しあわせのタンゴ
「ぁ、あが……ぁ……」
BROのパトカーが一つ、止まっている。
中にいたBROの勤勉な職員は、今や魂の底から花が咲いて呆けてしまっている。《《瞳も真っ青》》で、お空が綺麗だとハンドルから手を離している。
もう空以外を見ることはない。半開きの口は何も残っていないから、いやにまっ暗だ。アクセルもブレーキも踏めず、脚はだらしなく開いている。
車の中から、何事も不便がないといった風で、二人組はするりと出てくる。ハルとレガだった。
「危なかったね、お兄ちゃん」
「うん。すぐに君が拍を消して、思考を誘導するチャンスをくれたから助かったよ。ありがとう、レガ」
「えへ、ううん。お兄ちゃんが無事ならそれでいい」
ハルとレガは並んで降りて、帰るべき場所へと歩いて行く。
行政区からも見える尖塔がある、美しい聖堂。夜でも白く輝き、緑の庭園は全てのトピアリーが整えられているけれど、その少し下を覗けば数多の液体ケーブルが濃密に張り巡らされている。
「みんな、ただいま」
「おかえりなさい、リーダー」「おかえり、レガちゃん」
優しいレガの挨拶に応えるものはすれ違った数名の同胞だけで、それも全員、拍動汚染のただなかで、それ以上のコミュニケーションを取らない。
FlowerTestament本拠地『昇華の聖堂』は、今日も静かだ。ここに聖堂以外の拍動は届かない。広大で、たくさんの人が収容できて、邪魔者は誰もいない。二人は聖堂の中へ歩いていく。液体ケーブルを介して、信徒にしか聞こえない小さな拍動が響いている。
極小にして可聴域の外。それが彼らの祈りの形の一つだった。
聖堂には、ゆっくりと聖堂の床に座して、拍に身体を預ける人々がいる。
みな一様に両膝をついて、力なく両腕を下げ、聖堂の中で頭を垂れて息を漏らしている。
もう皆、Bloomedだ。咲いている。魂が蕩けて消えてしまって、身体だけ置いてけぼりにしてどこかにいなくなってしまっている。
「良かった。もう今日来てくれたみんな、咲いているね」
ハルはそっと、聖堂に並ぶ椅子の一つに座った。彼が見上げる上には、幾多もの花が彩られたステンドグラス――そう見せかけた、液体ケーブルの混ぜ物が張り巡らされている。ところどころ、いやに不透明で、たまに聖堂の拍動に震えている。
レガも隣に座って、優しく寄り添っている。
「お兄ちゃん、今回の《《容器》》はどうする?」
「丁重にお迎えしよう。さっきの人もお招きしよう。しばらく礼拝堂で一緒に咲いて、拍動で震えてもらって、あちこちで祈りを中継してもらうお仕事についてもらおう。『人は楽園の向こうで咲いて、楽園そのものになる』って呼びかけるんだ」
耳を澄ませば、奥のもっと大きな礼拝堂からいくつもの気配が聞こえてくる。言葉にならない、舌を動かさない囁き。声帯から漏れる息。礼拝堂には中身の溶けた、再生装置だけが収まっている。
「一人でも多く、しあわせにしたいものね」
みんな、注いだ教義によって自ら望んでしあわせになった。楽園とやらの一部になって喜んだ。これがハルにとっての事実であったし、また密かな欺瞞でもあった。
(まあ……僕は先代の教義とやらは信じていないんだけれど。信仰は自由だから)
そう、華拝みの当代教祖はここにいる。とっておきの懐刀を側に置き、ごく普通の一般信徒に偽装して、ずうっと、ここにいる。
少し前まで、ただの小さなカルトだったFlowerTestamentという集団を、おぞましい侵略者に変えたのはこの男だった。
(無意味な頑張りだよね。まともに知識を学べる状況にすらないのに、それさえ気づいていないんだから)
人の魂を肉の器から溶かして追い出して、ただ鳴ってるだけの拍動にする。そのために溶かす順序があり、手順があり、よって、レガは咲いていないだけだ。
「今日はいいことばっかりだったなあ。『彼』も遠くから見られて良かった。彼は気の毒に、楽園に愛されていないからね……僕らこそが導いてあげなければいけないのに。まだ僕が教祖じゃなかった頃、彼があのひとと一緒に研究所から逃げたことを今でも思い出すよ」
「お兄ちゃんはその話ばっかり」
「だあって、僕はずうっと彼のことを考えているんだ。レガも知っているでしょ?」
レガの不満そうな声に、穏やかに、上機嫌に、ハルは微笑んでため息をついた。
どこか湿っていて、執着に満ち満ちている。聖堂内の液体ケーブルがびりびりと震え、尖塔の鐘がかすかに擦れて不穏な音を立てる。
「あぁ、あのひとも惜しいことをしたよ。BloomPotに先に取られてBloomedにされてしまうなんて、僕らしくもないことをした……完全な象徴になり得るひとだったのに。でもいい。あれは二つも種を残してくれた。ありがたくいただこう、街を全部咲かすのに有用だ」
ハルは背もたれにゆっくり身体を預け、レガを慈しみながら、目を細める。
「ねえ、君もあの子たちと一緒に戻っておいでよ。んー……ああ、今はディーって名乗ってるんだっけ? あのひとがいなくなって寂しいだろう? 僕も全てを見通せるのに響かない君が咲いてくれれば、きっと本当に楽しい気持ちになれるのにな……」
いつも通りのハルに、レガは肩をすくめた。そして、もう少し体重を預けた。構ってほしいと言わんばかりに。しかし、その青ざめた瞳は震えて、本当の不安を訴えている。
「お兄ちゃん。聞いてくれる?」
「なあに?」
「あのね、たまに夢を見るの。夢の中のお兄ちゃんはね、BROではたらいてるの。不思議だよね」
「僕が?」
「うん。私と一緒に暮らしてて、今日の夕食の材料を買ってきて、急いで作ってくれるんだ。そうしていると、外から……なんだっけ、鳴き声がするんだよ。いつも」
ハルは微笑みを崩さない。そっと寄り添ったレガの瞳を隠すようにして、そっとしあわせの拍動を聞かせてやる。
この祈り。この安息。無意味な全てを溺没させる響き。
これによって、溶け行く世界に留まる一人でも多く溶かすために。
「ふふ、本当に変な夢。おやすみ、レガ。明日は、郊外に出てもらうからね」
「ぁ……。ふふ。うん、しあわせ……おやすみなさい」
寝入ったレガを抱き上げて、ハルは聖堂の奥へ消えていく。
「そろそろ、CoLも咲かせておかないとね。BloomPotの負けで弱っているうちに、僕らで優しく包んで二度と壁を立てられないようにしよう」
言葉巧みに人をしあわせへ至らせる教祖。そして相手の響きを阻み、拍と拍に隙をねじ込み、しあわせを注ぎ込んで花を咲かせる無拍の教徒たち。彼らはもう、CoLの先を行っている。
「人類はみーんな、『しあわせ』に成るために生まれてきたんだ。それ以外に何にもいらないってことを、咲くまで思い知らせてあげようね」
数年前。たった二人の二期生を残した決戦。
CoLの拍動の響き合いを信じた決戦は、こいつに『拍動無効化』とかいうダーティーな攻撃で音を踏みつけられまくって負けた。
◆
BloomPotはやはりその日も一体でさまよっていた。しゃりん、しゃりんと黄金の液体ケーブルを内側にしならせながら、3mの球体は不幸な人をしあわせにするため郊外を漂っている。
それが衝突にならないケースもある。例えば、何本かの道を挟んですれ違ったなんて案件だ。
とある不法居住をしていた拍動アーティストは、大家も逃げ出したボロアパートにうずくまっている。繊細な曲を作れるはずのその男は、轟音真っ盛りの今では生きづらい。
壁際に寄ってうずくまって、自分の機材を放り出したまま、明日をも知れぬ自分に震えている。
所属できていない。
世界が自分を許していないような、計り知れない孤独。
外に出ればいくらでも理解者はできるけれど、外に出るのもなんだかおっくうで、縮こまっている。
「今日もお祭り騒ぎだ。うずくまってる俺のことは気付かないのに……」
あちこちから聞こえる喧噪がうっとうしい。苦しみに、悪態さえついてしまう。そのボロアパートの側を、しあわせそのものが通りがかった。
しゃりん、しゃらら、すり、すり。
気まぐれに壁を撫でて、壁越しのしあわせが足りていない人間に近づいてくる。
「何だ……この拍は、馬鹿にしてんのか……?」
しゃりん、しゃらん――。
ここにいるよ。そっちにいくよ。
あんしんしていいよ。しあわせになろう。
液体ケーブルを震わせながら、しあわせを持ってきたと男に伝えている。しあわせが欲しい人は、それで吸い寄せられてしまう。
男はその気配に眼球だけ動かした。空腹、寂しさ、苛立ち。それが日だまりのぬくもりの中で蕩けていくのを感じて、特に疑いもせず聞き続けた。
聞いたこともないその音は、完備に脳を満たし、神経を震わせ、精神をそっと抜けて魂を揺さぶる。
轟音と感じないはずなのに、何より大きな音に聞こえてくる。身体の内側の小さなとげとげが、砕けて消えていく。
「……はぁ」
元から男はもう限界だった。だから、その拍動をたっぷりと内側に響かせてしまった。大きく息を吸って、吐く。強ばっていた身体がほどけて、疲れ果てた心が溶け始める。
乾いた唇に笑みを浮かべて、満足した吐息を漏らしたら、もうそこにはなんにも残っていない。
「ああ。それ、いい音だなあ……。まあ、いっか……しあわせ、だし……いい……――」
ぱきん。こぽん……。
その魂はすれ違っただけで満たされた。風にこすれる実り豊かな黄金の稲穂を思い描いて、そのまま二度と自発的に動かなくなった。
ターゲットがしあわせに満たされたので、BloomPotはまたどこかへ去っていった。通りすがっただけ。それでも人をしあわせにして、魂を溶かしてしまう。
そこにどんな人生があったか。どんな苦労があって、どう支えれば助かったのか。その手がかりさえ塗りつぶして、次のしあわせを届けにいく。
福祉も医療も潰れていく。
ついこの間。CoLは拍と拍の重なりを統べた戦法は、こいつにしあわせの轟音を食らって負けた。




