夕暮れと屈折光
夕暮れ時の侯爵邸の私室。背後の気配に、プラムは筆を止めた。
そこには、先ほどまで「何もなかった」はずの空間に、一人の男が染み出すように立っていた。
「……国を支えるための権能で乙女の部屋に侵入するなんて、どうかと思いますわよ?殿下」
第二王子、ヘリオス・エストレイア__彼はいつの間にか窓辺に腰掛けて、夕陽を弄ぶようにして指を動かしていた。その周囲の空気が、水面のようにわずかに揺らぎ、やがて穏やかな夕暮れへと戻った。
王家に稀に生まれるという、魔力を用いて魔法を使える人間。王位継承権を手放し、影となり国を支える彼らがもつその権能は、その能力はその魂の在り方を反映するかのように、1人につきひとつと決まっている__そこまでは座学で学んでいたものの、目の当たりにしてみると、ヘリオスのそれは王族のものとしてはかなり地味に思える。
「光の屈折。……対象の存在感を周囲の景色に溶け込ませ、人々の『認識』を逸らす。陰気な魔法ですこと」
「はは、手厳しい。私には先代のように火を吹くような派手な力はないが、これはこれで気に入っているんだよ。……例えば、君の放った『駒』の動きを、特等席で眺めるのには最適だ」
ヘリオスは、アッシュに握らせたものと同じ意匠の通行許可証をわざとらしく掲げてみせた。
「以前から、トリスタン・イグレインには違和感があった。武勲はあるが、政敵の失脚を狙う際の『鼻が利きすぎる』。調査のなかで、例のサロンに行き着いた。まさか、自らスカートを穿いて酒を注いで回っているとは思わなかったけれどね」
「……呆れた。アッシュを向かわせずとも、いらっしゃったのですね」
プラムの刺すような言葉に、ヘリオスは窓から降り、彼女の至近距離まで歩み寄った。真っ青な瞳が、一切の欺瞞を許さないプラムのルビー色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「プラム。君はなぜ、そこまでやる? 此度の件……友が陥れられたとはいえ、君は無関係だ。昨日の友が明日敵になるこの世界で、なぜ地位を危うくしてまで、友一人を救おうとする。……それは貴族としての責務か。それとも、単なる執着か」
プラムは一歩も引かず、王子の視線を射抜いた。その表情は柔らかいが、どこか決定的な情動が欠落している。
「私は生来、人の表向きの言葉や取り繕った表情の裏にある、真の感情というものを読み取るのが苦手なのです、貴族としては致命的なほど」
プラムは淡々と、かつての自分を語り始めた。真っ直ぐすぎる言葉で周囲を傷つけ、孤立し、「嫌な娘」だと蔑まれた幼き日のこと。
「社交界の嘘に耐えかねて、同格の子女とのお茶会を抜け出した庭園で、あの方に出会いました」
「あの方?」
ヘリオスの怪訝な顔に気づくことなく、プラムは続ける。
「その方に駄々を捏ねたのです。なぜこんな世界で皆平気なのか、なぜみな思ったことを言ってくれないのかと。そして言われたのです__その真っ直ぐさは稀有な美徳だが、正しさは使い方を誤れば、弱きを叩く凶器になる。その性質を、自らの私欲ではなく、高貴なる者の義務として捧げなさい、と。それが私の指標となりました」
ヘリオスは沈黙した。窓辺に落ちる夕陽が、彼の周囲で不自然に歪み、一瞬だけプラムの視界から彼の輪郭を曖昧にする。
「……その方の言葉を糧に生きて、今の私があるのです。だから、ニコラを救うのは、私にとってただの情に留まらない。私の定義する『正義』の執行なのですわ。__もう、顔も思い出せないけれど」
「ほう。……君にとって指標となったその者は、随分と、影が薄いのだね」
わずかに低められたその声の響きに、プラムは一瞬、心臓を直接撫でられたような錯覚に陥った。どこかで聞いた、喉の奥に引っかかるような残響。だが、ヘリオスはそれ以上何も言わず、ただ屈折した光の影に口角を隠した。
「とにかく……殿下、助けていただいたお礼は、あの方の破滅で代えさせていただきます」
「正直、こちらとしても助かったよ。王族の血を引く宰相が夜遊びで得た証拠など、表沙汰にはできないからね。とはいえ、私が手助けできるのはここまでだ。あとは君が、君自身の力で証拠を勝ち取りたまえ__無論、宰相としてはこれからも、いつでも相談に乗るよ」
ヘリオスはフッと唇の両端を吊り上げると、窓辺から影の中へと身体を沈めた。夕陽が彼の輪郭を捉えようとした瞬間、周囲の空気が水面のように揺らぎ、彼の姿を急速に夜の闇へと溶け込ませていく。
一瞬の静寂。入れ替わるように乱暴な足音が近づき、扉が開かれた。
「プラムお嬢様、アッシュ様がお戻りです」
「おい、お嬢様。……今、誰かいたか? 何か変な空気の揺れが……」
ハキムの衣装を脱ぎ捨てたアッシュが、怪訝そうに窓辺を睨みながらも、勝ち誇ったように「ラユラの直筆」をテーブルに叩きつけた。
「気にしなくていいわ、アッシュ。……ここからは、私の仕事よ」
(……そうですわよね、殿下)
誰もいなくなった残像の方向へ、プラムは微かに、だが完璧な貴族令嬢の笑みを返した。




