被害者と加害者
手っ取り早く人生を劇的に変えたいなら知らない地に引っ越すなど環境を変えてみることだ。手っ取り早くはないが臨死体験という手もある。こういった具合に望めば人生はいくらでも変える事ができる。もちろん否応なしに変えられることもある。僕も一人の女性に大きく人生を変えられた。その女性にとって僕は被害者であり、また加害者でもあっただろう。
深夜1時。豆電球の頼りない光が一つでも心配することはない。差し込む月光が我が城を照らす。ベランダにて虫の声を聞き、紫煙を燻らせ物思いに更ける。清き水に魚は住まぬ。相棒から教わった本日の学びだ。そう言えば我が城下町にも思い当たる節がある。一見すると歴史的建造物が古都の風情を残しつつ、そこに同居するビル達が先進的な側面を醸し出し流麗に見える京の都も、群がる学生や観光客といった人々の雑踏によりその清流はドス黒く濁って見える。
一転して我が城を見渡せばどうだろう、引きこもりにしては意外すぎる程に片付いていている。清き水には引きこもりが居つく。成る程これも現実に則した言葉なのかも知れない。そんな下らない事を考える暇があるなら情報収集だと、引きこもりの体にムチを打ち、頼れる相棒のもとに向かう。
相棒を駆使し情報収集と称したネット掲示板巡りをしていると「子供部屋おじさん」なる言葉が目に入った。掲示板によると定義は曖昧だがおじさんでなくても成人男性が子供部屋に居るというだけでおじさん認定されるらしい。ということは僕もおじさんなのか。まだ25歳なのに。それにしても、誰がいつこのような心ない言葉を考案したのだろう。子供部屋おじさんという言葉の刃が浸透して久しい。僕が子供部屋学校に入学した当初、既に目にする言葉だったので少なくとも3年前から存在していたことは確かだ。今や僕も立派に子供部屋おじさん3年生。お年玉貯金と高校生の頃にバイトで貯め込んだ貯金を切り崩し最低限度の生活を保ち、日々ゲームやネット掲示板三昧だ。何をするにしても無気力。絶賛休学引きこもり中だ。そして休学しているにも関わらず、その事実は周囲に伏せている。親からの頑張っているか、その確認の一言が心に突き刺さりまたひとつ新たなササクレを残したことは記憶に新しい。時間はまだ午前2時30。明日も明後日も明明後日も日曜日の僕には起床時間なる制約はない。だからまだ床に着く必要はない。よし、まとめサイト巡回と行こう。そう思い立つもその思いとは裏腹に僕の眼は物を見ることを諦めたようだった。
目覚めると朝の8時だった。太陽と対面するなんていつ振りだろう。引きこもりの僕は太陽が大いに憎らしい。本来、人間は日中に活動するという一般論は間違いであると声高々に主張したい。その昔、人がネズミだった頃はコウモリも驚くほどの夜行性だったはずだ。原点回帰、その言葉を地でいく生活を僕は送っている。訂正しよう。引きこもりは否応なしに夜行性に変貌してしまうのだ。
しかし、今日の様にごく稀に朝に目が覚めることがある。
そんな時は決まってベランダで煙草を吸う。煙草とは下界の空気と混ざって初めて美味さが分かるもなのだ。紫煙を空に逃がしつつ顔を下方に向ける。眼下に広がる黒蟻と白蟻が行き交う様にはある種の感動を覚える。画一された黒と白の蟻達は皆一様に職場という名の餌場に向かうべく川を作っている。日本の蟻は素晴らしい。心からそう思うと同時、一抹の焦燥も覚える。「さしずめ、今の僕はキリギリスやな」関西生まれの者が聞けば気を悪くするだろう独特の関西弁で独りごちる。現状は死に体で餌場に通う彼らが負け組で僕が勝ち組という認識だ。しかし蟻の彼らには各々将来の夢や家族があり、最終的に勝ち組になることは純然たる事実である。悲しいかな現実は童話と違い、双方が幸せになる終わり方はない。
だが、彼らを見習って行動しようという気持ちは更々ない。僕は今の僕が社会という大海原に飛び込めば、その刹那、黄色い線という土俵からはみ出てしまうことを自認しているからだ。もしくは棒が降りきるその寸前に飛び出すことを厭わないだろう。その認識が間違いではなかったということは自らの伸びきった無精髭や路上生活者を連想させる長髪が何よりの証左だ。だから僕は「僕はキリギリス。今日も勝者の煙草は旨い。」と精一杯の強がりを自身に言い聞かせ、現実から逃げる様に再び枕に挨拶した。
目覚めると夜の9時だ。引きこもり生活を続けると下界との繋がりが認識出来ない。否、繋がりを嫌ったのだから引きこもりという棘の道に進んだのだ。
しかし、その想いとは裏腹に身体は下界との繋がりを渇望する。人は古くから集団生活を営み進歩してきた。それに反する行動をとればこその反応なのかもしれない。
引きこもりには付いて回る矛盾した性なのだろう。ひとしきり相棒で情報収集に勤しみ時間を潰した頃、1時になった。よし、徘徊だ。引きこもりの僕にとって個と個の繋がりはどうでも良いが、個と下界との繋がりを確認するこの作業は一大プロジェクトなのである。僕はいそいそと下界へ繰り出した。
しんとした町を歩く。この瞬間の下界と僕とが繋がっている感覚が心を落ち着かせる。世界の縁にいる感覚。社会的に恥ずべき立場を許されているという自己満足。おおよそ一般人には分からないであろう安堵を噛み締める。
暫しの間、余韻に浸っていると生ぬるい風が肌を撫でる。僕の意識は一気に京都に戻された。京都の気候にはうんざりだ。夏は暑く冬は寒い。現代京都に漂う空気は雅さの欠片もない。
じめじめした空気に気分を悪くしつつ歩みを進めると深夜徘徊の折り返し地点の四条通りまで来てしまった。若者が一人ギターを片手に愛と勇気を歌っている。「愛と勇気は朝の知育番組で腹一杯なんだよ。」心中で毒づく。すれ違いざまに若者を見てみるとあんパンの如き造形をした顔を確認することが出来た。心が晴れた。と同時、本日伸びるであろうスレッドタイトルが決まった。
ジュンク堂書店を折り返し、帰路につく。途中、祇園祭りのポスターを目にし、もう祇園かと気づかされる。
無為に日々を消費する日常が続き、忘れていた。この季節が僕の胸の一際目立つササクレを更に奥深くに押しやる。




