あるいはチューナーなしの指揮者の敗北
ディーにとって、その転換は地続きだった。はっと身を起こせばまだ痛みはあったが、自分が温かなベッドにいると理解できれば勝手に身体はそこから飛び出した。
何せこの世界は肉体と神経の修繕が早い。動けないなんてことはない。
「……っ、俺に拍動汚染は、ないな? Cは!?」
慌てて周りを観測し、病院の中の気配を追った。看護師が止めるのも気にせず、Cの拍動を観測できる場所まで一直線に走った。
身体が痛いのも気にせず、扉を押し開けて相棒の名を呼んだ。正確な観測ができなかった。
約束通り病室にいてくれることが嬉しくて、自分の拍に意識が向きすぎていた。
「C! 無事でよかっ――」
そこに、Cはいた。椅子に座って、心なしか柔らかな見た目になったそれを、ディーは視界の真ん中に収めた。
それがゆっくり小首を傾げる仕草に、動転していたディーは安堵で口を開き掛けた。
「すき、しあわせ、きもちいい……」
「C?」
「……すき、しあわせ、きもちいい…………」
ディーの声が詰まった。足がこわばり、下がりそうになる。Cだったものはほのかに瞳を青く沈ませて、うっとり微笑んでいる。着用していた燕尾服もなんだかズレている。
その微笑みは、心の底からのものではない。ビートダウンどもにめちゃくちゃにされた被害者の、魂の動きが止まった証だ。
「な、何、言ってるんだよ。C。俺だ。ディーだ。俺のこと、分からないのか?」
「わたしは、CS。あなたは……『しあわせ』?」
「違う。音が……違うのか! そうだ、声帯が弄られた? 違う、何だ、解析……拍動そのものも、全部、全部……っ」
消え入りそうな声でディーは呟きながら目の前の誰かを調べた。光り輝くたくさんの情報が、彼の中に映り込む。
ディーの観測は間違いなく、Cの肉体だったものから聞こえる声を拾っていた。
だが、その声の拍動が何一つ合っていないと理解してしまった。自分を励ますあの響きが、聞こえてこない。
(重度拍動汚染? いや、どう見ても、『自我溶解』だろ、これ……。なんで動けて……ダメだ、切り離さないと、俺、おれは)
ディーは自分の感情と肉体反応、観測する思考をまた切り離した。そんな離れ業さえ当たり前にできる彼が、今はCだったものの拍動を浴びて身体も魂も震えている。
「あ……?」
そうしているうち、ディーはCだった何かの側でたたずむ姿を見た。壁際に背中を押しつけて何かを待つのは、Cのよく見る癖だった。でも、雰囲気がちっとも合っていない。暗く、覇気がない。
「お……お前は? C? どうして、肉体が二つ……」
「俺は。識別、C'。Cの記録を、再生する。でも、俺じゃない。ちがう、俺は。わからない。信号……命令待機……」
「情報だけ別の器を作って突っ込んだってことか? いや、でも、なんでだ? ならCって言うはずだよな? 自我と情報がズレてんのか? そういう設計だったら悪趣味が、過ぎるだろ、なあ。なんのために、なんのために、こんなこと、しやがっ……」
放っておくだけで、微睡むように沈んでいってしまう声と瞳があった。空色に戻っても、すぐに夜が来て、眠ってしまうような瞳の青。この身体から発されるのもCの音ではなかった。
快楽と従属に浸るだけになってしまったCS。
ぐちゃぐちゃな状態で、命令通りに動くだけにされてしまったC'。
あとは最後の拍動が聞こえない、快楽に溶かされる悲痛な記録だけが残された。
最後の拍動がないというのは、死んだ証明ができないに繋がる。
(いなくなった。死んだよりひどい。墓碑銘書いたって読めない、墓石作ったって視認できずに勝手に避けちまう。いなくなった、Cが、俺じゃなくて? あいつ、が……!!)
この世界からいなくなる。それは、死よりもずっと恐ろしい認識の災害を招く。
ここに、相棒はいない。少し小柄だけど、誰よりかっこいい最高の相棒Cはもういない。それだけがディーの身体を突き抜けて、胸を締め付け、顔を歪ませた。
響けない男を癒やすチューナーの音は、もうどこにもない。
全ての音を拾って響かせ合えていた指揮者は、たった一つ、一番失いたくなかった大切な音を取り落としたと確信した。
「……――――ッ!」
こめかみを掴んで、右耳後ろの旧式接続端子ごと後ろに引きちぎりたい衝動に駆られながら、彼は奥歯を噛み締めて悲鳴ごと『それ』を止めた。涙は出そうで出なかった。
ここに生きている二人を揺らしたくない。少なくとも、今は。そうやって、誰かの響きを感じる手段を止めてしまった。
彼の目の奥に宿っていた美しい緑のシステム光が消える。彼の瞳はくたびれた焦茶色を取り戻した。
《観束の指輪》――停止。ミッション、お疲れ様でした。ディー。
頭の中に響く無機質なアナウンスは一個だけ。
BloomPotは、何事もなかったかのように郊外に帰っていったという。あざ笑いもしない。ただ、去った。災害そのものだった。
退院、そして、三日前。ディーは指揮者をやめた。舞台から降りて、Cを継ぐ二人と一緒に裏方へ消えていった。マエストロ渾身のフルオーケストラはたった一つの強大な拍動に敗北した。
隠れ家に帰ってきた一日目だけ、ディーは自分の部屋に閉じこもった。泣いたのか、うずくまったのか、もうディー自身も記憶の隅に押しやって、感情も全部、整頓して遮った。
その時、意識もおぼろげなC'が閉じた扉の向こうにいたことを、彼は知らない。
ディーは誰とも繋がらない。誰とも、共鳴しない。実は、生まれつきできない。三日前から、もっとできなくなった。ただ、落としたくない音だけ聞くように自分を整えて、整頓した。それは、昔から引くほどできた。
【ニルヴェイズTIPS:『自我溶解』――死とは明確に異なる基準で扱われる。その気になれば何度でも魂を塗りつぶせるようになった世界で、完膚なきまでに溶かされるそれは時に物理的死より重い扱いとなる。意志の回復が見込めないことが目安】




