それからね。あのね。なんにもない。
「ヤバかったなぁ、今の」「CoLもボロボロっていうけど結構やるじゃん」「あの子、かわいい~! 『不詳ちゃん』かな? 推せる!」
夕暮れが近づいて、人々は喧噪へ帰る。ニルヴェイズは騒々しさを取り戻し、今日も全ての快楽を共有できる、アツすぎる涅槃として溶け続けている。
まず、この件についてシワにまみれた坊主のおじいさん――もとい、オミミナイナイの店主が深く感謝をしてくれた。今日はサングラスにイカしたアロハシャツを着て、どぎついカラーのハーフパンツと質素な便所サンダルでキメている。
「いやァ、あんがとさん。こんなとこにあんなもんがくるとは思っとらんかったから、ビビったわ」
【ホーイチさん:オミミナイナイ店主のお爺さん。数多のクソデカビートに幾度となく鼓膜はブチ破れ骨伝導は砕け散ったが、神経治療が発達した今じゃ次の日にはピンピンしてる】
「ううん! わたしたちもびっくりしたけど、無事でよかった!」
「なんか修理したいもんがあったらウチ来な~、おつかれさん。ほんとにあんがとな!」
CSたちは落ちてしまった店内の商品をぶら下げ直したりしてから、しわくちゃになっちゃったビニール袋を手にホーイチさんに手を振った。
ディーはBROと話をしているが、CSとブラッドは、C'がしっかりした足取りで向かった先についていく。そう、今回疑わしい場所は、もう一カ所ある。
壁がブチ抜かれたサロン。いかにもなパステルカラーで彩られたそこの名前は、その名もずばり『しあわせリラックスサロン』。
BROが立ち入り調査のために封鎖している中から、穏やかな顔で出てくる老齢の男が一人。花の刺繍がついた真っ白でシャレオツなローブを着て、ゆったりとBROの車の中に入っていく。
現場近くには同じような服を着た兄妹のように寄り添う栗毛の若者と黒髪を栗毛に染めた少女。二人とも少し居心地悪そうに、周囲を見回している。
CSは、しあわせでない人を放っておけないから、つい近づいた。
「……あの、こんにちは。あなたたちは、ここの人ですか?」
気弱そうな若者はゆっくりと問いかけたCSへ振り向き胸元に手を当てた。少女はその後ろにさっと隠れた。
若者の瞳は柔らかい青。少女の方は拍動の影響を受けているのか、ほのかに瞳が拍動汚染的に青い。ちょっと光ってるってこと。
「ああ、すみません。僕らも何があったのか……」
「あなたたちはFlowerTestamentのひと?」
「末端ですが、そうです。でも、僕らもよく分かっていなくて。安心拍に身を委ねて『しあわせ』を感じていたら、こんな風に」
CSはまだ彼らの何たるかを知らないから、二人をじっと見つめている。C'は今しがたの出来事を加味して警戒し、すでにこのカルトが危険だと判断しているブラッドは渋い顔をした。
BROのおまわりさんもブラッドと似たような顔をして、二人を手招きしている。お話を聞くのは、まずはBROが先だ。三人は渋い顔した名も知らぬBROのおじさんに手を振ったり、お辞儀をしたりした。
「ああ。僕たちも事情聴取に行かなくては……行こう、レガ」
「うん、ハルお兄ちゃん。……ばいばい」
ハルと呼ばれた若者は、レガと呼んだ少女を連れて、BROのパトカーに乗った去り際、CSたちへと柔らかく微笑んだ。
「『しあわせの果てに、花が咲きますように』」
多分、それが華拝みたちの挨拶なのだろう。お辞儀をして二人は後部座席に向けて歩いていく。すれ違いざま、CSだけはもう一言、ハルから聞いた。
「そして、君もまた『楽園』となりますように」
「えっ?」
CSは振り返るが、もうハルたちは後部座席に乗って、サロンの前からいなくなるところだった。ニルヴェイズの騒乱にも負けないけたたましいサイレンが鳴り響き、巨大液体ケーブルの騒動も彼らの情報待ちという状態に落ち着きつつある。
三人は、今の兄妹のような二人が車のマフラーから出る煙と同じように、徐々に見えなくなるのをしばらく見つめていた。
幸薄そうに見えた二人の拍動は、なんだかすれ違いざま、とてもしあわせそうだったような気がして。
結局、CSは視線をサロンへ向けた。拍が向けられなければ、自分にできることがないと感じてしまうから。
「彼らは、末端だと言っていたが。被害者なんだろうか?」
「どうだかね。共鳴や拍動汚染で変に記憶や情報が繋がってたら、もう犯人と被害者の区別なんて付かないよ」
サイレンを鳴らし去りゆく様を見送り尽くして、C'の問いかけにブラッドは眉を寄せた。
「明日、きみがすごく嫌なやつになってるかもしれないし、ぼくがとんでもない悪党としてきみたちを虐げてるかも。そういうとこじゃないか」
「そうだな……そういうところだ、ニルヴェイズは。昨日のヒーローが、今日はがらんどうとして立ち尽くしていることもある」
そう、ニルヴェイズは自他の境界線がすっかり溶けている。人を自分に、自分を誰かにだってできる。
だから、このサロンの真犯人がどこにどう潜んでいるかなども、分からない。
今の中にいないかも。もしかしたらBROに潜んでいるかも。
ひょっとして、今一番近くにいる知らない人は、ともだちは、しりあいは――。
不穏な思考は、考え始めればいくらでも震えて拍を乱してしまう。
――俺たちはこれ以上、溶けないよう手を尽くすしかない。
(自我を律するのは、そのためでもある。君なら、そう言うかもしれない。でも、俺は照合しない。俺もそうすると決めている)
C'はため息をつく。Cの知識大辞典に聞かなくたって、そんなのは分かりきっていた。なのに触れたくなったのは、無性にからっぽの内側がひどく震えてしまったからだ。胸元にそっと触れる。エコーコアは今は一緒に震えてくれている。
「さて、一旦、件のマエストロと合流しようか。ぼくも話してみたかったんだよね」
「行こう、CS。……CS?」
そこで初めて、C'はCSが壊れたサロンの方にずっと視線を向けていると気がついて振り返った。ブラッドも、肩をすくめて、それからCSの方へ向いた。
サロンはすっかりぶっ壊れていた。扉が壊れて、壁が砕けて、内側からそこに漂っていた『しあわせ』を匂わせている。舞い散る花さえ幻覚で見えるほど、しあわせの響きに満ちていた。
CSはしあわせに共鳴もした。ほんのり青い光を灯らせながら、顔を強ばらせている。
C'も場に残されたしあわせの気配に反応はするが、気付いた目の前の異様さに共鳴を強く拒む。
ブラッドも目をこらして、ビートスコアのウィンドウを弄って解析を始める。
「ねえ、二人とも、見えてる? ここだけ、拍動が、すごく薄いの……何、だと思う? これ……」
「……っ、おかしい。残響はあるが、これは異様じゃないか?」
「え……待った! いやいや、これは……。何だ……? あの液体ケーブルの塊が起こしたなら、今までの通り道もこうなっているべきじゃないかい?」
しあわせを感じ取るCSの感覚も、よく響くC'の身体も、データを注視できるブラッドも。その異質さを、はっきりと認識した。
ニルヴェイズに拍動は満ちている。そこかしこの液体ケーブルから伝播して、巡り巡っている。
いつの頃からか、共鳴しすぎた時に変なエフェクトが見えるようにもなったらしいし、ビートスコアやマエストロ・ディーの観測のような空間支配も機能するようになったんだってさ。
でも、サロンの内側では何も機能しないかもと全員に予感させた。
「ニルヴェイズに、なにが、おきてるんだろ……」
CSは震える唇で、その事実を口にする。
「ここ、『しあわせ以外、なんにもない』よ……」
どこもかしこも雑多な拍動で満ちていなければおかしいのに、壊れたサロンの周りは液体ケーブルの中身もろとも、抉れたようになんにもなかった。
しあわせ以外、何も残っていなかった。




