真の職人と偽りの騎士
「__っし、行くか」
第二王子との邂逅から数日経った週末の夜、アッシュは、裏通りのサロン『ラ・キュン』の重厚な扉の前に立っていた。ハキムの用意した成金風の衣装は肌に馴染まず、趣味の悪い指輪の地金がポケットの縁に引っかかる。
ヘリオスが寄越した店の「通行証」を、アッシュはポケットのなかで強く握りしめる。工房に漂う革とオイルの匂いも、今は酷く遠いものに感じられた。
数日前、『沈黙の塔』で、あの紅い瞳をした侯爵令嬢__プラム・アプリシアに「駒になれ」と言われた時のことを、アッシュは回想する。
(ふざけるな__と、心底思ったさ)
勝手な政争で、ニコラやフローラのささやかな日常を壊しておいて、今度は協力しろなどと曰う貴族ども。その一端である、苦労の「く」の字も知らなそうな、汚れなきお嬢様。そんな女の指図を受けなければ、愛する女一人助け出せない無力な自分。あの瞬間アッシュは、プラム・アプリシアも、自分自身も、まとめて殺してやりたいと本気で呪った。
しかし、彼女は迷いなく「担保」を差し出した。自らの破滅を綴った呪詛の書面__そこに込められた、一歩間違えれば断頭台へ直行するほどの覚悟を受け取ったのもまた、アッシュにとって紛れもない事実だった。
プラムは言い切った。「フローラやニコラのような者が損をするような国なら、そんな国もそれを守る貴族も滅びたほうがいい」と。
綺麗事を心から信じる高潔な心と、民を守るための盾となる貴族の責務。それを完璧に内面化した、まさしく「貴族令嬢らしい」人間。それがアッシュから見たプラム・アプリシアだ。
育ちも立場も、中心に据える価値観も違う。しかし、一度決めた「芯」を通すためなら命すら投げ打つその姿は、ある種の狂気だ。そしてアッシュ自身、職人という在り方を内面化した職人らしい人間であると自覚をしており、その「芯」にある人やもの__つまり、サマセットの街やニコラ、義兄のためならばなんでもやってやるという自負がある。その点でアッシュはプラムを、よく似た手触りの人間であると感じていた。
店内に足を踏み入れた瞬間、香水と酒の、吐き気がするほど甘ったるい匂いが鼻を突いた。
シャンデリアの光が、仮面をつけた客たちの影を長く引き伸ばしている。
「あら、見慣れないお顔ね。迷い子かしら?」
声をかけてきたのは、上品なドレスを纏った女__否、女の「形」をした男だった。
ハキムから聞いていたサロンの主、ジュリア・ラ・キュンだろう。アッシュはわざとらしく鼻を鳴らし、ハキムから教わった「成金」らしく、カウンターに金貨を放り出した。
「地方で少しばかり布を扱っててね。王都の『女王』に挨拶しなきゃ、商売も始められねえと思ってな」
「……ふふ、面白い手をしてるじゃない。苦労人の『成金』さん、歓迎するわ。ラユラ、お酌してあげて」
ジュリアの視線が、アッシュのタコだらけの指先を一瞬だけ射抜いた。だが、彼女はそれ以上追及せず、顎で奥のソファを指した。
ラユラと呼ばれた女__否、ジュリアと同じような女物の、山吹色のドレスを纏ってかつらを被った男。扇子で顔を半分隠して、周囲の男たちを軽妙にあしらいながら、時折、優越感に浸ったような冷めた瞳を周囲に向けるその人こそ、ニコラを売った騎士トリスタンだと、アッシュの直感が告げた。
アッシュは「芯から」靴職人だ。人の体格、歩き方、靴の減り方で、その人間がどんな人物で、どんな人生を歩んできたかが嫌でもわかる。
ドレスの裾に隠れてはいるが、その身のこなしは、プラムから聞かされた「次期騎士団長候補」そのものの、訓練され尽くした体幹をしていた。だが、その足首は妙に硬い。
(……ヒールを履き慣れてるって話だったが、なるほどな。女になりたいんじゃねえ。高い視点から、他人を見下ろしてえだけか)
アッシュはラユラに導かれるまま、彼女の隣に腰を下ろした。
「……ラユラと云うのか。変わった名前だな。どう綴るんだ?」
アッシュが何気なく紙とペンを取り出すと、彼女__トリスタンは、なんの疑いもなくその綴りをさらさらと書き記した。
「ジュリアさまが、自らのお名前からとってつけてくださったの。綴りは、こんな風に」
「きれいな名前だ。名前も__君自身も。覚えておくよ」
アッシュは愛想良く笑いながら、その紙を懐にしまう。
「まあ、お上手ですこと。商売人の方は、口が回りますのね」
扇子の奥で、トリスタンの緑色の瞳が値踏みするように動くのを確認すると、アッシュの心の中で、仕返しをしてやりたいという悪戯心がどろりと沸き立つ。
脳裏に浮かぶのは、ヘリオスから聞かされた、断罪劇の翌日のプラムの話だ。彼女は婚約破棄の手続きで王城を訪れた場で、聖女アメリアの首の呪いに嫌味を言って、真っ向から応酬し__ヘリオスはその姿を見て、プラムを気に入ったのだと言う。
アッシュは、こういう性質も含め、自分とプラムはやはり、似た性質の人間らしいと自嘲気味に笑った。
(……どのみち、目的は果たした。ちょっとくらいからかってやってもバチは当たらないだろう、騎士様。あんたの化けの皮の手触り、確かめさせてもらうぜ)
アッシュは椅子の背もたれに深く体重を預け、仕掛けた。酒の席でよくある、退屈な会話。そこへ、さりげなく毒を混ぜ込んでいく。
「俺は最近王都に来たばかりでさ。商売のツテを広げたくてやって来たんだ」
「まぁ、大胆なのね」
「そうさ、俺は大胆なんだよ。夢はでっかく、王室御用達の大商人……そのために、まずは『聖女』アメリア様に拝謁しようと思ってる」
ラユラ__トリスタンの肩が、一瞬だけ跳ねた。
「まあ、アメリア様に……?」
「ああ。知り合いに王都の騎士の旦那がいてね。最近聖女様と王太子つきの騎士になった、イグレイン家の令息と懇意らしいんだ。明日にでも紹介してやるってんで、慌てて王都に飛んできたんだよ」
途端に、ラユラの顔が引き攣った。至近距離でトリスタンとしての顔を見られれば、自分の「表の顔」が目の前の男と繋がりかねない。
「そ、その騎士って、どんなお名前の方? あの……トリスタン様とお会いになるの?」
「おや、食いつくねえ。わかるぜ、トリスタン様を狙ってんだろ? 若くして次期騎士団長と目される実力、しかも婚約破棄したてときたら、唾つけときてえよな。大丈夫、俺がこの目でちゃーんと見て、どんな男だったか、また報告に来てやるから」
焦ったラユラは、アッシュの情報を引き出そうと執拗に問い詰め始める。「どこで会うの?」「他には誰が?」__その必死な詮索は、サロンのゆったりした空気を台無しにするほど無作法だった。
「……ラユラ、無作法よ。お客様を尋問してどうするの?」
ジュリアの冷ややかな声が響く。トリスタンはハッとして口を噤むが、その瞳には隠しきれない焦燥が張り付いていた。
アッシュはわざとらしく肩をすくめ、ポケットに指輪と異なる紙の手触りを確かに確認すると席を立つ。
「怖いねえ、お姉さん。また来るよ」
背中で、ジュリアの訝しげな視線がトリスタンに注がれるのを感じながら、アッシュは冷めた笑みを浮かべた。
(……一丁上がりだ。プラム。あんたの言う通り、安い革だったぜ、こいつは)




