京都という舞台
一般的に京都というと排他的なイメージが先行する。しかし、僕はどちらかというと京都に訪れる学生や観光客を相手にする機会の多さから京都人は寛容的なものだと思っていたていた。実際、高校生の頃に訪れた京都では京に住まう人の良さに惚れ込んだものだ。だが、その幻想は見事に打ち砕かれた。
○年前、大学進学の為に博多から京都に越してきた僕は入学前、その話し言葉から周囲に溶け込めないことを懸念する羽目になった。それまでの京都のイメージはあくまでも観光した際に構築されたものであると気づかされた。実際に「あかんやろ」や「なんでやねん」といったテレビ越しに見ていた言葉が日常生活で飛び交う様相には、それまでに構築された寛容的なイメージとの剥離を感じ、ある種の感動と同時に閉鎖的なステレオタイプの関西人を連想させた。
ただ、僕の心配とは裏腹に、入学して暫くは九州出身ということも幸いして珍しげな目を向けられた。つまり待ちの姿勢でも万事大丈夫だったのだ。博多弁というテレビ以外では余り耳にすることのないであろう言葉にいちいち感動され、一言話すだけで友人関係が形成された様な気がした。
だが、今に思えば遊ばれていただけだったのだろう。誰かの「やっぱりイントネーションと語尾がちょっとちゃうねんな」に始まり、それ以来しばらく博多のイントネーションで語尾を発することを何度も求められた。しかしそれも次第に飽きられ、元来の低すぎる対人スキルも相まって、最終的に僕はすれ違い様に「おつかれ」の一言を返す、ただ連絡先に存在している、それだけの人間になっていた。
おつかれ関係は断とう。その決心がつかなかった。お陰で一回生前期中盤だというのに顔に張り付いた愛想笑いが筋肉痛を思わせる日々が続いている。不幸なことに大学は山中にあり、一度門を潜るとキャンパスに閉じ込められてしまう。
見渡せばどこもかしこも大学という川を上手に泳ぐ魚ばかり。その中で僕は飛びきりのカナヅチのようだった。
溺れかけた僕が息継ぎに避難するのが喫煙所だ。喫煙所は講演でしか使用されないホールの裏にあり、人が群がることは滅多にない。今日も今日とて僕は燦然と輝く太陽に負けず劣らずの人種を横目に喫煙所に逃げる日々を送っている。




