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王宮と混乱



 イグレイン伯爵家の夜会から数日。王都の喧騒とは裏腹に、サマセット侯爵邸の離れは不気味なほどの静寂に包まれていた。

 ニコラ・サマセットは、即刻処刑こそ免れたものの、公式な「再調査」が終わるまで自宅軟禁の身となった。

 窓の外、厳重な警護の目を盗んで、一人の男が影のように忍び寄る。



「……ニコラ」

 アッシュが低い声で呼ぶと、鉄格子越しに現れたのは、悲劇の令嬢とは程遠い、ケロリとした顔のニコラだった。

「遅かったじゃない、アッシュ」

「……お前、殺されかけた自覚あんのかよ。衰弱してねえのか?」

 呆れるアッシュの問いに、ニコラは窓の鉄格子を、まるでおもちゃの細い枝を弄るかのように無造作に掴んだ。

「衰弱? まさか。むしろ食事が物足りなくて困ってるくらいよ。昔から、超健康が取り柄なんだから」

「お前……俺がどれだけ心配したと」

「ありがとう……でも、誰か助けてくれるって信じてたもの。私、人を見る目には自信あるし」



 安堵と呆れが半々になり、へなへなと膝をついたアッシュに、ニコラは鉄格子の隙間に顔を突っ込んでにっと笑った。

「プラムと組んだんでしょ」

「ああ。……だけどよ、俺があの女と合流出来たの、本当に偶然だからな?!たまたま俺が会えてなきゃ、こんなにうまく行ってないからな……?」

「ええ!私って何て運と人望に恵まれてるのかしら!……ね、プラムに伝えて。私はピンピンしてるわ。進めておいてって」

 アッシュは、彼女が掴んだ鉄格子がわずかに指の形に凹んでいることに気づかなかった。囚われの恋人が、その字面から想像するより遥かに元気だったことに安堵のため息を吐きながら、また夜の闇へと姿を消していった。



 一方、王宮の聖域。アメリアは、手近な装飾品を次々と床に叩きつけていた。

「トリスタン! あの無能! 私に恥をかかせて、ごめんなさいのひと言もないわけ!?」

 自らの名を冠する慈善基金の夜会で、赤恥をかかされたという屈辱。アメリアは即座に審問官たちを招集し、プラム・アプリシアの拘束を叫んだ。

「プラム様が悪いのです!トリスタンは愚かにも、私の『正しい行為』への不満を漏らしたし、プラム様は、聖女である私を冒涜したのです! これは重大な反逆であり、即刻断罪されるべきですわ!」



 しかし、並み居る貴族や審問官たちの反応は、これまでになく冷ややかだった。

「……アメリア様。トリスタン卿が自ら『盗み』を認め、あまつさえ醜態を晒した以上、プラム嬢を罪に問う論理的根拠がございません」

「この状況で非のないプラム様をを罰しては、私刑と捉えられかねません」

「むしろ、聖女様ご自身がトリスタン卿を信頼して、基金の立ち上げに許可を出されたのですから__寧ろ今は、形だけでも自らの名を冠する基金で不正が行われたことへは、アメリア様ご自身で代表して謝罪なさるのが得策かと」



「なっ……!私に謝れと仰るの?!酷いわ、私は『正しい』ことを言っているだけの、トリスタンとプラム様に陥れられた被害者なのに!__証拠もあるわ!鏡が、彼女を悪だと告げているのよ!」

 アメリアは『真実の鏡』を掲げる。鏡には、プラムが冷徹な笑みを浮かべて自分を見下ろす姿が映っている。アメリアにとっての真実はそれだ。

 だが、衆人環視で晒された「トリスタンの自白」という客観的事実の前では、彼女の叫びはただの「負け惜しみ」や「ヒステリー」にしか聞こえなかった。

 完璧だったはずの聖女の言葉に、初めて「疑念」という名のおりが混じり始める。



 その日の午後。アプリシア侯爵邸。

 プラムは、アッシュから受け取ったニコラの伝言__「ピンピンしている」という言葉の真意を測りかねていた。

(……あの子、あんな過酷な牢獄にいたはずなのに。……相変わらず、身体だけは丈夫なのですから)



 そこへ、一通の先触れもなく、一人の令嬢が訪れた。藤色のドレスを隙なく着こなし、表情一つ変えないその姿は、まるで静謐な磁器のようだ。手には、膨大な数字が書き込まれた帳簿の束が重そうに抱えられている。

「ごきげんよう。……お取り込み中かしら、プラム・アプリシア」

 ハイディ・ブラッサム公爵令嬢。

 王国の財務を一手に担う学者一家の長女であり、数字以外の不確かなものを一切信じない彼女は、挨拶もそこそこに、プラムの前のテーブルへ一束の書類を叩きつけた。



「可愛い幼馴染に久しぶりに会うというのに、随分なご挨拶じゃない、ハイディ」

「貴女が元婚約者をゴミ箱へ葬った手際は評価するわ。……けれど、その後の算術が全くなっていない」

 開口一番の酷評に、プラムは思わず苦笑を浮かべる。

「随分言うじゃない」

「貴女は『あるべきもの』を『あるべき形』に収めようとして、確かにそれを一部成功させたかもしれないわ。けれど、それは相手が理屈の通じる人間である場合の話よ」

 ハイディは眼鏡の縁を指先で押し上げ、氷のような瞳でプラムを射抜いた。



「アメリアのような手合いの女にとって、社会の整合性や正しさ、ましてや貴族としての矜持など、ゴミ屑ほども価値がないのよ。彼女の中にあるのは、肥大化した虚栄心と__『常に自分こそが世界で一番の被害者である』という歪んだ確信だけ」

 プラムは、思わずたじろいだ。

 トリスタンの件で「事実」を突きつければ終わると思っていた。だが、アメリアという女の根底にあるのは、事実を上書きするほどの猛烈な自己憐憫じこれんびんだ。ハイディの指摘は、プラムの戦略的な死角を正確に突いていた。



「……図星かしら。あんな性質タチの悪い生き物、論理で追い詰めたところで、自分の面子を取り戻すためだけに更なる非合理を重ねるだけよ。当然、真っ先に貴女が狙われる。……まあ、貴女がどうなろうと私の知ったことではないけれど」

「いいの? 酷いわ。これでも私たち、親友だと思っていたのだけれど」

「冗談よ。死なれては貸しが回収できないわ」

 ハイディは淡々と帳簿の一ページを開き、プラムに突きつけた。そこには、アメリアが「聖女の威信回復」と称して計画している、あまりに杜撰な国家予算の流用案が記されていた。

「本当にこのまま、あのバケモノにこの国の未来預けていたら破綻する。そうなれば私の平穏な生活も損なわれるわ。……協力しなさい、プラム。貴女がアメリアを殺すなら、私がこの盤面を『適正な収支(あるべき地獄)』に整えてあげる」

 プラムは、目の前の幼馴染__算術の番人、ハイディの黒い瞳を見つめ、静かに唇を吊り上げた。

「……ええ、よろしくてよ。数字で殺す方が、毒よりもずっと残酷ですものね」

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