騎士と破滅
イグレイン伯爵家主催の慈善夜会。その中心で、トリスタンはかつてないほどの全能感に酔いしれていた。彼の隣には、聖女アメリアの妹、サラが恭しく傅いている。
彼女は姉に似た面影を持ちながらも、その瞳には浅薄な虚栄心が透けて見える。
(御しやすい。プラムのような可愛げのない女より、よほどマシだ)
__サロン『ラ・キュン』で、プラム・アプリシア侯爵令嬢の不貞に関する証拠が手に入ったのは僥倖だった。
トリスタンはフロアの隅に立つプラムを見下ろした。トリスタンは、この綺麗事ばかりで気が強い元婚約者のことを目障りに思っていた。
婚約破棄などという愚かな真似をしなければ、今頃彼女は自分の支配下で、この栄光を支える装置として機能していただろうに。
この証拠を王宮へ差し出せば、この忌々しい女を完全に視界から排斥できる。『ラ・キュン』の店主、ジュリアが葬られることになるが、仕方ない。なんなら、あの店もラユラとして引き継いで、適当に息のかかった者を経営者の座に置いておけば、より情報を引き出しやすくなる。
夜会の中盤、トリスタンは満を持して壇上に上がった。
「皆様、刮目せよ!」
サラが可憐な笑みを浮かべ、姉に代わって慈愛を説く挨拶を終えると、トリスタンが仰々しく一歩前に出る。
「私はアメリア様の慈愛に感化され、この会を開くに至った。だが、聖なる光の道を歩む者として、皆様に謝罪せねばならぬことがある。……私の元婚約者、プラム・アプリシアの黒き行いについてだ。不徳な身内を抱えたままでは、正義への忠誠は示せぬ。ゆえに私は、此度、彼女の不貞を糾弾し__正式にサラ様との婚約を宣言する!」
会場にどよめきが走る中、トリスタンは一冊の手帳を高く掲げた。
「これは、プラム嬢の部屋で見つかった手記だ。ここには彼女が私との婚約期間中、名もなき青年と耽っていた蜜月の日々が克明に記されている!」
プラムは、扇子の影で静かに口元を歪めた。
「……まあ。そんな不貞、全く身に覚えがございませんわ。トリスタン様、それをどこで手に入れられましたの?」
そう、不貞には覚えがない。真実の鏡を扱えるアメリアはいないが、念のため、嘘をつかないようにしてプラムは答えた。
「しらばっくれるとは残念だ、プラム嬢。君の部屋から私が直接『預かった』のだよ。君の罪の証拠としてな」
プラムが冷ややかな視線を送ったその時、人混みを割って一人の男が現れた。
「おやおや。それが事実なら、実によろしくない話だ。……私にもよく見せてくれないか、トリスタン卿」
宰相、ヘリオス・エストレイア。その青い瞳が、獲物を狙う鷹のように細められる。
ヘリオスはトリスタンの手から手帳を奪い取ると、パラパラと捲り、不意にその表紙のカバーを力任せに剥ぎ取った。
「……ほう。これは『小説』だね。ほら」
剥き出しになった表紙には、金文字で『ヒミツの小説!』という滑稽なタイトルが打たれていた。さらにカバー裏側の隠しポケットからは、数枚の紙片が滑り落ちる。
『設定集:ジュリア様を反逆者にするのは失礼だからナシ!』
『プラム様は浮気されたら浮気相手より先に主人公に怒るタイプかも!』
そこには、生々しい「物語の設定」が書き殴られていた。
「小説……?」「そんなものを鵜呑みにして元婚約者を吊るし上げたのか?」貴族たちの嘲笑が、さざ波のように広がる。
「そんな、そんなはずはない。だって__」
「ところで、トリスタン卿。君はこれを『プラム嬢の部屋で見つけた』と言ったね」
ヘリオスの低い声が響く。プラムは身に覚えがないとばかりに、再度首を横に振る。
「おかしいな。実は昨日、これとそっくりの手帳がある場所から盗まれたらしいと、プラム嬢から通報が入ったんだ。そうだね、プラム・アプリシア侯爵令嬢」
「ええ。ある方からご連絡を受けまして__私も内容を聞いて、不貞を疑われては大変なことだと思い、すぐに宰相殿下にご相談いたしましたわ。……トリスタン様がお持ちの『あれ』によく似た手帳のことを」
「持ち主は物語に臨場感を持たせるために、事実を描いた手記に見えるよう、手帳に細工をして楽しんでいたそうだ。内容が内容なだけに、事実だと思われたらと思うと心配でたまらないと、先ほどまで私の前で泣いていたんだよ」
「そんな……はずは……私は、確かに……」
トリスタンの頬を、嫌な汗が伝う。ヘリオスは愉快そうに唇を吊り上げた。
「丁度先ほどまで話を聞いていたんだ。本人に聞いてみようか」
ヘリオスが指先を鳴らすと、空間がわずかに歪み、サロン『ラ・キュン』の主、ジュリア・ラ・キュンが現れる。
「あれが宰相殿下の権能か」「王家の魔法、なんと底知れぬ……」「瞬間移動の類か?」
周囲から感嘆と畏怖のどよめきが上がる中、ジュリアは優雅に、かつどこか怯えたような仕草で口を開いた。
「ええ……。客の一人が忘れていったその手記を、昨晩盗まれたのですわ。うちの店にはなにぶん、特殊な趣味をお持ちの方が多うございますから。内容は小説だと分かってはいたのですが、あまりに精緻な、真実味を帯びた筆致で……もしこれが悪用されたらと思うと、恐ろしくて……。犯人は、うちの店で働いていた『ラユラ』という娘です。……あら?」
ジュリアは芝居がかった動作でトリスタンへとおずおずと近づくと、わざとらしくその顔を指差した。
「……貴方、ラユラじゃないの!」
「……は?」
「間違いないわ、ラユラよ!」
会場が困惑の色を帯びたざわめきに包まれる。次期騎士団長候補と目されていた男が、夜の街で女装して男を誑かし、あまつさえ泥棒を働いた?その疑惑に、貴族たちは汚物を見るような視線を投げかける。
「ラユラ……?」「女装して店に?」「その上、盗みだと?」
トリスタンは生涯分かと思うほどの冷や汗を流し、真っ青な唇を戦慄かせながら叫んだ。
「そ、そんなはずはない! 人違いだ!」
「いいえ、貴方がラユラよ。違うと言い張るなら証拠もありますわ。__これを鑑定にお出しになって」
ジュリアが差し出したのは、アッシュが店から持ち帰った筆跡の控えだった。
「嵌めたのか! ……そもそも貴様、これは恋人の手記だと言って俺に見せてきただろう! この女は嘘つきだ! 信用に値するものか!」
窮鼠となったトリスタンの咆哮を、ジュリアは冷ややかに笑い飛ばした。プラムもまた、扇子の奥でこみ上げる嘲笑を必死に堪えていた。
「ええ、ご相談はしましたわ。でも……私は『侯爵令嬢か王家に殺されてしまう』としか申し上げていないはずよ。だって実際にまずいでしょう? もしこんな代物が『本当の手記かのように』市井に出回ってしまったら……あぁ、怖かったわ」
「現に、このようなことになっておりますもの。ご心配はごもっともなことですわ」
プラムが同調するように頷くと、ヘリオスが手帳の装丁を指先でなぞった。
「うむ、この手帳の仕掛けは実に見事な出来だ。複製を疑い、恐れるのも頷ける。もちろん、君たちにもこの内容の事実関係については精査させてもらうが……プラム嬢、ジュリア女史。身を守る上で、即座に声を上げたのは英断だったね」
「私は……ジュリア様が真っ先に私へご相談くださったお陰ですわ。私が逆上する可能性だってありましたのに……。その勇気ある行動に、心から感謝いたします」
「いえ……お分かりかと思いますが、私には反逆の意思はございません。店のことも、ぜひお調べくださいな」
「同じく。アプリシア侯爵家も、その名誉のためにご協力いたします」
「……ところで、トリスタン卿」
二人の称賛に包まれ、ジュリアは勝ち誇ったようにトリスタンを射抜いた。
「先ほども申し上げた通り、私がその手記を見せた相手は『ラユラ』という女装子ですわ。……認めたわね? 貴方がラユラで、それを盗んで手に入れたのだと」
「っ……!」
「気持ち悪っ!!」
隣にいたサラが、汚い虫を追い払うような仕草でトリスタンを突き飛ばした。
「そんな変態と婚約なんて、お姉様に顔向けできませんわ!」
「ちがう。僕は……仕方ないだろう! 僕は可哀想なんだ、僕は、被害者なんだ!」
突然、トリスタンが狂ったように大声を張り上げた。
「プラムが__アメリア様が怖いのが悪いんだ! 僕は苦しかった! 居場所がなくて『ラ・キュン』に行ったのに、ジュリア、お前まで僕を売るなんて最低だ! 僕は被害者なんだ!」
その場にいた全員が、呆れ果てて言葉を失う。
「そうね……私も残念よ。ラユラ、私は貴方を__ただ好きなものを好きと言うことすら許されない、ただ生きているだけで冷たい視線を受け、異端と排斥される。そんな、同じ苦しみを抱える『同志』だと、信じていた」
貴族たちは、ジュリアがわざとらしく悲しげな顔を作ると、その潤んだ瞳に同情の目線を送る。プラムが追い打ちをかけるように一歩踏み出した。
「偏見に負けず……自らの居場所だけでなく、同じ苦しみを抱えた方にとっての『聖域』を作り上げたジュリア様は、ご立派な方よ。それを守るために卑怯な泥棒を告発するのは、正しい行いですわ。……それにしてもトリスタン様、この場はアメリア様のお名前を冠した『慈善』の夜会ではありませんか。先ほども仰いましたわよね?アメリア様の慈愛に感銘を受け、正義の道を歩む上で、私を糾弾すると。それを怖いだなどと……貴方のお心は何処にいらっしゃるの?」
「自らも陥れられたというのに、お優しいお嬢様だ」「まったく、彼女の言う通りだ」「それに対して、随分言うことがころころと変わる騎士殿下ですこと」と、周囲から呆れた声が上がる。
「有り得ないことですが__仮に、聖女様が貴方の仰る通りの極悪人であったとしても。それは貴方が盗みを働いたり、他人を陥れて保身に走る理由にはなり得ませんわ」
トリスタンは、信じられないという顔でプラムを見返した。
彼には「自分の苦しみ」しか見えていない。その肥大化した被害者意識のせいで、自分が他者の人生を蹂躙したという事実すら、脳が拒絶しているのだ。
そんな無様な男を見下ろしながら、ヘリオスが氷のような宣告を下した。
「……見苦しいな。衛兵、この男を連れて行け」
プラムはその背中に、追撃を浴びせた。
「殿下。私の親友、ニコラも彼の証言で投獄されています。今回の件、彼の証拠能力に疑義が生じるのではありませんか?」
ヘリオスはプラムに向け、一瞬だけ「悪戯っぽく」口角を上げた。
「ふむ、確かにそうだ。ニコラ自身が鏡の前で自白した『怪文書を書いた事実』は覆せない。だが、その経緯や背景については、この虚言癖の男の証言だけでは不十分だ。再調査が必要だね。即刻処刑するわけにはいかなくなった」
引きずられていくトリスタンの断末魔が、夜会の広間に虚しく響き渡る。
プラムは、彼が通った後の床を汚いものでも見るように一瞥すると、怒りと屈辱に顔を真っ赤にしているサラに向き直り、完璧なカーテシーを披露した。
「……あら、サラ様。お似合いの婚約者でしたのに、残念ですわね。でも、ご安心を。……貴女の『お姉様』よりは、ずっとお似合いの末路だと思いませんこと?」
プラムのルビー色の瞳が、昏い愉悦に燃えていた。




