二人
「ようやくお風呂に入れるよー」
化粧はとっくに剥がれ落ち、髪はぐしゃぐしゃ。春菜は浴室に入ると、二日前に着た服を脱ぎ捨て、三日ぶりのお湯に浸かる。
「あー、生きててよかった」
ガブエルが剣を振り上げた時、全てが終わったと思った。 サレオスの重荷にならぬよう、人質としての役割を終えるため、敢えて相手を罵って激高させた。
十中八九、死という結末を迎えるであろうと覚悟はしていた。ただ――
サレオスが助けに来てくれるかもしれない。アンドラスが止めてくれるかもしれない。どこか心の隅で期待していたことは認めざるを得ない。
「身勝手だな私って」
本当は死にたくなんてなかった――まだ伝えていないことがあったから。
「……言っちゃたよ私ー!」
火が出そうになる顔を両手で押さえ、湯船の中で足をバタつかせる。丈の低いバスタブからはバシャバシャと湯が飛び散り、白い靄が広がる。
「うやむやになってるけど、確かに『聞こえたぞ』ってサレオスさんの声がした」
あんな風に大声で男の人に対して気持ちを伝えたのは初めて。まともな精神状態で出来ることじゃない。それこそ清水の舞台から突き落とされる瞬間に告白したようなものだ。
「けどまだ返事を聞いてない。無かったことにされてる?うーん」
頭を抱えて唸ってみても、真意はわからない。春菜の脳裏にはフールルの言葉が甦る。
『待ってるだけじゃダメだよ』
「確かにその通り!」
春菜は立ち上がって頬をペチペチと叩いて気合を入れ、大きく息を吐き出す。
「まずサレオスさんに会ってから。話はそれから」
湯船から上がって体を拭い、用意してきた着替えに目をやる。
(私のお気に入り……)
衣装室に置かれた数あるショーツの中でも、いざという時のために取っておいた新品だ。
「このショーツを今日履かずしていつ履く!」
自分を発奮するように声を出す。浮かぶのはまたもフールルの言葉――
『こっちから誘惑してやんないと』
「いや!違うんですよ、これはそういうんじゃなくって、自分に気合を入れるとか、そういう意味であって……」
誰に聞かせるでもない言い訳をしながら頬を染め、とっておきを身に付ける。化粧水をたっぷりと肌に塗り込むと、心地よいローズの香りが舞い上がる。
「よし!戦闘準備完了!」
人生でも最高レベルの気合を入れて、サレオスを呼びに部屋へと向かった。
「サレオスさーん、呼びに来ましたよー」
「ああ」
部屋にノックして声を掛けると、小さく返事が聞こえすぐに扉が開く。
「よかった、もう寝ちゃったかと思いました」
「ご覧の通りだ」
サレオスは服を着替えているものの、いつも公務に出る時とさして変わらない襟付きの服を着ていた。
「サレオスさんて、部屋着とか着ないんですか」
「寝る時ぐらいだな。興味があるのか?」
「ええ?」
早速軽いジャブを入れられて、たじろぎそうになる。けれど、今日は気合が違うのだ。
「ま、まあ、興味があるかと聞かれればそうですね」
「ふーん、分かった」
サレオスはよくわからない返事をすると、後ろ手に扉を閉めた。
(『分かった』って、何がわかったのかな……あれっ、この匂い)
近づいたサレオスの体から、いつもの匂に混じって違う香りがする。よく見れば銀色の髪が軽やかにボリュームを増している。
「どうかしたのか?」
「サレオスさんさっきお風呂入った?」
「ああ。そう言えばこんな早い時間に湯あみをするのは久しぶりだな」
(湯上りサレオス!なんてこと、これじゃあまるで『先にシャワーを浴びるぞ』的な展開じゃないですか!)
「昨日の夜、滞在先で召喚獣を呼び出してから空を飛びっぱなしだ。さすがに汗を掻いたし、疲れもな」
「そ、そうでした……ご迷惑をお掛けしました」
淫らな妄想に入りかけた春菜は、我が身から出た現実的な事情を聞かされ恐縮する。
「ハルナ――」
ふいにサレオスが春菜の手を掴み、軽く自分の方へ寄せる。
「お前が俺に迷惑を掛けたことなんて一度もない。お前のためにすることで、そんなふうに思うわけがないだろ」
「うん!」
春菜の心にじんわりと熱いものが広がっていく。幸せとはこういうことの積み重ねに違いない。
「それで、見せたいものって?」
「そうだった、一緒に来て下さい。行き先はまだ秘密です」
春菜はサレオスに掴まれた手を握り返し、三階へ向かう階段へと引っ張っていく。
(あ、そっか。このままだと)
階段を下りれば衛兵がいることを思い出し、掴んでいた手を緩めた。しかし、サレオスはそんなことは気にも留めず、手を解こうとしない。
衛兵の横を通り過ぎる時、春菜は気恥ずかしさで顔を上げられない。
(手繋いでるの見られてるよね、どんな風に思われてるんだろ)
気になってチラリと目だけ動かせば、衛兵は我関せずと、いつもと変わらずビシリと敬礼を決めていた。
(うん?うん、まあそうか。流石はエリートの衛兵さん。忠実に職務に励むなあ。意識した自分が恥ずかしい……)
「まだどこへ行くか教えてくれないのか?」
「もうすぐです。だからここからは目を瞑ってください。いいですか、絶対に開けないでくださいよ!」
「ああ」
言われた通りにしているのかと、見上げるようにしてサレオスの顔を確認する。
(わ、レア顔だ。まつ毛長!ホント綺麗な顔。なんか、見てるとドキドキしてきちゃう、このままずっと眺めていたいくらい)
「どうした?足が止まっているようだぞ。今はお前が俺の『目』なんだ。頼むぞ」
「そうでしたそうでした。それでは出発しましょう」
サレオスのことだ、流石にここまでくれば何を考えているかなんてお見通しだろう。それでも出来るだけ驚かせたくて、逸る気持ちを抑え込む。
すぐに空中庭園と城内を仕切る柵に辿り着き、そのまま花壇の中央部分へとサレオスを導く。庭園は隅に置かれたランタンと、天窓から差し込む僅かな月明かりに照らされていた。
「じゃあここに立って、合図をしたら目を開けて下さいね」
春菜は手を離すと距離を取り、庭園の中央に立つサレオスをジッと見つめる。
「はい!いいですよ」
サレオスはゆっくりと目を開いた。薄明かりの庭園に、緋色に煌めく瞳が浮かび上がる。
花壇には陽桜草が満開に咲き、僅かな月光を浴びて赤い花弁が火のように輝いていた。黄色い雄しべと若草の枝葉がそれを引き立てる。
何も言わず、体をゆっくり回しながら陽桜草を眺めるサレオス。しばらくして目を閉じると、無言でその場に立ち続ける。一体、その脳裏でどんな景色を見ているのだろう。
春菜は静かに問いかける。
「綺麗でしょ?サレオスさんの瞳みたい」
「そうだね」
サレオスは少年のように無邪気な声を返し目を開けた。煌めく瞳が雨に濡れた様に、微かに揺れた気がした。
「サレオスさん?」
春菜が側に駆け寄ると、何事もなかったように微笑む。あれは錯覚だったのか。薄明かりの庭園でははっきりとわからない。
「昔。まだ母が掃除人をしていた頃、荒れ果てたこの庭園を見て手入れを申し出た」
サレオスは陽桜草を見廻しながら、遠い景色を見る様に思い出を語りだす。
「忙しい仕事の合間や、僅かな休みの日を割いての作業だったらしい。そんな時、母は先王の目に留まり数いる王妃の一人として迎えられた。否応なんて無かったなろう」
「……」
『先王』と口にしたサレオスの顔に、濃い陰りが一瞬見える。この父と子にどれほどの確執があったのか。春菜は黙って話に耳を傾ける。
「王宮にいる母はいつも寂しそうだったけれど、この花壇にいる時は笑っていた。砂漠のような魔王城で、ここだけは花咲くオアシスだった」
「うん」
きっと美しい想いでなんだろう。サレオスはとても優しい顔をしている。
「この花が初めて咲いた時、母はさっきのハルナと同じことを言って、嬉しそうに笑っていたよ」
「よかったね。その時、お母さんはとても幸せな気分だったと思うよ。だって、今の私がそうなんだから」
春菜は愛する人の胸に顔を埋めた。
もう、言葉では伝えてある。後はサレオスの意志を教えてもらうだけ。なら、照れることも拒絶を恐れることもせず、愛する人にこの身を委ねよう。
「ああ、そうだな」
サレオスは春菜の顎を指先で上に向けさせ、体を抱き寄せる。ゆっくりと陽桜草と同じ色の瞳が近づき、唇が重ねれる。
柔らかな感触に春菜は目を閉じた。温もりと匂い、呼吸を感じながら、この時間がいつまでも続いて欲しいと願う。
「あっ」
そっと唇が離され、春菜は名残を惜しんで声を漏らす。
「お前の声、ちゃんと聞こえたぞ」
「恥ずかしい……」
はしたないと思いながらも、喜びは隠せない。サレオスは小さく首を振る。
「俺が龍で駆け付けた時のことだ。お前はなんて言った?」
「あれは……聞こえたんでしょ?」
「ああ。けれどもう一度言ってくれ」
「そんな、あんなこと何度も言えないよ」
「言えよ。もう一度キスをして欲しくないのか?」
春菜の顎の下を指先で撫でながら、サレオスは意地悪に笑う。春菜はゆっくりと頷いて口を開く。
「サレオスさんが好き」
「俺もだ」
サレオスの顔がゆっくりと近づき、再び春菜の唇を奪う。
熱い呼吸をお互いが交わし、サレオスの濡れた舌が春菜の口を開かせる。舌は滑らかに口腔へと侵入すると一つに絡み合い、蕩けるような快楽を与えて消える様に去っていった。
春菜は膝の力が抜け、サレオスの腕に支えられた。
「大丈夫か」
「……」
恍惚として返事をすることが出来ない。サレオスの胸に抱かれながら、キスの余韻を味わう様にしばらく体重を預けた。
「ハルナに見せようと思っていたものがある」
「?」
サレオスは庭園の隅へ向かい、ランタンに灯されていた明かりを吹き消していく。
一つ、また一つと火が消されるたびに、辺りは暗さを深めていく。やがて、月明かりが照らすだけとなった庭園のまん中で、サレオスは右手を広げて前に翳した。
手の周りに白い煙が掛かり、徐々に濃く大きさを増していく。煙の中心に緑色の光が小さく灯り、瞬く間に増えて球を成す群体と化した。そして――
球体が破裂するように飛び散り、庭園中に小さな光となって浮遊する。
「これ――蛍!」
ゆっくり明滅しながら、上下左右へ浮遊を繰り返し、あるいはその場に留まり、数千の緑色の光が庭園を彩った。その光景は、幼い頃まだ健在だった父に連れられて行った蛍祭りを思い出させる。懐かしさと暖さが胸に溢れた。
春菜の元へ、サレオスがゆっくりと近づいて来る。
「ありがとう。私が言ったこと、覚えてくれてたんだね」
「緑に光って飛ぶ蟲。イスラにはいないな。魔王城で繁殖をさせてみるか?」
「え、ここで?……たしか、カワニナとかエサになる虫が必要だと思ったけど」
「いろいろ試せばいい。必要ならエサだって召喚してやる」
「うーん、でも止めておく。やっぱり生き物だから、私の都合で好き勝手するわけにはいかないよ」
「そうか、そうだな。お前の言う通りだ」
サレオスは笑顔で頷き、春菜の手を取り空に向かって翳した。一匹の蛍が手に止まり、数回明滅を繰り返して飛び去っていく。
「よかったな、今度はちゃんと挨拶をしてくれたぞ」
「ははは、確か蛍ってオスの方が光るって聞いた気がする。男の人には私の方がモテるのかな?」
「虫だぞ?俺がヤキモチでも焼くと思ったか?」
春菜はサレオスに頭をくしゃくしゃに撫でなられ、嬉しさで目を細める
「本当はな――」
サレオスは言い掛け、春菜を見つめて口の端を歪める。
「本当はなんです?」
「この後、お前をお仕置きしてやるつもりだったんだ」
「ええ!ちょっと、お仕置きって、さっきグシオンさんに言ってたの本気だったんですか?」
「もちろんだ。けれど、お前が母のことを思い出させるからその気が失せた」
「ち、ちなみにそのお仕置きってどんな?」
尋ねると、サレオスは今まで見た中でもとびきりの意地悪な笑みを浮かべる。春菜はもしやと思い胸元を隠して後ずさる。
「子供じゃないだろ?今度二人きりの時にな」
「やっぱり!」
それが今日でないことをホッとすべきか、それともガッカリするべきか。複雑な思いで頬を膨らます春菜を、サレオスはがっしり掴んで引き寄せる。
「俺から逃げられると思ってるのか?」
「ううん、思ってないよ。だから離さないで」
「ああ、わかってる」
二人は月と蛍が照らす緋色の花を、抱き合いながらいつまでも眺めた。
次回「エピローグ」




