
すっかり忘れていた。
「ごめんなさい。中国遠征していたので。帰ったらすぐに許可するから」
なんでゲームの中の話をリアルの世界で語るほど大胆になったのか。以前は「交易」の単語すら口に出す前に周囲の耳と目を気にしていたのに。ゲームで今どこにいるかまで普通に公開している自分に驚く。
変わったのは汐留くんの周りもだ。昨日、攻略サイトの執筆メンバーであることを公表した彼は、ゲームをプレイしている同級生からいろいろ質問攻めに遭っていた。笑顔の絶えない彼を見ていると、思い切って公表して良かったのではないかと思えてきた。
あと、変わったことは、大門くんに話しかける同級生が何人も現れたこと。「こーみとどこまでいってるの?」という質問も聞こえてきてこっちまで恥ずかしくなるが、「趣味は?」「運動やらないの?」「家で何をしているの?」といった問いかけに、恥じらいながらもキチンと答えている。無口な壁と揶揄されて、意図的に視界から消されていた彼が同級生と普通に会話できるようになったことがとても嬉しい。
ゲームの中で彼――サルヴァトーレさんは、私にチャットでこう語った。
『私は入学の時に、しくじってしまったようです。周りに女性が多いので、からかわれて自信をなくして。でもそれは、よく考えれば周りのせいではなく、自分の弱気のせいだったのです。そこの考えを改めないといけませんね』
彼は弱気を克服できたようだ。それを心から祝福したい。
残るは、門前さんだ。彼女は、まだ自分から人の輪に溶け込むことはせず、常に距離を置いている。無愛想はいつも通りで、そんな自分に満足しているようだ。でも、それには訳があると思う。何か、みんなと触れ合えるきっかけが出来るといいのだが。
放課後、ココから生徒会長宛の親展の書類を預かった。
「またキューピット役?」
「向こうだって、近くまで来ていることに気づいているはず。相手をリアルでドキッとさせたら?」
人事だと思って笑うココに見送られて、私は書類を持って生徒会室へ向かった。
生徒会室の前は、二人の生徒が書類を持って待っていた。私の気配に振り向いた二人は、何やらヒソヒソと話をしている。おそらく、スカーレットの登場よとか何とか言っているのだろう。なんとも恥ずかしくて仕方ない。在学中のテレビタレントもこういう気分なのだろうかと思いつつ、少し距離を置いて順番を待つ。
引き戸が開かれて姿を見せたのは、海心都先輩だった。彼女たちが手にしているのはおそらく生徒会長宛の親展のはずだが、副会長が受け取るつもりのようだ。二人の書類を手早く受け取った海心都先輩が、私の方を見たのでビクッとする。唇がほころんだように思ったが、私は顔がこわばり体も硬くなり、足を踏み出せない。
「何、そこで突っ立っているの? こっちに来てくれないとそこまで手が届かないよ」
その言葉でようやく体が動けるようになり、私は足早に近づいた。
「会長への親展なのですが」
「ありがとう。それより――」
海心都先輩が言葉を切って一瞬書類に目を落として受け取るが、再び私の方を見つめる。
「大変だね」
「何が……でしょうか?」
「噂」
何の噂かは明白だが、先輩の前ではとても口に出来ない。後ろで、湖透先輩が聞いているかも知れないのだ。
「何の噂でしょうか?」
「紅のガレオンに乗った女艦長スカーレット」
心臓が喉から飛び出そうになり、目が泳ぐ。
「そう……なのでしょうか」
「そうだよ。うちの湖透があのゲームやってるって噂も凄かったが、今の君のはそれを越えている」
震えが止まらず、言葉が喉に詰まる。
「…………」
「有名になると大変だよ」
「はあ……」
緊張の極致でまともなことが言えず、そんな自分がもどかしくて頬を叩きたくなる。
「でも、ゲームは嫌いにならないでね」
「はあ……、あっ、はい」
「何か困ったことがあれば、助けてあげる」
この言葉に私は舞い上がってしまった。その時、部屋の奥から湖透先輩の声が割り込んできた。
「そんな約束していいの?」
海心都先輩が後ろを振り返る。
「ん?」
「自分が誰かを名乗ってもいないのに」
「おっと、そうだったね」
すると、海心都先輩が私の方に向き直った。
「今どこにいるの?」
「ちゅ、中国です」
「日本はまだ?」
「一度、な、長崎で追い払われました」
「そうなんだ。なら――」
「海心都」
湖透先輩の凜とした声が海心都先輩の肩を越えてきた。苦笑した先輩は、
「ま、頑張ってね」
そう言ってガラガラと引き戸を閉め、足音を残していった。閉ざされた引き戸を呆然と見つめていた私は、湖透先輩の「バラしてはダメよ」の声が漏れ聞こえてきて我に返った。
(そうだ。今日にも捜さなきゃ!)
私は一礼して、足早に教室へ戻った。
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