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雨音と夏日  作者: ねさかなこ
1.深雪と雨音、それと夏日

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8/18

朝の支度

「雨音、おまえな……」


 月曜日。ベッドの中で目覚めた深雪が開口一番に放ったのは、そんな苦い声だった。


「おはよ。深雪が起きるの遅いからだよ」


 白い襟付きシャツに、えんじのチェック柄のズボン。ふたりと夏日が通う高校の男ものの制服を着てベッドサイドから深雪を見下ろす雨音が、からからとガラスの粒みたいな声で笑う。えんじ色の縞模様のネクタイは着用自由なルールなので、雨音は普段つけずに過ごしている。


 深雪は半眼で壁にかけられたシルバーのフレームの時計に目を向けた。現在時刻、早朝六時五分。いつも七時過ぎにまだ眠そうな顔をしながら起きてくる雨音に、この時間の起床を遅いといわれる筋合いはない。


 雨音が薄く笑いながら、


「今日もぼくが深雪だよ」


 そう言って差し出してきたのは、ネクタイと同じ生地で作られたリボンと、えんじ色のチェック柄のプリーツスカート。普段袖を通されることなく雨音の部屋のクローゼットで眠っているそれは、女ものの制服。


 眉間にしわを寄せながら起き上がった深雪は、雨音から制服を奪い取るようにして受け取った。寝起きのぼんやりとした頭で、眼前の“深雪”に向けて恨み言を絞り出す。


「くそ、今日の夕飯に焼き魚出してやるからな」


 焼き魚を食べるのが苦手な雨音は、夕食に焼き魚が出ても頑なに手をつけようとしない。いつも最終的には深雪の小言に負けて文句を言いながら完食するのだが、小骨が刺さった日にはその後しばらく喉を気にしてしんどそうにしている。


「あー、残念。今日もミユキクンはバイトなんだなー」


 嫌いな焼き魚を回避した雨音は、爽やかな笑顔で手をひらひらと振った。

 深雪はパジャマ代わりのグレーのTシャツを脱ぎながら、


「くそ、いやな客に当たれ」


 深雪の力ない暴言を、雨音は浮ついた笑顔で受け止めた。



 男物の制服を着た雨音と女物の制服を着た深雪が揃って一階へ降りると、テーブルにはもう食事が用意されていた。


 深雪が今夜鶏肉と一緒に蒸し焼きにしようと思っていたキャベツと、何かと使えるからと買い置いてあったハムがたっぷりと使われたサラダ。それから卵サンド用にとっておいた卵を焼いたもの。取り分けられた一人分の皿はまあまあなボリュームで、朝ごはんを食べる習慣がないふたりの胃には重い。雨音は露骨に眉間を寄せて、深雪はぼんやりとした頭でメニュー変更を余儀なくされた今日の夕飯のことを考えていた。


「あ、深雪おはよー。いまパンケーキ焼いてるよ。昨日は――」


 のんきに鼻歌なんか歌いながら冷蔵庫に向かっていた母親が、こちらに気がついて振り向いた。


 箪笥にしまってあったらしい花柄のワンピースに薄いグリーンのエプロン、絵に描いたような完璧な朝食、ふたりの子供。母親のデザインした空間に、頭がくらくらするふたり。


 ズボンを履いた雨音に穏やかな笑顔を向けていた母親の視界がスカートを履いた深雪を捉えると一転、両の目尻を吊り上げた。


「雨音、女の子なんだからもうちょっと早く起きてご飯の準備手伝いなさい。それに髪の毛ハネてる。ちゃんとしなさい」


 小言のつぶてを食らって、深雪は無言で隣の雨音に視線を送った。言われてようやくわかるレベルの深雪よりももっと跳ねた髪を、今にもまぶたが閉じそうな顔をしながら手櫛で整えている雨音と目が合った。静かに目配せをする。


「雨音! ほら早く洗面所行ってきなさい!」


 母親の甲高い怒号に叩かれて、深雪は渋々と洗面所の方へ向かった。



 洗面所へ続く扉の奥に深雪の白い背中が消えていくのをぼんやりと見送った雨音は、四人がけのテーブルの、朝食が置かれていない椅子にもそもそと着いた。それから隣に用意されていたマグカップを手にとって、ちょうどよくぬるくなったコーヒー牛乳に口をつける。甘い。


 母親はこちらを向きもせず、「深雪は先にご飯食べちゃって。後で顔洗いなさいね」とか言って母親づらをしてくるので、そのしらじらしさにいらだった雨音は「ぼくいつも朝ごはん食べないんだけど? いらないよ」と突き放した。


 さっさと部屋に帰ってしまおうとコーヒー牛乳を一度に呷った雨音が腰を浮かせると、三段に積まれてバターと蜂蜜が載ったパンケーキを持ってきた母親に肩を抑えられた。まあまあな力加減と彼女の浮かべた笑顔に圧されて、雨音は腰を半分浮かせたまま停止した。


「そうなの? でもせっかく作ったんだから」


 そう言われて、有無を言わさず、再度着席。目の前に置かれた小麦粉の塊にうらめしげな視線を送って、雨音は音を殺してため息をついた。

 先程空にしたコーヒーカップに無言でおかわりのコーヒー牛乳を注がれ、流れるような動きで目の前に置かれたフォークとナイフ。雨音はふたたびため息をついた。


「多いんだけど。雨音とはんぶんこでいい?」


「炭水化物は雨音にはダメ。太っちゃうわ。残していいから」


 鋭い声を返されて、雨音は一瞬面食らって目を見開いた。しかし何も言わずにコーヒー牛乳を一口飲んでパンケーキに手を付け始めた。パンケーキの粉なんかうちになかったはずだから、きっと朝から小麦粉と砂糖とかもろもろを混ぜ合わせて作ったのだろう。そんな手間のかかる料理を作るくらいなら、もう少しいい母親のふりにも手間をかければいいのに。


 胸中で不満を吐きながら雨音がパンケーキを三分の一ほど食べ終えた頃、身だしなみを整えた深雪が寒そうに手のひらをこすり合わせながら洗面所から帰ってきた。雨音の隣に着くと、小さくいただきますをしてから、向かいに座ってサラダを咀嚼している母親を一瞥。雨音の手元のパンケーキに視線を落として「ホットケーキ一口ちょうだい」親鳥からの給餌をまつひな鳥みたいにぱかっと口を開けてこちらに向けてくる。のんきなやつだなあ。


 深雪のぶんを切り分けてやろうとした雨音を、母親は一言で叩き伏せた。


「雨音はダメ! 太るわ」


 彼女の言葉に殴られて、深雪は先ほどの雨音と同じように面食らった顔をした。それからすぐに心なしかしょんぼりとした風体で、もそもそと手前に置かれたサラダに手を付け始めた。


「なんかごめん」


 深雪のために切ったパンケーキを飲み込んでから深雪の薄い耳に小さく耳打ちをすると、深雪は静かに首を横に振った。



 雨音が大量のパンケーキとまだ戦っているのを横目に見ながら、サラダを食べ終えた深雪がガラス製のボウルにフォークを置くと、その動きと音に反応してちらりとこちらを見た雨音と目があった。つらそうな顔をしている。残せばいいのに、雨音はやつれた顔でもう一口パンケーキを口ににねじ込んだ。律儀なやつだなあ。


 深雪は手元のコーヒー牛乳を一口飲んだ。先程の炭水化物発言はどこへやら、無遠慮に入れられた砂糖の甘さで口の中がべたつく。そっと中身の残ったコーヒーカップを置くと、とうに自分のぶんを飲み終えていた雨音にそれを奪われた。一口嚥下(えんげ)して「あっま」思わず口から漏らした雨音に、深雪は苦笑いを抑えながら「おかわり淹れる?」と問う。反射的に頷いて雨音は、すぐに首を横に振った。「いい。それちょうだい」


 そんなふたりのやり取りを尻目に、早々に食事を終えてのんびりとスマートフォンをいじりながらコーヒーを飲んでいた母親がおもむろに口を開いた。


「私、お昼には帰るから」


 彼女の言葉にふたりが同じ動きで頷くと、彼女は拗ねたように唇を尖らせた。どこでかぶれてきたのか外国のドラマみたいな大仰な身振りをしながら「寂しがってくんないの?」という反応に困る発言をしてきたので、深雪は困ったように首をかたげて、隣の雨音はめんどくせえとでも言いたげに目を閉じて眉を寄せた。


 ふたりに対して母親は涼しい顔でコーヒーを一口。ソーサーにカップを置いてから、「まああなた達ももうおっきいもんね」とかなんとか言って一人で納得していた。


 雨音は難しい顔をしながらパンケーキをちまちまと口に運んでいたが、大量のパンケーキに敗北を認めてフォークとナイフを皿に置いた。かちゃん。金のラインがあしらわれた白いボーンチャイナの皿が、金属に叩かれて軽やかな音を立てた。「ごちそうさま」きっちり半分残されたパンケーキの皿を奥へ追いやって、深雪のマグカップに残ったコーヒー牛乳を飲み干した。


「ごちそうさま」


 雨音に続いて深雪もそう言って三人分の空になった食器を重ねながら立ち上がった。重ねた食器の頂に雨音が空にしたマグカップを置く。


 片手に皿の山、もう片手に雨音の残したパンケーキの皿をもちキッチンカウンターの方へと向かう深雪の白い背中。それにちらりと視線を送った母親は、しかしすぐにスマートフォンの画面に目を戻した。


 パンケーキにラップをかけたり食器を食器洗浄機に入れたりとごそごそし始めた深雪。長い爪先でスマートフォンのガラスを叩く母親と忙しく働く彼とを見比べて短く息を吐いた雨音は、テーブルの上にまだ残されていたマグカップやフォークを手にして立ち上がった。


 食器洗浄機の手前でしゃがんでいる深雪へ歩み寄り、キッチンカウンターの上に食器を置くと、食器が鳴らした甲高い音に反応して顔を上げた深雪と目が合う。深雪に食器を手渡すと、無言で受け取って庫内へ並べる。次々に手渡して、最後の一枚。立ち上がる深雪。


 雨音は先程深雪が使ってカウンターに置いたままのラップの箱を手に取った。冷蔵庫の隣の壁に据え付けられたウォールキャビネットにラップを収めようと背伸びする。

 深雪はすらっと伸びている雨音の隣に立ち、冷蔵庫にパンケーキをしまいつつ彼に耳打ちを送る。


「この前父さんから来た手紙しまった?」


 ばたん。強めにウォールキャビネットの扉を閉めた雨音が、背伸びをやめて床に降り立ちながらこちらに冷ややかな視線を送ってきた。彼の視線に押されて、深雪は思わず一歩後ろに引く。


「シュレッダーにかけて捨てたよ。なんか面白いこと書いてあった?」


 こともなげに放たれた雨音の言葉に目を丸く開いて、「読まなかったの?」思わず大きな声が出た。ちらりと母親の方へと視線を送るが、彼女はこちらに一瞥くれてから興味なさげな素振りでふたたびスマートフォンの画面に視線を落とした。


「今度のイベント来てくれって、飛行機のチケット入ってたよ」


「ふぅん。ぼくたちがパスポート持ってないのも知らないヤツに会う価値ある?」


 どうでもいい、とばかりに鋭いため息をついた雨音に、深雪は柔らかく息を吐きながら首を振った。


「……捨てたならいいけど。僕はちゃんとしまったよ」


「隠す必要あるの? それであの人たちが揉めたって本人同士の問題だろ。押しかけられたくなければ住所書かなきゃいいんだし」


 雨音の意見ももっともである。以前父親からの手紙の住所を見た母親が父親のもとに押しかけてトラブルになったらしい。そのせいで、父親からの手紙には母親に自分の個人情報を見せるなとの文面が頻回に登場するようになった。


 雨音は読まずに捨てているようだが、深雪は返事こそしないが毎回きちんと読んでいる。仕事の話やその時滞在している地域の話が多いが、会いたいといった文面がたまに出てくることがある。実際に会いに行ったこともなければ、ここ数年は彼が日本に来ているときに会いに来たこともないのだが。会う気がないならはなからトラブルのもとになる住所など書かなければいいのにという雨音の言い分も理解はできる。


「そうだけどさ……」


 雨音の冷淡な言葉に端切れ悪く返して、深雪はブランデー色の髪をかきあげた。


 ふたりが身支度を済ませて家を出ようとすると、母親に引き止められて弁当を持たされた。深雪が受け取ったそれは、いやに軽い。今朝のサラダの残りだろうか。雨音は露骨に眉間を寄せて、深雪は柔らかく目を細めてそれを受け取った。


 普段は『おまえの隣歩くと目立つんだよ』とかなんとか言って頑なに深雪と家を出る時間をずらしている雨音と一緒に玄関をくぐる。「いってらっしゃい」後ろから母親に手を振られたので小さく振り返す。「いってきます」うつむきながら答えた深雪の横で、雨音は無言のまま振り向きもせずに歩き出している。


 世間一般では当たり前のような母親とのやり取りと雨音の不機嫌さになんとなく少し虚しくなって、深雪は玄関の扉を閉じてから空を仰いだ。口元から、細く長く凍った息を吐く。


「深雪、夏日のとこよってくでしょ? ぼく先行くね」


 そう言い残して、雨音は爽やかに手を振って小走りで行ってしまう。それから十数メートルほど先で立ち止まって息を切らしている自分と同じ軟弱者の背中を尻目に、深雪は隣の家へと向かった。


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