深雪が雨音に勝てること
「おう、深雪」
後ろから、夏日に声をかけられた。部活が終わって下校するためにひとりで廊下を歩いていた深雪は足を止めて、振り返る。夏日の笑顔がまぶしい。夕暮れのオレンジ色に照らされて、彼の日に焼けた肌は橙色に染まっている。夏日の隣には、確か夏日と同じクラスの男子生徒がひとり。名前は知らない。彼は夏日と同じく背が高くて、この年頃の平均よりも小柄な深雪は、目の前に立つふたりの圧に押されて一歩後ろへ引いた。
「白浜……深雪の方?」
男子生徒が、怪訝な顔をして深雪に問う。
「そう。深雪の方」
深雪は手に持っていたコートとカバンを左手に集めて、グレーのブレザーの右袖が彼に見えるように上げた。深雪が見せつけた右の袖には白いラインが二本縫い付けられていて、これは容姿があまりにも似ている雨音と深雪を見分けるためにつけているものだ。
本来は容姿の似た双子でもこういった対応をすることはないようなのだが、ふたりがあまりにも似ていることと、ふたりの身体の性別が違うことから特例として学校側から頼まれてそうしている。
おそらく名前のイメージから、深雪は白で、雨音が水色のライン。それぞれ右側のズボンの裾と服の袖についている。入学した当初は体が女なのだから雨音にスカートを履かせるという案も出た。しかしそれを雨音が頑なに拒んだことや、性自認が男の生徒に女装を強要するのも倫理的にどうなのかという話になったようで、今の形に落ち着いた。
「帰んの?」
夏日が丸い目をにんまりと曲げて小さく首をかしげた。
「うん」
「おー、じゃあ一緒に帰ろうぜ」
深雪は顎を引いて、それから隣の男子生徒に視線を送る。深雪の視界の中央に据えられた彼は眉間に皺を寄せて、穴を開けるような勢いでこちらを見ていた。
「えっなに」
深雪は思わず身を引いた。長身の彼は変わらずこちらに無遠慮な視線を送りながら、首を左右に振るう。
「いや、マジで雨音と見分けつかん。白浜キョーダイ似過ぎだろ」
「よく言われる」
「クロ、幼馴染なんだっけ?」
長身のクラスメイトに問われたクロこと黒川夏日は彼に向けて歯を見せて、なぜか誇らしそうな表情を作ってうんうんと頷く。
「そーなの。だからおれはすぐ見分けつくんだぜ」
「よくだまされるのに?」
「やめろアレ。心臓に悪い」
夏日は丸い目を皿のように平らにして、深雪の夕暮れ色に染まった白い顔をにらみつけた。深雪の喉から、春先に降る雨のように柔らかい笑い声が零れる。
「仲良いな」
「おー」
肩に手を回そうとしてきた夏日の腕を弾いて躱す深雪。夏日は大げさによろめいて、よたよたと後退しながら背後に控えていた級友の肩を捕まえようとして、再び躱されて唇を尖らせた。相変わらず夏日は友人に対するスキンシップが多い。大きな犬のようで面白いけれど、でかい男に絡みつかれるのは同じ男としてはどういう印象を持つものなのだろうか。
一般的な男と感覚の違う深雪にはわからないが、気持ち悪いと思われたりしないのだろうか。もっとも、気持ち悪いと思われていたとしても強く拒否はされないから彼は今も過剰なスキンシップを繰り広げてくるのだろうが。
友人ふたりにスキンシップを躱された夏日はいたずらっぽく笑って大きな手で深雪の背中に触れた。完全に油断していた深雪は突然の刺激に反応して背中に電撃を走らせて、背筋を伸ばして夏日に丸い目を向けた。夏日は笑みを深めて、夕日の色に光る白い歯を見せてくる。彼の後方で、クラスメイトがあきれた視線を夏日の背中に向けているのが深雪の視界に映った。
「深雪いこーぜ。じゃあな、吉野」
「じゃあな」
手を振って、吉野と別れる。
昇降口に向かって歩きながら、深雪は空気に声を投げる。
「今日は何部?」
夏日は複数の部活を掛け持ちしていて、その日の気分で違う部活に行っている。昨日は野球部に出たらしい。毎年夏になると、水泳部に出てプールの中で涼んでいる姿をよく見かける。これは中学生の頃から続く夏日の日課だ。先ほどまで夏日と一緒にいた彼はきっと今日参加した部活の部員なのだろう。
「サッカー。おまえは?」
「今日は下塗りが終わったよ。明日から背景塗ってくんだ」
「ふーん」
深雪の返答に興味がなさそうな吐息を返して、夏日はそれきり口を閉じた。興味がないというよりは、返答に困ったのだろう。普段は饒舌でおしゃべりな夏日だが、自分の興味の外にある事柄になると、途端に口下手になるのだ。
会話なく、ふたりで夕日に灼かれた廊下を歩く。隣から、夏日のスリッパが床を擦る間抜けな音が聞こえる。自分の目の高さにある、夏日のしっかりとした形のあご先。ちらりと見やると、目が合った。自然に目が合ったふりをして、そっと彼から視線を外す。
廊下を小走りで追い抜いていく女子生徒。跳ねまわる毬のようなかわいらしい笑い声が深雪の体側をかすめていく。深雪は薄く笑ってそれを見送る。
昇降口に辿り着き、えんじ色のビニールスリッパから茶色い革靴に履き替える。夏日は白地に蛍光グリーンのラインの入った派手なスニーカーを履いている。何かと雑な夏日の割には結構大事にしていて、こまめに洗ったりしているようだ。つま先で地面を叩いて薄く砂埃のついた靴を履き込んでいる夏日。靴箱に触れる夏日の手。節張ってごつごつとした指先。そこから伸びる筋ばった腕。夏日の身体。深雪の視線は、自然と彼の身体に吸い寄せられてしまう。
『気持ち悪い』
不意にあの言葉を思い出して、深雪の心臓が跳ねた。
「深雪?」
夏日が、茶色い目でこちらを見ている。はっとした深雪は首を横に振る。
「夏日、上着なしで寒くないの?」
「運動したばっかだからな。そのうち寒くなったら着る」
快活に笑う夏日。開きっぱなしの昇降口の扉から外の冷気が入り込んできて、深雪の首元を撫でる。反射的に首に巻いた浅緑のマフラーを握りしめると、夏日が手のひらをこちらに差し出してきた。目が合うと、夏日は笑った。差し出された手の意図を理解した深雪は彼の手に紺色のスクールバッグを持たせて、左手にひっかけてもっていたコートを羽織る。前のボタンを閉めてしっかりと着こんでから、夏日に預けていた鞄を受け取る。靴も履き替えて、下校前の身支度を終わらせる。
「ありがとう」
「おー、行こうぜ」
夏日が背中を叩こうとしてきたのを躱して、深雪は小走りで校外へと出た。夏日の広い歩幅にすぐに追いつかれて、ふたりで足元に影を並べながら歩く。特に会話もない。ふたりの耳に響くのは、下校が重なったほかの生徒たちの声と、自分たちの足音だけ。
のんきでマイペースでおしゃべりな夏日が、深雪の前では時折無口になる。きっとほかの友達の前でもこういうことはあるのだろうが、雨音の前で無口になることはほとんどないのだ。これは雨音には見せない、夏日の姿。どうしたって雨音に勝てない深雪の、一つだけ雨音に勝っているところ。喜ばしいことではないのだけれど、男友達としては、深雪の方が雨音よりも上なのだ。




