おでかけ前の準備運動
「頭が、回らない……」
「よくなったら、もっと、おしゃべりしよ。わたしは、あなたの声も、きっとしあわせ……おっとっと、わぁっ、ふふふっ」
CSは、幸せそうに微笑みながら、自力で液体ケーブルの中から出てみせた。顔面から落っこちてしまいそうなのを伸びてきたケーブルに掴んで貰って、一緒に降りる。
その動作は子どもそのものだ。今も液体ケーブルに取ってもらってポンポンのついたお気に入りのベレーを被ったとこ。
これが現実。尊厳の欠片もない永続バッドステータスにまみれたまま、いま、Cという人間がいなくなった後から拾われた二つの断片は一人の青年に保護されている。
「でぃー。そろそろ、買い物いく時間だよね?」
CSは鞄を装備しながら、自分の保護者に声を掛けた。
資料を作業テーブルに、この様子を見ていた青年が一人いる。だいぶ黒くくすんだ茶髪と焦げ茶の瞳。ラフで色あせたシャツと、ボトムス。
ぼろいエンジニアコートには、彼しか使い方が分からないガジェットがぎっしり。
あとは胸元には銀細工の翡翠めいた指輪が、繊細なシルバーチェーンで下がっている。彼はペンを止めることなく回していたのを、CSの声で止める。
「ん、ああ。そんな時間か。いいぜ、すぐ出るか?」
「わたしがC'と準備運動、してからね」
「了解。準備できたら改めて呼んでくれ」
青年はCSに呼びかけられた時はペンを止めたが、こうして話が区切られると、再び回し始める。均等に、水平に、指の動きを何も追加せず、何も減らさず。ペンはその場で回転を保ち続けている。
【D(Di)/ディー: 拍動汚染被害:現在、表出なし 右耳後ろに旧型接続端末。この接続端末は封鎖されている】
CSとC'の保護者的立場の青年。自称、腕利きの技術者。こんなとろとろ自我おしまい時代の世界でも生きている、比較的まともな人間。
Cには相棒がいた。それがディーだ。今は彼は二人と共に小さな隠れ家で暮らしている。
彼の机の上には無数の設計図があり、部品があり、試作品がある。壁にはスケジュール表がびっちり。彼の頭は休みなく回転を続けている。
今日は三つぐらい依頼品を納品した。明日は四つ納品するし、明後日は出る予定の会議が五つある。全てを処理できるハイスペックなお脳で、間違いなくこの世に役立っている。
ディーはCSとC'を一歩離れたところで見守っている。CSは出かける支度を終え、C'も服の乱れがないかチェックして簡素な鞄だけ身につける。
CSは自分の背中側に手を組んで、C'の瞳を覗き込む。笑みはもちろん、崩さない。
「外に行く準備運動。昨日やったの、やる?」
「その方がいいだろう。今日の俺は、……少し不調だ。外に出たい。けど、意識が鮮明じゃない。力を、貸してくれないか」
「んふ、いいよ。あわせられるのだけ、ね?」
失われた整合性に一人称をつっかえさせるC'に、CSは微笑んでするりと壁際に並んだ。
こうして見れば、服装が違うだけで、もともと華奢でほとんど変わらない背格好だと二人は見比べて互いに顔を見る。
ディーからも似た者なのは分かる。拍動に強く共感できる者は、外から認識できる情報が減ってしまう。だから二人はどっちも、ほっそりしている性別不詳。それ以上にもならないし、それ以下にもならない。
「あなたとでぃーと暮らしはじめて、三日たったよ、ね? あれ? 二日だっけ?」
「三日と、数時間。何か変化は、あったか。CS」
「ふふ、あるかも。毎日、きもちいいの。うで、さわっていい?」
「構わない」
CSはすりすりとC'の手から腕までを撫でた。手袋に包まれた手、ワイシャツに覆われた腕。その内側のほのかな筋肉の違いに、CSは目を細める。
「おんなじCから作られたのに、ちょっとしっかりしてる。おにいちゃんみたい? おねえちゃんかも? わかんないね、でも、いまはだいじなことじゃないのはね、わかるの……ふふ、じゃあ、きもちよく、おはよーしようね?」
「ん……」
「声、だして……ね?」
CSはつま先でリズムを刻みながら、心臓の奥をイメージしながら拍動を伝え始めた。
心臓のあたりから、C'のいるあたりまでリズムが届く。背骨と胸を繋ぐような位置で、共鳴する熱と震えが起こる。
とん、とっ! とん、とっ!――意識の活性を促す活発なステップ。ほのかに緩急がついていて、心が弾み、気分は楽しくなっていく。楽しいは、きもちいい。
C'はCSを見習って壁により背を押しつけた。背中からも拍動を受け取って、テンポを取るために指で壁を叩いて自分の意識を調律する。
全てのリズムに乗らなくてもいいというのが、二人の最初の約束だった。




