指揮者とメジャーコード
しあわせ。それが義務の時代はどこかで終わり、肉体を傷つけずともよくなった今、『しあわせ』とは人を根本から破壊する最大の暴力でもあった。
この世で最もしあわせなビートダウン《BloomPot》制圧ミッション。
それは急に都心の方へ近寄ってきたこいつから街を守る、ニルヴェイズの総力を挙げた戦いだった。
Cとディーが協力していた組織も、外部の民間会社も、もっともっと偉い人たちがいるところも、大慌てでそれを叩きに掛かった。
(なんであいつは都心に寄ってきた? いつもの『気まぐれ』か……?)
ミッションを統べるのは黒衣の精悍な若者。オールバックの焦げ茶の髪の下、静かで気迫を湛えた双眸が緑のシステム光に輝き続ける。
左手の薬指に付けた翡翠と銀の指輪は機械仕掛け。
その手元にコンソールと五線譜めいた拍動の調整ラインを浮かび上がらせている。
「《チームA、座標シフト完了。BloomPot反応距離圏内。以後沈静コード運用》《F、拍弱体者のピックアップ完了。地点転送済》《B、後衛誘導。BloomPotの自律兵器を連れて後退》」
ディーはその時、全ての人間とビートダウンを把握できていた。
平行で、多重に、広範囲に。存在する味方全てに指示を送り、被害を最小限に抑え続けていた。
「逆拍! ノイキャン飛ばすぞ!」
同時に手をかざし、そこらの液体ケーブルから響き渡るビートを殺すノイズキャンセリングを引っ張り出して仲間を守る。
『見る力』だけは人一倍だったし、こうした『防御』の手段もあった。
廃研究所という暗いところで、輝くコンソールを叩き続けて全ての参加者の命を守っていた。彼は前衛を守る天才サポーターだった。
その隣に青と白の燕尾服に身を包むCもいた。薄暗い空間でも、その姿は鮮烈に映り込んで人の魂と拍を現実に引き戻す。そのための戦闘服だ。
――《拍動維持、音を聞け》《安心拍、高揚で対処》《退路に集中。その間に調律する》。
Cはディーの護衛をしながら拍動の補正を重ねる。ディーが指揮者なら、Cはチューナーだった。
あらゆる魂と繋がって、折れそうな者を支え、拍を見失ったものを導く。ディーがサポーターならCは最強のヒーラーだ。
二人はいつだって一緒にいた。
――……芳しくないな。
《コード21:拍動汚染で行動不能》《チームA:戦線崩壊。以降コード名で処理》《コード19:拍動汚染悪化、自我溶解ラインまで3分。コード10、11は迎撃及び救助急がれたし。座標を送信する》。
《和解拍、調律》《官能拍による肉体負荷鎮静》《拍を流す。持ちこたえてくれ。助けは来る》。
せわしなくウィンドウは指示を回し、即座にチューンナップが飛ぶ。一秒たりともディーもCも余裕がない。ディーの観る監視カメラの向こうで、蝶や蜂の形をした小型のビートダウンが飛び回る。
「ああ、はっきり悪い。鉢植え野郎め、ガラクタひっつかんで雑に増援作ってやがる。それに誰かがしあわせに巻き込まれた時の連鎖がキツい。大縄飛びじゃねえんだぞ」
――ドクターは?
「リフせんせなら危ないとこ抜けた。だが、自我溶解ギリギリの重度拍動汚染。……もう、俺たちだけだ」
その会話でさえ指示と平行してCにだけ送信していた。その時のディーの瞳は疲れた茶色の奥に、侵食の青も阻むような美しい緑色の輪を灯して全てを見通していた。響き合えなくても全て観測できていた。
『ありがとう、マエストロ!』『今日もおかげさまで無事に生き残れたよ』『いい指揮だった!』
人はBloomPotの幸福に惑わず立ち向かえる彼を、かつて旋律が世界を統べていた頃のことを思い出して指揮者と呼んでいた。
そんな彼らも、今日、容赦なくしあわせを前に魂が溶けている。
「無理だぁっ! 頭が、頭がしあわせになるぅっ!」「やめろ! しあわせになるならリンク切ってくれぇぇっ!」
BloomPotは強大なビートダウンだった。そこにいるだけで、しあわせが満ちる。
空気に残るしあわせの反響さえ、判断を誤らせる。人は一瞬の迷いで引きずり倒され、魂の底まで『しあわせ』で満たされる。
承認。安心。和解。官能。それら全ては伝播する。
一人がしあわせになると、連鎖的にひとは輪になってしあわせになる。
通信から、接触から、生存の安心から、しあわせが満ちて判断が狂う。
「駄目だあっ! 場の制圧ができない!」「撤退! てっ、て、った、あぇ……っ」
空気も敵、頭数も敵、時間も敵。空間制御も含めて綿密に組んだ戦いでも、一拍の狂いで崩れる。一つの音が崩れると、一気にそこからしあわせがなだれ込む。
ひとはしあわせになるために生まれてきた!!
ブルームポットはその避けられぬ悦びを証明するかのように、手当たり次第にばらまいていく。
(分かっちゃいたさ! 試算でも無理だった! 実戦でも無理だが止めなきゃ街ごと溶ける……! だが、この快楽負荷は人体に耐えられるもんじゃねえ!)
それをディーは退却と拍動汚染の数の増加で認識していた。もうとっくに肉体反応と感情と判断は頭の中で切り離し、演算に不要なものは全部『感じない』で切り捨てるような状態だった。精々、ダメージの目安である熱いと感じる情報だけ。
次。次。その次。莫大なデータを脳に流し、必要な相手へ返すの繰り返し。
「っ、ぐ……ぅ……」
無意識にうなりが出た。そこかしこの隊員から和解と安心と承認と官能のフィードバックで限界を迎えていた身体は、コンソール操作と演算、そして仲間の支援に自分の管理をギリギリまで切り詰めていた。
(く、そが……ッ)
彼は全ての音を結集させて抗った。しあわせという名の極大の轟音に向けて、減り続ける音を一つでも多く守りながら、魂まで焦げ付く指揮をした。
脳が焼ける。大切な思い出が白飛びするほど、強烈な負荷が彼を押し潰し続けていた。
(《コード2:救助完了》ダメだ、全体の戦線崩壊まで1分切った。あと助けなきゃいけないのは……あっちと《コード4:そのままコード5と退却》こっちと《コード8:コード12拍停止状態了解、そのまま拍回復措置と共に退却》そこと《コード7:そのまま退却。自己の拍動保存優先》……)
ディーはもう判断していた。これは『負け戦』だと。いかに、しあわせにされないか。次にどれだけ繋げるかの勝負でしかないと。
だから次々に撤退の連絡を送って、Cにも拍動の調律をしてもらって、多くの仲間を助け続ける。
(っ、こんくらいなら、まだ――)
ディーの知覚の中で光り輝く窓がいくつも跳ねて、そこからも情報と快楽の負荷が注ぎ込まれる。
人々は、魂の底から敗北した時、みんな拍を揃えて伝えてくる。
しあわせ。しあわせ。わかった、わかったから――もう、しあわせでいいからぁ! たすけてぇッ!! しあわせですッ!!
「ッ、が……!!」
そして、戦線崩壊とほぼ同時にディーの限界は来た。ばちん!と音を立てて頭の奥が爆ぜ、彼の身体は演算する精神を置き去りにして、快楽の過負荷に屈して跳ねた。
(まずい、身体が先にハネた! フィードバックがデカすぎる! 通信越しだぞ、とんでもねえ……ッ!)
コンソールは機能していたが、それを叩く指が引きつる。立てないからと投げ出していた足が跳ね上がって、脳天まで電気信号だけのしあわせがねじ込まれた。
肉体だけが快楽負荷のスパークに悲鳴を上げて、意識だけ切り離して考えていたディーはそれを見ていただけだ。
――……。
他の参加者たちの救助を終えたCが、逃げ遅れた人々の気配を感じて顔を険しくしてから、ディーの顔を覗き込む。
ディーはその戦場に似つかわしくない優しい顔を、今でも忘れていない。真っ白な手袋に包まれた細く柔らかい指の温もりは、感じられなくても温かかった。
――ディー、潮時だ。ここでしあわせになるべきではない。そうだろう?
「待ってくれよ、C。逃げ遅れた奴を助けに行くんだろ! 俺、まだ処理できる……! 一回、ハネただけだ……っ!」
――いいや。君は限界だ。怪我もたくさんしているだろう。片腕がもう、ずっと拍動に乗せられたままだ。君の拍は聞き取りにくいだけだ。俺にはきちんと聞こえている。
「待ってくれ、頼むよ。俺は、まだ。なあ!」
――また病室で傷跡を指さして笑い合おう。大丈夫。約束だ。
旧型の接続端子から煙を出しながら、ディーは他の隊員に担ぎ出された。Cの背中だけがあった。暗い中でも鮮明な青と白のコントラストがあって、それはBloomPotのいる方を向いて銃を構えてしんがりを務めていた。
Cもちゃんと人を助けながら、撤退自体はしていた。でもその距離は、どうしたって、少しずつ、少しずつ開いていく。
失血もあった。疲労もあった。
それっきり、ディーは意識がなくなって、観測ができなくなって――。
目を覚ましたら、もう病院だった。




