第四話:その時は突然に
琴音は電車が揺れた衝撃で僕の肩とぶつかり、目を覚ました。
「ふぇ?ここはどこです?」
「東加古川駅と土山駅の間」
「そうですか…って、もう通り過ぎてますよ!?」
「いいんだよ。とにかく着いてきて」
琴音は何やら不思議そうな顔をして僕の方を見つめる。
それからまもなく、電車が停車して僕らは降りた。
駅を出てからは大通りに出て、そのあとひたすらに側道を目指し、歩いていく。
「お兄ちゃん、どこへ向かってるんですか?」
「…ここ」
「…ここって…」
そう、ここは琴音が行くはずだった中学校だ。
「琴音の行きたがってる学校」
僕は、琴音の理解しているであろう内容をわざと補足した。
インターネットで、一応外観だけ検索したんだ。
だから、きっと分かってるはず。
「…頑張ります」
んー、逆効果だったかな。
余計緊張してしまってるみたい。
琴音の手はグーのままだった。それを、解くことは無い。
夕方なので、まだ部活をしている生徒たちが居た。
その中で、僕は知っている少女がいた。
琴音も、彼女の方をじっと見ている。
須磨涼子。琴音の友達候補で、詞音の友達。
練習してる…いや、練習に付き合ってる?
そういえば、もう大会は終わってたな、僕の中学校の頃、この時期には。
「次行くよー」
「はいっ!」
ボールを高くあげて、サーブする。
そもそも、学級の先生や顧問の先生から許可はとってるんだろうか…?
と思ったが、大丈夫そうだ。
少し離れた位置からベンチに座った顧問らしき男性教師が見える。
そして、顧問らしき教師が立ち上がり、須磨さんに声をかける。
何回か「はい!」と大きな声で返事をしたあと、須磨さんはラケットを回収して校舎の方へ走っていった。
更衣室へ向かうのだろうか?
「待つ?」
「…」
「待ちたい?」
二度質問して、琴音はようやくこくりと頷いた。
僕らは正門へやってきた。
裏門は空いてなかったから、こっちから帰るだろう。
傍から見れば犯罪者だな、僕ら。
「変に思われないですか?」
「モジモジしてる方が変だと思われるよ」
琴音はビクッとして、直そうとするもどうしたらいいのか分からないという感じで僕を見つめた。
その目は、涙で潤んでいる。
琴音はきっと、周りから見て普通である存在になりたいのだろう。
いわゆる、『普通』の存在に。
ほとんどの人には、造作もないことだ。ただそこに居ればいいだけ。何もせずに、ただ。
でも、琴音にはそれが難しい。
普通の基準をまだ知らないのだ。
取り敢えず、挙動不審に見えないようにしよう。
「背筋を伸ばして、手は体の横」
そう言うと、琴音は気を付けの姿勢のまま動かなくなった。
極端すぎたかな?
なんだか、今日の僕はから回ってばかりな気がする。
「琴音ちゃん?」
「っ…」
正門から出てきた須磨さんに声をかけられた琴音は、一歩退いた。
そんな琴音の言動とは裏腹に、須磨さんは柔らかい笑顔を浮べる。
「奇遇だね、こんなところで会うなんて」
「は、はい、そうですね、須磨さん」
まだ本人の前では「りょうちゃん」とは呼べないらしい。
すると、琴音が手に持っていた袋を漁り、その中から恐らくペンであろうものを取り出して須磨さんに渡した。
僕はまだ中身を知らないのだ。
「わぁ、水族園に行ってきたの?」
「はい、今日…」
恐らく、袋に水族園と書かれているので察したのだろう。
そして、かなり緊張している様子でペンらしきものを突き出す。
手は、綺麗に前にならえをしているようだった。
「そっかぁ、ありがとう!」
心の底から嬉しそうに、須磨さんは笑った。
まるで、琴音とずっと友達だったように。
つい最近知り合った人に見せる類の笑顔ではなかったのだ。
琴音は、少し恥ずかしそうにした。
「一緒に帰ろう、琴音ちゃん。前のマンションに住んでるんだよね?」
「前…?」
「そうだよ」
答えるのに手間取った琴音の代わりに、僕が答える。
手間取るのも無理はない。
前なんてもの、琴音は知らない。
だから、答えようがないんだ。
「そういえば、琴音ちゃん。最近タピオカってのが流行っててね?」
「へ、へぇ、そんなものが…」
須磨さんが狭い側道を、自転車を押しながら歩く。
そのすぐ後ろを琴音が着いていき、僕はさらにその後ろ。
一列縦隊の陣形を崩さないまま、歩き続ける。
二人は雑談…、一方的に須磨さんが琴音に向けて話しているだけなのだが、琴音はなんだか楽しそうだった。
「ふーん、琴音ちゃんはお兄さんのことが大好きなんだね」
「ペンギンさんはその次です」
んー、何か変なことを話している気がする。
でもまぁ、兄として、妹に好かれるのは嬉しいことだ。
そう、家族は本来、誰のことも好きであるべきだ。
だが、琴音と父にはそれはあるのか?
「お兄ちゃん?」
琴音の声で現実に引き擦り戻される。
「お兄ちゃんは琴音の事が好きですか?」
「うん」
当たり前のことを、琴音が僕に質問してきたので即答する。
それを聞いて、琴音は何故か安心した顔をした。
「大好きだよ」
付け足すように、僕は琴音に告げる。
すると、今度は「魚住さんとどっちが好きですか…?」と小声で聞いてくる。
僕は素直に、
「どっちも」
と答えた。
琴音のことは妹として好きだし、魚住さんのことは恋人として好きだ。
豊岡さんのことは友達として好きで、卯月さんのことは後輩として好きだ。
長門さんや明日香さんたちも、同じくらいに好き。
それに優劣なんてない。
そもそも、ベクトルが違うから、比べようがない。
「お兄ちゃんらしいですね」
「いいお兄ちゃんだね、琴音ちゃん」
僕らしいって、なんだろう?
それにいいお兄ちゃんって、僕が?
…そんなことない。
本当にいい兄なら、琴音はもう学校に行けているだろうし、どちらかもすぐに選べるだろう。
琴音か、詞音か。どちらかを。
だけど、僕も選べない。
そもそも、選んだところでどうにもならない。
詞音が戻るか戻らないか、それは僕の決めることじゃないから。
でも、割り切るくらいはできるだろう、いい兄なら。
だけど…。
僕には、その確信が持てない。
もしかしたら、今この状況で詞音が戻るかもしれない。
でも、そんなことになれば、僕は耐えられない。
悲しみとか、喜びとか、色んな感情に潰されてしまう。
「お兄ちゃん!」
まただ。琴音に現実に呼び戻された。
琴音はプクーっと、頬に空気を貯めて膨らませる。
僕はそれを指で突いた。
ぷはっと、琴音は口を開けて空気が放出された。
「お兄ちゃん、大丈夫ですか?」
「確かに、さっきからぼーっとしてますけど…」
「あぁ、うん」
適当な返事を返す。
二人はそれ以上に詮索はしなかった。
前に向き直り、また歩き出す。
「じゃあね、琴音ちゃん」
「はい、さようなら」
二人は随分と打ち解けたのか、笑いながら手を振った。
エントランスの前で、僕らは別れる。
琴音は、去り行く須磨さんの姿をずっと見つめていた。
といっても、五十メートルもないんだけど。
「お兄ちゃん」
琴音はエントランスで僕に声をかける。
「今度は、ジンベイザメさんに会いたいです」
ジンベイザメ。世界最大の魚。
確か美ら海水族館に居たはずだ。
でも、僕も琴音もパスポートを持ってない。
「父さんに頼んでいつかパスポートを作ってもらおう、それから沖縄の水族館に会いに行こうよ」
「はい!」
琴音は、眩い笑顔を向けた。
その笑顔には、曇りなどひとつもなかった。
僕は、ふと考えた。
琴音は昨日、自分のことは好きかと聞いてきた。
そこで思った。
もしかして、琴音は、一番好きと言われたかったのではないかと。
ただの自意識過剰かもしれないが…。
「人って、どうして愛されたいと思うんだろう、自分だけ」
「知らないよ」
「私も。何、哲学書でも読んだ?」
「いや、そういう訳ではなくてね?」
僕は、昨日のことを全て話した。
今現在、バイトのシフトが終わった直後。
ちょうど二人もあがっていたので相談に乗ってもらうこととなった。
「まぁ、あれよ。人は独占欲が強いから、独り占めしたいってなるのよ」
「でも、琴音は謙虚ですし…」
僕が言い訳臭いことを言っていると、二人はまるでわかってないとでも言いたげにため息をついた。
僕は、本当に何もわからなかったので首を傾げる。
「先輩、誰にでも欲はあるよ?琴音ちゃんは普段は抑えてるだけで、本当は先輩のこと好きなんだよ。どうしようもないくらいに」
「なんで分かるのさ?」
「だって言ってたじゃん。『妹が布団の中に潜り込んでくる』って」
「それは…ただ寝ぼけてただけでしょ」
でも、毎度毎度寝ぼけて入ってくるのもどうかとは思うけど…。
実際、今朝も入ってきた。
「普通、好きでもない人の布団なんて入らないし、ただ好きなだけなら起こすだけでいいでしょ?それに、私もあるわ。最愛の人の布団の中に入ったこと…!つまりそういうことよ」
長門さん…。大変だね、兄妹愛が行きすぎると。
えっと、その理論でいけば…、琴音は僕のことが大好きで、それ故に愛を独り占めしたいってこと?
「でも、それなら魚住さんと僕を別れさせようとするんじゃない?」
彼女なんだから、愛して当然と琴音は思うだろう。
だからこそ、そういう思いがあるのなら、一刻も早く別れさせたいはず。
でも、琴音はそんなことしなかった。むしろ喜んでくれた。
「つまり、琴音ちゃんは先輩から一番愛されたいけど、先輩の恋人である私のことも尊重してるってこと…かも」
簡単に言うと、兄から一番好かれたいけど別れさせるのは僕にとってのダメージになると考えたのか。
兄の悲しむ姿を見たくない、そういうことだろう。
「あら、もうこんな時間ね。二人とも、帰りましょ?」
「あ、はい」
魚住さんもロッカーからリュックサックを取り出して、背負う。
僕は既に机の下に置いておいたリュックサックを引っ張り出した。
帰り道、魚住さんが口を開いた。
「先輩」
「何?」
「また、デートしようね」
「うん」
恐らく、今頃皆は夏休み最後の余韻に浸っている頃だろう。
そんな日々を、恋人と一緒に過ごすのも悪くない。
まぁ、昨日までは妹と過ごしていたんだけど。
「日、少し短くなってきたね」
「もうすぐ九月だもん」
そう、本日は八月二十六日。あと一週間も経たずに九月である。
スマホのホーム画面には六時五分と表示されていた。
なんだか、一週間前と比べ、日が傾いている…気がする。
「あっという間にクリスマスだよ」
「なにかプレゼント渡すよ」
あ、プレゼントといえば。
ある意味それよりも大切なことを思い出した。
「そろそろ、魚住さんの誕生日だよね」
「うん、九月五日。覚えててくれたんだ」
「期待しててよ」
「自ら、ハードル上げて大丈夫?」
魚住さんはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
無言の圧力とは、まさにこれだろう。
でも、これを受けても尚ちゃんと期待通りのプレゼントを買ってこその彼氏だろう。
貯金には…もう少し余裕がある。
最終手段、貯金箱から引き出すか。
たしかある程度溜まっていたはずだ。
「ただいま…」
家に帰ると、何やら空気が重たく感じられた。その原因は…。
さっきからかすかに聞こえる、豊岡さんの悲痛な叫び声が原因だろう。
「なにか…琴音!?」
僕がドアを開けると、その目に琴音の姿が写った。
だが、その琴音は何やら床に倒れていた!
息が上がって、肌が赤くなっている。
それを、ゆさゆさと揺さぶって目を覚まさせようとする豊岡さんの姿も確認できた。
「救急車は!?」
「もう呼んだ!」
その直後だ。
インターホンが鳴り響いた。
「来てくれた!」
僕は、早足でドアまで行き、覗き窓から外を見る。
受話器を外して呼びかければ良かったのだろうが、僕はそんなことに頭もまわらず、確認してドアを開いた!
その後は、救急隊員の人が琴音を抱え、救急車まで運んでくれた。
その後、父にも連絡。
「すぐに行く」
と、単調ながらも力の入った声色で告げた。
豊岡さんは、第一発見者として聞き込みをされていた。
もちろん、僕も。
だが、その内容はあまり覚えていない。
気が気ではなかったからだ。
「琴音はどうなるんですか!?」とか、「助かるんですか!?」とかと、言ってたことくらいしかわからない。
それも、何度も言っていたから覚えてたんだろう。
隊員は「夏バテが悪化した症状」と言っていた。
夏バテなら、いずれ治るのだろう。
でも、琴音の苦しそうな顔を見ると、胸が苦しい。
こちらまで苦しくなってしまう。
それから、市民病院に着く。
琴音は診察をベッドの上で受けた。
医者の見解は、やはり「夏バテでしょう」とのこと。
「まぁ、様子を見ましょう」
と、椅子から立ち上がりながら医者は言った。
僕は、点滴を打たれても尚眠り続ける琴音を、ただ呆然と見つめた。
豊岡さんは、「琴音ちゃんのこと、守ってあげて」と言って、病室を出て行った。
「礼音」
「父さん…」
父さんが到着したのは、もう十時頃だった。
曲がったネクタイを直しながら、スーツ姿で歩いてくる。
その顔からは、焦りを感じられた。
「夏バテだってさ…」
「そうか…」
振り絞るような声が届いたらしく、父さんは少し安心した表情をした。
だが、まだ緊張の色は消えない。
琴音が目を覚ましてないからだ。
それから数時間、僕はただ父さんと琴音を見つめていた。
そのうちに眠くなってしまい、最終的にはベッドに半ば身を預ける形で寝落ちしてしまった。
「お兄ちゃん」
何だか妙に子供っぽい声でのモーニングコール。
僕は慌てて、ベッドから身を起こす。
「ごめん、寝てた…」
「あれ?お兄ちゃん老けた?」
不思議そうに聞いてくるのは、紛れもない。
他の誰でもない、僕の妹だ。
だが、琴音じゃない。
「びっくりしたよー、いきなり点滴打たれてるし、お兄ちゃんは私の足の上で寝てるしー」
不満をダラダラと宣っているのは、琴音とおなじ顔をした少女。
そう、詞音だ。
記憶が…戻ったんだ。
「え?お兄ちゃん…だよね?」
僕は、無言で頷いた。
何か言うと、数珠繋ぎで気持ちが溢れ出してしまうから。
「…ちょっと、朝ごはん買ってくる」
絞り出すように、余計なモノが出てこないように僕は口にした。
「あ、うん、行ってらっしゃい…」
それから、僕は静かに涙を流した。
その一つ一つに、琴音への思いを浮かべて。
「琴音は、お兄ちゃんの高校に行きます」
まだ行けてないじゃないか。
赤本だって、まだまだ解いてないページだらけなのに。
「琴音は、学校に行きたいです」
まだ一度も登校できてないじゃないか。
父さんからの連絡も来なかった。
でも、昨日も「明日はきっと来ますよね?」って、聞いてきて…。
「今度は、ジンベエザメさんに会いたいです」
会えてないじゃないか。
パスポートだって作れてない。
父さんに相談さえできてない。
夜、相談するつもりだったんだよ…、僕は!
そのやるせない気持ちが溢れて止まらなくて、僕はただただ涙を流した。
その涙を枯らしてから電車に乗り込んだ。
まだ鼻の奥がツンと痛む。
こうなることは分かっていた。
分かってたけど…。
もっと、力になってあげたかった。
せっかく、豊岡さんや母さんのおかげで外に出られたのに…。
ペンギンにだって会えたのに…。
その記憶が、全部消えてしまうなんて、あんまりじゃないか…!
駅に着き、電車から降りる。
僕は、ただただ足を進めた。
家路を一歩ずつ。
そこには、誰もいないのに。
出迎えてくれることなんてないのに。
家に帰ると、「にゃー」と、明石が寄ってきた。
そう言えば、夜ご飯もまだだったな。
少し量を増やした朝ごはんを、明石は皿の一部を浮かせてコトコトと音を立てながら食べる。
「お兄ちゃん、明石がご飯が欲しそうです!いつもよりにゃーにゃーです」
そう言ったのは一か月前。
もう、遠い昔のように感じる。
でも、いつかはこうなるんだ…。
その時、僕は思い出した。
琴音に、かけた言葉を。
「不安なら、琴音が琴音である証拠を作ればいいんだよ。これに、琴音である証拠を書いていこう」
そうだ、琴音には日記があった。
他人に見せるものじゃないが…。
形見として、取っておこう。
僕は、琴音の部屋を訪れる。
詞音の部屋から、大分家具を変えた。
勉強机はそのままだが、クッションや絨毯、シーツや掛け布団なども、買い換えた。
少しでも、琴音の気を楽にするため。
琴音は、詞音の元の部屋が息苦しいと言ったから。
感傷に浸っていると、ふと、机の上にノートが置かれているのを見つける。
そのノートには、丸く可愛らしい字で、『お兄ちゃんへ』と書いてあった。




