ひとつの誓い、ひとつの夢
Cの瞳がかすかに細まったのをCSは見た。口元と目元がC'とは違う形で柔らかく微笑んだのを見た。
それだけで胸が締め付けられて、この場に本当に彼がいない痛みをひりひりと接続端子に広げていく。思わず、CSはCの手を強く握った。C'の熱と、Cの温もりが、今は両方とも感じられる。
「Cは俺を指している。ならば俺の肉体を持つ君に『Seed』、つまり新たに発生した種というタグが割り振られた可能性がある。あるいは『Sing』、歌かもしれない。C'は簡潔だ。『Prime』は根本、根源、最も重要な要素を指す」
「うん、うん……シープライムにはシーの記録が入ってるから、だよね。今こうして、再現もできるぐらい。じゃあ、わたしの名前は……確定は、してない? だよね。わたし、どこにもいないのかな……」
C'の方が明確なその意味合いに、CSは相槌を打ちながら握り締める手の力を強めた。Cの星明かりの瞳は揺らいで、沈む青さが深まっていく。
「BloomPotが君に意味まで登録していないなら、君はその単語を選ぶよう促されているかもしれない」
「わたしが、わたしのなまえを、選ぶ? それは、できるの?」
「可能だ。君が選んだ名前も、君の名足りうるはずだ。それでも満たされないなら、正式な名を知った時に改めて選べば良い」
Cはそこだけはきっぱりと言い切って、柔らかい声色を取り戻した。
「ないことを怖がらなくていい。君の心を《《ふるわす》》音を選べ。《《おもいが》》響く方を選ぶんだ」
心を震わし、奮わす音を。重いけれど、想いが響く方を。
Cの静かな激励が、CSに届く。手を伸ばして頬に触れてくれる、そこにC'とは違う拍動と温もりがある。
(わかる。わたし……いま、許してもらってる。なんにもわかんないのに、わからなくていいこと、許してもらってる……いいよ、って。たぶん、これが欲しかった)
CSは息を止めてしまっていた。唇を動かすのも忘れた。自分の拍はびりびりばりばり共鳴して震えているのに、それが上手く声にならなかった。
BloomPotがなぜそうしたのかは、CSにも分からない。そもそも、これはCの記録に基づいた出力でしかない。Sという文字から始まる言葉はあまりにも多くて、CS一人では到底、見定められそうにもない。
(どこに、いってもいいのかな? わたし、どこにでも、じぶんでいっていい? どこにもいないって、しょんぼりしなくていい?)
けれど、その広さがCSの心を掴んだ。離さなかった。自分で自分を選んでもいい。しあわせ以外も。それはCSにとって爆音の承認拍が直撃するより、大きな許しだった。
CSは間違いなく、いまこのときはじめて、祝福をいっぱいに受けていた。
「選んでも、いいんだ、わたし……じぶんのこと。しあわせと一緒で、選んでいいんだ、それ、いいんだ。いいんだ……!? すきは選んじゃ駄目かな。すきも、選んでいい? いいの? もっと、していい? わたし、求められたとき以外も、たまには、なにかしていいと思う? いやがることは、ちゃんと見るから……!」
沈黙は肯定。言葉にしてみればCSの目がきらきらしてきて、口元にしあわせいっぱいのはにかみが浮かんだ。
「ちゃんといる。じぶん、選んで、よかった。そうかも! ふふっ、しー! ありがと、ありがとう! わたし、多分いま、それが聞きたかった! とってもしあわせになっちゃった!」
Cは柔らかい微笑みのまま、力尽きていくように頭を垂らしそうになっている。その整った拍動に、かすかな、けれどCSにとって親しみのあるノイズが入る。その頭がうなだれたと同時に、C'の震える低い声が漏れた。
全身のノイズがびりびりと震えて、元のワイシャツとスラックスの姿が見える。
「もう、起きないと、まずい……響きすぎて、あつく、なってきた……おもったより、もたない……」
「うん。大丈夫――ありがと、C'。わたしの拍を送るから、感じて、もどってきて。ね?」
どれだけ優しいCの記録再生であっても、自我を蝕む陶酔は少しずつ進んでしまう。CSは名残惜しさとC'への心配に口を噤んで、自分の拍動で戻る場所を伝えながら、ぎゅっとC'の身体を抱きしめた。C'にも、Cにも、今のしあわせを伝えるために、迷わず温もりを送り続ける。
「あの! あっ、少しだけ……っ、言わなきゃ、あなたに……ここにいなくても、ねえ!」
ただ、そのまま消えていく残響を、CSは一度だけ呼び止めた。身体全体がぎゅっと強ばって、接続端子も脊髄端子も、燃えるように熱くなる。それはCの影響ではない。CS自身の心から湧き上がる熱だった。
唇をぐっと閉じて、勇気を出して口を開く。ここには誰もいない。器の内側に叫んでも、これは情報で本人が宿っているわけじゃない。分かっていても、抑えきれない拍動があった。
「シー! わたしたち、まずは自分で立つよ! でも、ここにいないあなたのことも、きっと、いつか必ず見つける。ぜったい。みんなでお昼寝しよ? しあわせで、きもちよくなろ? ね? だから、いまは、おやすみなさい……」
Cは声で応えなかったが、目を閉じて温かい拍動の残響だけを一つ残して、再び静かに蕩ける黄金の海の底へ沈んでいくように消えた。
「っ、は……!!」
C'の全身のノイズが失せる。C'の身体がびくりと跳ね、戻ってきた自我が、現実に浮き上がる感覚に息継ぎをする。その瞳は陶酔の潤みだけ残して、鮮明な空色に戻る。星空や湖面を思わせる雰囲気は、もうどこにもない。
シープライムは、帰ってきた。
「C'! おはよう、大丈夫?」
「……。大丈夫だ。ちっとも苦しくなかった。温かい。自分でない音が響くと、いつも苦しいのに。全然……なのに、いま、はなれて、くるしい」
C'の声が感じきれない感情で揺れて、柔らかく声色そのものが震える。器全体には温かい気配の名残が満ちているのに、胸が締め付けられて顔が歪んでいる。
彼はそのまま睫毛を震わせ、胸を押さえながら目元を隠すようにCSに頭を預けて寄り添った。
(いない。それのほんとの意味だって、わたし、まだ分かってない……でも、いないがどういうことかは、わかった)
CSも数分足らずの出来事だったのに、目に涙が浮かんで止まらなかった。C'の震える声が、CSの全身を共鳴させる。CSは自分の拍動を送って、C'の魂がいつものリズムを取り戻すよう、彼を抱き直した。
「俺は、いま、悲しいんだと思う……。こんなに正確に再現できるのに、いないのがわかってしまう。いま、自分が、すごくからっぽで……さみしい……彼に会いたい」
「うん。わかる。わかるよ……いないんだ、こんなにいるみたいに見えるのに。これが、誰かの音がなくなるってことなんだ……。これは、しあわせじゃない。ぜったい、ちがう」
「でもね」と、CSはこぼす。微笑みを取り戻すのは、いつもCSが先だ。
「シーが見えて、C'が戻ってきてくれて、わたし……すごく、うれしかった。ありがとう、C'。今、寂しいけど、それ以上にあったかい……すごく、しあわせ。かえすね、しあわせいっぱい……わたし、わたしのしあわせ、ひとつ見つけたから」
自我溶解から帰還したものは、未だ一人もいない。今日もどこかで、たった一つの音が『しあわせ』によって消えている。それを二人ともが、いつの間にかCの意思とは関係なく止めたいと思っていた。
かくしてCSのゆく道は定まる。
「わたし、『シーを取り戻したい』――そのために、もっと強くなる」
二人は寄り添って目を閉じて、未来のために眠る。今は、それでよかった。
◆
その日、CSは夢を見た。朝焼けに似た黄金が満ちている。右も左も穏やかできらきらした空気に満ち、CSとC'は見たことのないパールホワイトの樹皮を持つ巨木のふもとで休んでいた。
風がたまに吹いて、樹木から生えていると思しき柔らかい蔦を揺らす。肉厚の白い花びらが散ると、極彩色の光を帯びて消えていく。どこにあるかも分からない場所だ。
「しーぷらいむ……きもちいいねぇ」
隣にいるC'は、普段よりずっと柔らかく淡い雰囲気を湛えていた。その喉から出る拍動も、いつもの声ではなかった。
「『まもるよ』」
それこそCSが囁けば出せそうな、甘くて優しい音。言葉は知らなくても拍動で意味は分かる。不思議な響きを持つそれを聞いて、CSは寄り添った。
「わたしも、C'をまもりたいよ。まもらせてね」
「『すき』……」
「すき? だったら……すごくうれしい……!」
夢は夢だ。それでも二人がそうしてきたように、二人は寄り添って目を閉じていた。どこかも分からない夢の景色に、誰のものでもないしあわせに満ちた風がそよいでいた。
《しあわせ拍動譜面記録004:Cの残響/ジャンル:ミニマル/BPM:70》
【豆知識『残鳴機構』/拍動のデータを入力することによって、そこにあった過去の情報(残響/ざんきょう・エコー)を宿す。C'の場合はCの自我溶解寸前までの記録が宿るが、自分のものとしては扱えず、全て認識できるわけでもない。彼はこれを大切に保存している。
今日、きっと。いつかその人を取り戻し、返却することがC'の目的になった】




