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雨音と夏日  作者: ねさかなこ
1.深雪と雨音、それと夏日

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9/20

夏日はいつも雨音を見る

 玄関前に置かれた白い長方形のプランターに茂っているのは、ふわふわとした白い花。花に詳しくない深雪には品種はわからないけれど、園芸が趣味のユリネが去年から育てているものだ。去年は園芸店で買ってきたばかりの小さな株だったが、ここ一年でよく育った。わさわさと生い茂っていて、この上に寝転んだら気持ちが良さそうだ。


 グレーの小石を模したタイルが敷かれた玄関前に立つ。チャイムを鳴らすと、ドアの向こうから小さな会話が聞こえてきた。それから数秒待つ。


「はいはい、どなたですか〜」


 忙しない動きでドアを開けたのは、夏日だった。いつもパジャマ代わりにしている黒いシャツのよれた襟ぐりから、日に焼けた鎖骨が覗いている。


 夏日は黒い瞳を浅い緑のマフラーに埋まっている深雪の顔に向けて、


「あ、深雪」


 それから視線をグレーのコートからはみ出た臙脂色のスカートと、そこから伸びた白くて細長い足に落として眉を寄せる。茶色い革靴とクルー丈の黒い靴下を履いた深雪の足が、もぞりと居心地悪げに身じろぎをした。


「雨音……?」


 ふたたび深雪の顔に視線を戻し、


「あっいや深雪か。おはよ。入れよ」


 寝癖まみれの頭を掻きながら、家へと迎え入れてくれた。


「おはよ」


 夏日に笑いかけた深雪は、軽く頭を下げて玄関をくぐった。いつだったかに深雪が描いて贈った昼寝をしている犬の絵が掛けられた玄関の壁を通り過ぎると、そこからすぐにあるキッチンでこちらに背を向けて立ったままマグカップに口をつけているユリネの背中に声をかけた。


「ユリネさん、おはよう。お邪魔します」


 ユリネは普段のとおりにゆったりとした生成り地のシャツワンピースにネイビーのエプロンをつけていて、深雪はなんとなく、その姿を見るといつも安心する。


 肩上の長さのくせっ毛を揺らしながら振り向いたユリネ。深雪が左手を上げて雨音と自分を見分けるためにつけている白いラバーバンドの腕時計を見せると、彼女はこちらに微笑みかけてきた。


「あっ深雪くん、おはよう!」


 なにかいい匂いがする。淹れたてのコーヒーの匂いと、焼き菓子のような甘い香り。それと眠りを誘うような靴音が響く木の匂いがしたら、喫茶店の匂いになりそうだ。


「今日はわたしお休みになったから、朝っぱらからクッキー焼いてるんだ。夕方夏日に持たせるから食べて」


 そう言ってキッチンの台に置かれたガラスのボウルを見せてくる。小鍋くらいのサイズのボウルには、焼き上がったクッキーが山のように積まれている。ユリネはよくこうしてお菓子を大量に作ってはおすそ分けしてくれる。ユリネの作るクッキーとラム酒の効いたガトーショコラは、深雪の大好物だ。深雪は目を細めてはにかんだ。


「嬉しい。ユリネさんのクッキー好きです」


 深雪よりも背の低いユリネは、身長百八十センチ台の夏日と並ぶと子供のように子柄だ。ちなみに夏日の長身は、彼の亡き父親譲りである。ユリネは夏日によく似た子供っぽい笑顔を浮かべて、ガラスのボウルとは別の平らな皿に取り分けられたクッキーを差し出した。


「嬉しい〜。味見してく?」


「やった! いただきます!」


 皿の上には、チョコチップ、抹茶、砕いたアーモンドの入ったココア味。どの味を食べるかという重要な問題に真剣な目をしてクッキーを見つめる深雪と、笑みを浮かべてそれを見つめるユリネ。夏日は椅子に座って眠そうな顔をしながらコップの麦茶を飲み、ふたりを眺める。


 ようやく決まったチョコチップクッキーを咀嚼して頬を緩ませる深雪に、夏日が声をかけた。


「深雪、着替えに来たんだろ? 早く着替えないと遅刻するぞ。部屋行こうぜ」


「あ、そうだね。ユリネさんありがとう。美味しかったです。僕もまたなんか持ってきますね」


「いいよ全然。こちらこそいつもありがとう」


 深雪はユリネとささやかに手を振り合ってから、夏日のけだるそうな背中を追って廊下を進み階段を上がる。彼は朝が弱く、起き抜けに会うといつもこんな調子だ。


 階段を上がってすぐの部屋が、夏日の部屋である。ダークチョコレート色の床に、同じ色の扉。小学生のときに夏日の父親の発案でみんなで作った、青い縁取りにロケットの絵が描いてあるネームプレートが掛けられている。深雪たちは母親に見つかって早々に処分されてしまったのだが、インテリアにあまりこだわりのないらしい夏日は、年齢にそぐわない可愛らしさのそれをずっと使い続けている。


 扉を開けると、脱いだ服と筋トレ用品で少し散らかった室内が見える。夏日が普段使っている整髪料と制汗剤の匂いがほのかにする。それと、夏日の匂い。


 夏日がじゃれついてくるときにする彼の匂いに包まれて、深雪は死にそうなくらいに心拍数が高まる。なんだかよくわからない罪悪感に苛まれながら、後ろ手でそっと扉を閉める。かちゃん。ドアの音がいやに大きく感じられて、深雪は背中に冷水を浴びたような気持ちで飛び跳ねた。


 夏日に控えめな視線を送ると、彼はもうすでにシャツを脱ぎ始めていた。黒いシャツの裾からあらわになる、少し筋肉の浮いた腰回り。日に焼けた顔や腕よりも白い。夏日の身体の動きに合わせて柔らかそうにたわむ筋肉と皮膚の生々しさに、深雪は思わず目を逸らして扉の方を向いた。


 妙に耳に響いて聞こえる、夏日が着替える衣擦れの音。なんとなくそろそろと気配を殺しつつ、深雪はかばんからえんじのチェック柄のズボンを取り出した。足を通し、スカートの下からズボンを履く。スカートのホックに手をかけてちらりと夏日の方を見やると、いつの間にか着替えを終えてこちらを見ていた夏日と目があった。


「うわ、見るなよ」


「別にいいだろ、男同士なんだし」


 そう言ってまだ履いたままのスカートの裾をめくってくる。その手をはたき落として、深雪はスカートの裾を巻き込んで足の間に挟む。


「そうだけど、なんか恥ずかしいだろ。スカート履いてるのに」


 ハエを払うような仕草をしながら眉間を寄せて夏日を睨むと、夏日はしょうがないなとでも言いたげな顔をして後ろを向いた。頭を掻きながらつぶやくように言う。


「また雨音にズボン取られたの?」


「そうだよ。あいつこんなときに限って早く起きるんだ」


 スカートのチャックを下ろす。


「おまえさ、雨音脱がせばよかったんじゃねーの」


「ああもう、本当だ」


 深雪はがっくりと天を仰いだ。

 ぱちん。スカートのホックが勢いよく外れる。すとん、と床に落ちる臙脂のスカート。スカートが床にうずくまった小さな音に反応してこちらを見た夏日と目が合うと、彼の黒目は動揺をはらんで揺れた。深雪はその目の理由を知っている。

――また、僕を通して雨音を見た。


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