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部屋

「わぁ、これが王侯貴族のお風呂場か……なんか普通の居間みたい」


噴水のように石像から湧き出る豊富なお湯、石柱が立ち並ぶプールのように大きな浴槽、そん光景を思い描いていだけに、妄想とのギャップに面食らう。


(でもこれはこれで素敵だな。私の部屋と同じくらいの広さかな。なんか落ち着く)


城内にこんなに小さな部屋が隠れていたとは意外だ。


壁には白漆喰が塗られ、大きな窓が開け放たれていた。棚には水瓶と洗面器がインテリアのように整然と並んでいる。


「流石に王様のお城と言えど、まだ浴室に水道までは引かれていないのか。あ、このバスタブかわいい」


たらいとさして変わらない大きさの、白く滑らかなカーブを描くホーロー製のバスタブが、浴室の主役は自分であると主張していた。


「あ、内側が汚れてる。ふんふん、この汚れは……」


バスタブの内側にはくるぶしぐらいの高さを中心としてシミが付着していた。爪先で引っ掻いて汚れの種類を確認する。


「なるほど、湯垢か。それにしても、このお風呂場ってどうやってお湯を沸かすんだろ」


水道すら引かれていないのだから、お湯が出る蛇口があるわけ無い。部屋を見廻して設備を確認する。


「これって」


目に付いたのは部屋の隅に置かれた蓋の付いた大きな木箱。ニスが塗られたような光沢を放っている。パカっと蓋を開けると大きな穴。トイレだった。


「な、なるほど、ユニットバスか」


しかしこの部屋はお手軽なユニット式バスではない。


「スゴ!このトイレの穴底が見えない!地下の排水溝まで直行してるんだ」

ちなみに城外のトイレは汲み取り式。城内に設置されているものはここと同タイプだ。


「うん、清潔で素晴らしい。私もここを利用しない手はないね。さて、じゃあお湯は……これか」


見つけたのは大きな火鉢。そこでお湯を沸かしてバスタブへ注ぎ入れる方式だ。


「こ、これって実はすごく大変なんじゃ……」


火鉢でお湯を沸かすのにどれだけ時間が掛かるのか見当もつかない。ホーロー製のバスタブには排水口が無いから、お湯を捨てるには汲み上げなければならない。


「トイレにしろお風呂場にしろ、二一世紀の日本文明は偉大だね」


魔王城での暮らしが始まって、生活面で苦労することは意外にも少なかった。ただ一つ、お風呂とトイレを除いては。


「ここでも肩までお湯に浸かるのはかなわないか。でも問題解決だね」


プライバシーが完全に守られたこの浴室は魅力的だ。


グシオンから配慮を受けて利用させてもらえるのだから、掃除もしっかりとこなしたい。利用する都度片付けているということだったので清潔に保たれていたけれど、それでも掃除すべき個所が目に入る。


「さて、お掃除お掃除。まずはトイレから」


水洗では無いので汚れはそれなりに存在する。


酢を掛けて便器の内側の汚れをブラシで洗い流し、外回りを丁寧に拭っていく。トイレの匂いの主原因はアンモニアなので、酸性の酢で中和洗浄する。


「次は水汲み桶とバスタブね」


春菜はバケツに沢山入ったレモンを取り出して半分に切る。そして断面の果汁を陶器に万遍なく塗り付け、最後にもう一度レモンで磨くように拭いていく。


「うん、落ちる落ちる」


水垢や石鹸カスが付着して艶を失くしていた白い陶器が、みるみる輝きを取り戻していく。


レモン果汁に含まれるクエン酸が、アルカリ性の水垢や石鹸カスを綺麗に落してくれたのだ。磨き終えたらタオルで拭き取って完成。


「次はバスタブね」


ホーローは金属の表面を、陶器と同じようにガラス状の釉薬でコーティングしたもの。


「ここの汚れは皮脂が原因だから、ちょっとやり方を変えて」


取り出したのは灰汁。灰に熱湯を加えた後に生じる上澄みの液体。


これに塩を加えペースト状にしてクレンザーの要領で磨いてやる。こうすれば酸性の垢や皮脂れが綺麗になる。そして、さらに仕上げにレモンで磨いてやれば――



「よし終わったー!うん、良い匂い。アロマ効果もバッチリ」


春菜は大きく息を吸い込んで、柑橘系の香りを感じながら掃除の成果に満足する。全体的に白く、くすんだように見えた浴室が色を取り戻す。


特にバスタブは裸で入り、肌に直接触れる部分だけに掃除した成果は大きいだろう。




幾日か経ち、グシオンが言ったように城外で人の姿を目にすることが増えていた。


脚立を抱えた庭師、野菜を運び入れる農夫、猟犬を散歩させる狩猟係、ずんぐりと太った荷馬を操る馬丁ばてい。春菜がすれ違った人たちは仕事も様々だ。


面白いのは服装の系統が仕事でそれぞれ異なること。


制服がある訳ではないけれど、職業の特性に合わせた服装になっている(例えば農夫は日除けに大きな帽子と長袖)。


みんなそれぞれ「ああ、なるほど」と仕事を連想させる格好で面白い。


その中で春菜の服装は特殊だった。出会った人々に城内で掃除の仕事をしていると言うと、みんな驚いた顔をする。


「ねえ、バアルさん。お城の中で私を除いて三人(サレオス、グシオン、ヴィネア)以外に人がいるって聞いたことある?」


春菜は厨房でお昼ご飯を食べながら尋ねた。朝昼晩とここへ顔を出し、城のことやこの世界のことをあれこれ話すのが習慣化しつつある。


ウマが合うのか面倒見がいいのか、バアルは嫌な顔せず楽しそうに応じてくれる。


「いや、ねえな。俺の知る限りじゃ嬢ちゃんだけだ」


「そっか、やっぱりそうなんだ」


これ以上は以前の出来事があったので尋ねることは出来ない。


(いつかサレオスさんは話してくれる時が来るのかな)


『必要がないから話さない』はグシオンの言葉だったけれど、そう考えれば望みは薄そうだ。春菜がサレオスと話した機会は、まだ二回しかない。


「レアキャラだー」


「どうしたお嬢ちゃん?料理の名前か何かか?なんとなく甘い雰囲気があるな」


「違うよ、こっちの話。ごちそうさま、仕事に戻るね」


「おう、しっかりやれよ。腹空かせたら茶を飲みに来い」


お父さん化しつつあるバアルに送り出され、春菜は午後の仕事に向かう。



城内の床は一階が石材、それ以上は木材という具合に階層で材質が異なった。


二階の床は無垢の木材が格子状に組まれたパネルが、幾何学的な模様を描いて敷かれている。


春菜は部屋に一通りフロアダスターを掛けてから、紐で結いた布切れを取り出した。


中には麦糠が入っていて、中身が飛び出ないように布は3重にしてある。その布で床を拭いてやると、糠の油分がワックスとなって板材に光沢を与えてくれる。


「ぬー、無垢材だからこそこの手間が後々生きてくるのだ!」


と、自分を励ましながら床をまんべんなく拭っていく。


効果はあるけれど「一回でぴかぴかに!」とまではいかないのは天然素材ゆえ。それでも拭き終わった床はダスターを掛けただけの床と異なり、無垢の木の色艶が増している。


磨き抜かれた床を歩くサレオスの姿はさぞ様になるだろう。そんな姿を初日は妄想をしたものだ。



(そうそう、そんな風にね……!)


幻ではなく実際に歩いて来るサレオス。


何故城内でもコートを着ているのかという思いあるけれど、そこには様式美が備わっていて、魔王としての風格に一役も二役も買っていた。


なにより、その姿がとても格好いい。


サレオスは春菜の前で立ち止まる。


「探したぞ」


「ナニヲデスカ?」


たまたま通りがかったというわけではないらしい。


サレオスに会うのは衣装室での一件以来。ロマンチックな出来事が起きた後というわけでもないのに、春菜は照れくささと緊張で手足をピンと伸ばして応じた。


「なぜ直立不動で応じる。緊張をしているのか?」


「してませんよ?どうぞお気を使わずに」


「お前に気なんか使ってない」


「……」


二人の間に一瞬の沈黙が産まれる。先に口を開くのはサレオス。


「話を戻すぞ。何故お前はどこにもいなかった」


「?それは掃除をしたからではないでしょうか」


「昼間の話をしているんじゃない。夜の話だ」


(え?夜にサレオスさんが?殿方が、私の寝所を、探した?)


どんな目的があって春菜を探したのか。昔読んだ平安の物語さながらの、みだらな妄想で顔に血が上る。


「何故顔を赤くする?」


「し、してませんよ!気のせいです!」


「……。まあいい。夜に城内でお前の姿を見かけたことがない。聞けばお前は鏡も無い部屋で寝起きして、裏庭で湯あみをしていたそうだな」


春菜が思うような甘い気配は微塵も無く、サレオスは問い詰めるように尋ねる。ヴィネアとグシオン経由で耳まで届いたか。


「あ、ああ。そういう意味ですね」


ホッとするような少しガッカリするような複雑な思いだ。


「それは城内に見当たらないに決まってますよ。私の部屋は裏庭の長屋ですから」


「長屋!何故そんなところに部屋を決めた!」


口調はさらに詰問調へと厳しさを増している。


「だって、掃除室の上にあるってことは、そこが使用人の部屋ってことじゃないんですか?」


サレオスは額に手をあて、天井を仰ぎ見る。


「迂闊だった。お前がそれほど阿呆とは」


「ムッ、そんな言い方ないんじゃないですか。部屋を好きに使っていいって言ったのはサレオスさんでしょ」


「俺は城内の部屋を好きに使えという意味で言ったんだ。誰が使用人室で寝起きしろと言った」


「そんなのわかんないですよ!普通はお城の中で暮らすなんて考え浮かばない。私は王様でも貴族でもないんだから」


「俺に呼び出された時点で察しろ」


「察せるわけないでしょ!ただの掃除人にそこまで求めないで!」


「ただのじゃないだろお前は俺の――」


「俺の?」


サレオスは春菜に顔を近づけ、覗きこむ様に真っ直ぐに見つめる。緋色の瞳の輪郭が微かに揺れる。春菜の心臓が内側から蹴られたように音を立てた。


「お前は俺の掃除人だ」


「はい?」


「お前は俺が呼び出した掃除人だ。使用人室で寝起きするなんて俺が許さない」


「俺の掃除人……」


反芻して言葉の語感を確かめる。


(格好悪い!微妙にイタイ!なんか屋号か商品名にありそうだけど絶対無い!『俺の料理人』とか『俺のメイド』ならまだ格好つくけど、掃除だとこうも様にならないなんて!)


俺のメイドにいかわしさを感じるのは別として、春菜は肩の力がガクンと抜ける。


(はあ、なんか気が抜けた。二度ほど期待を上げてから落されたからなおさらだ……期待?私何か期待をしていた?)


「わかったな?」


「え?何がですか?」


「チッ」


(うわ、舌打ちされた)


モノローグに忙しくて話を聞いていなかった春菜に、イラッとした表情を見せて睨み付ける。


「俺に心配を掛けさせるな。城内を好きに使って構わないから部屋を移れ。わかったな」


「う、うん……」


返事を迫ったサレオスの目には有無を言わさない力が籠っていた。春菜は思わず素になって頷いた。


反応に満足したのか、サレオスは口元を綻ばせる。


「いいかすぐに引っ越せ。城内を好きに使え」


最後にそう言ってサレオスは立ち去った。


(それだけ言いにきたのかな?)


部屋を移動しろと言うのは分かったけれど、理由は分からなかった。それでも言いつけに従ったのは、サレオスがこの城の城主だからではない。


あの時春菜に迫る目に、相手を意のままに動かそうという我が儘ではなく“そうであってくれ”という願いに似た力を感じたからだった。


そしてもう一つ――


(『俺に心配かけさせるな』って言った……)


その言葉だった。

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