雨音の帰宅
雨音が帰宅したのは、深雪の予想通り二十二時半頃だった。玄関のドアを開ける音に続いて、鍵を閉める音。そして小さな足音が近づいてくる。
足音に気がついた深雪は、読んでいた本に本屋でもらった犬の絵が描かれた栞を挟んでテーブルに置いた。あと数ページで結末だったけれど、残りは明日の朝の楽しみにとっておこう。
「ただいま」
爽やかな声で現れたのは、深雪と同じ顔、深雪によく似た透き通った声。深雪の双子のきょうだいの雨音。
床に荷物とコートを置いた雨音は、バイト先の制服である赤いネクタイを緩めながら深雪に目を向けた。襟元からネクタイを引き抜いて、その隣でテーブルに伏して寝ている母親に気がついた雨音は端正な顔を露骨にしかめてみせた。
「おかえり、深雪」
雨音の服を着た深雪が笑うと、雨音はカフェモカ色のシャツのボタンを片手で器用に外しながら、空いた片手を深雪の方にひらひらと振った。
「お疲れ様、雨音。
めんどくさかったろ、ソイツ」
雨音が目を細めると、上下の長い睫毛が絡まって深雪と同じ紅茶色の虹彩を覆い隠した。
深雪はテーブルに落ちて眠っている蜂蜜色の頭に目をやり、それから自分と同じ姿をした雨音に視線を戻してため息をついた。
「家族写真見せられたよ」
眉を寄せる深雪。深雪の表情とは相対して、雨音は切れ長の目を輝かせながら見開いた。浅いブラウンのシャツを脱ぎながら、自分と同じ顔に鼻先を近づける。予想に反した彼の勢いに、深雪は思わず椅子に座ったまま身を引いた。
「えっ、子ども見たの? いいな〜かわいかったろ」
「でもこの人の子どもだよ」
深雪は横目で蜂蜜色の髪の毛を見やった。
脱いだシャツを椅子の背にかけた雨音は、脱いだときに乱れた黒いインナーシャツの肩を直しながら涼しい顔をしている。
「親の事考えなきゃ子どもはみんなかわいいよ。特にぼくには一生縁のないものだし余計にね」
「ふーん、僕にはわからないな」
「そうだろね」
ため息混じりに細い腕を組む深雪に、雨音は他人事のように適当な相槌を打った。
彼――雨音の身体は男のそれとは違う形をしている。けれども、彼自身が自分を男だと公言しているので、周りも彼をそのように扱う。彼のきょうだいでかつ一緒に暮らしている深雪だって彼のことを男だとか女だとかそういった性別ありきで認識しているわけではない。だから、深雪はこういった会話のときには鈍感になる。
雨音が女性として男性相手に子供を持つことは一生ないであろうことを、もしくは、自分がいつか子供を持つような年になる将来を、ぼんやりと生きている深雪は現実感のある未来としていまいち理解できていないのだ。
「だっておまえ、選ばれなかったもんな」
――また始まった。深雪はため息をついた。『選ばれなかった』と雨音はよく言う。深雪は彼が何をもってそう言うのかの理由を知らないが、いわゆる中二病というやつで、数年後には自分のこの言動を恥じて転げ回るのだろうと思っている。
「おまえ、いい加減に選ばれたとかいうのやめろよ」
深雪が雨音をねめつける。雨音は涼しい顔をして、深雪のクレームを黙殺。
不意に母親がテーブルの上でもぞもぞと身じろぎをしたので、思わずふたりは息を潜めてそちらを見た。しかし起きる気配はない。
雨音は椅子にかけたシャツを再び手に取り、華奢な手をひらひらとさせながら深雪に背を向けた。
「ぼく先シャワー浴びてくるね。おまえまだだろ」
「おまえ雨音の服着ろよ? 僕はもう着ないぞ」
雨音の背中に苦い声をぶつけると、雨音は振り向きもせずに手にしたカフェモカ色のシャツを扇風機の羽みたいに振り回しながら答えた。
「えーしょうがないなあ。ぼくだって着たくないんだけど」
先にシャワーを浴びた雨音に代わってシャワーを終えた深雪がリビングへ戻ると、襟元にフリルがあしらわれたペールブルーのネグリジェに身を包んだ雨音が冷蔵庫の前に立っていた。開け放たれた冷蔵庫の光を横面に受けながら水を飲んでいる。
「おい、冷蔵庫開けっぱなしにするなって」
彼の光を浴びて白い顔に向けて深雪が言うと、素直に冷蔵庫を閉じた雨音がこちらを向いた。子供のように唇を尖らせて渋い顔をしている。
「いいじゃんこのくらい。電気代困ってないだろ」
深雪は風呂上がりでまだ濡れている髪を拭いてから、タオルを首にかけた。それから、キッチンカウンターの方へ歩み寄りながら雨音に歯噛みした。
「部屋があったかいから中が結露するんだよ。気持ち悪いだろ」
「はいはい」
めんどくさいな、とでも言いたげな態度で雨音が相槌をうつ。いつものことだ。深雪は特に気にとめずに雨音がカウンターに置いたコップに手を伸ばした。手で軽く触れて雨音の方へ押すと、それに気が付いた雨音がコップを取った。
「僕にも水ちょうだい」「おー」
深雪の言葉にかぶせ気味に相槌を投げて、雨音は冷蔵庫を開けた。水の入ったボトルを取り出して水を注ぎ、自分と同じサイズの手にそれを持たせる。ボトルを戻して冷蔵庫を閉めた。
「ありがとう」
コップの水を一息に飲み干して、深雪。深雪の手から空のコップを受け取った雨音は、それをシンクに置いた。蛇口をひねり、シンクに置かれていた薄く赤い色がついたワイングラスをすすぐ。グラスの口元についていた口紅が手についたのに気がついて、汚いものに触れたような顔をしてハンドソープのポンプをぽしゅぽしゅと押しながら、雨音が静かに声を放った。
雨音の手のひらにこんもりと泡の山が積み上げられていく。深雪はそれをもったいないなあと思いながら、しかし母親に関わることで雨音に色々いうと面倒な返しがくるので黙って見ないふりをした。
「そういえば、今度またヒカリさんがいっぱい作ったからシロップくれるって。今度はジンジャーエールだよ」
ヒカリさんというのは、雨音が働く喫茶店の店長である。雨音は彼女のことが好きらしく、彼女の気を惹くために色々としているのを深雪は知っている。家族に試飲してもらって感想を聞くと言って定期的にシロップをもらってきたり、今回のように単純におすそ分けをもらったりと、何かと深雪もその恩恵を受けている。ちなみに、「おまえが来ると目立つから」と言われて雨音から喫茶店への出禁をくらっているので、深雪は雨音の想い人には会ったことがない。
「あ、本当? 嬉しいけど、前にもらったのまだ残ってるよ」
深雪が言うと、雨音は眉間を寄せて深雪を見た。
「りんごのやつ? なんで飲まないの?」
「なんかあれ、ちょっとなんか変な後味がして、飲みづらくて。ていうか、雨音も飲めよ。僕にくれたんじゃなくておまえにってくれたんだろ?」
他人事のように言ってくる雨音に渋い声を返すと、雨音は手をひらひらとさせた。
「違うよ。ふたりで飲んでねって。ぼく、店で味見したけど気にならなかったな。ヒカリさんに言っとくね」
「もらったものに文句言ったら悪いだろ。他のは美味しかったし、オレンジのやつとか、いちごのやつとか」
「店で出すやつだからみんなの意見知りたいんだってさ。協力してよ」
「いいけど、なんか申し訳ないな……」
もごもごと口の中で抗議する深雪を黙殺した雨音は、いつもみたいに飄々とした態度でテーブルを顎先で指した。
「ぼくもう寝るけどさ、アレ、あのままにしとくと明日めんどくさいだろ」
雨音の言葉に、深雪は未だかわいらしい寝息を立てて眠っている母親のほうを向く。彼女は泥酔して眠ると大抵のことでは起きない。殴っても起きないのではと思われる程深く眠るため、布団まで移動させることは困難を極める。しかし、以前朝までこの状態で放置したあとには不機嫌たっぷりに嫌味を言われた。うなだれる。
「ああ、運ぼうか」
ふたりで母親の側へ歩み寄る。雨音がテーブルから起こして崩れ落ちないように支えつつ、深雪が椅子を引く。ぐらりと揺れる母親の頭。しかし目が覚める気配はない。ふたりでどうにか椅子から引きずり下ろして、雨音が足を、深雪が腕を掴んで持ち上げた。縄跳びの縄のように体をしならせて、母親の身体が浮く。
「うわおもっ」
思わず溢れた雨音の一言に、深雪は小さく呻いて同意した。重力を受けて開いたドレスの胸元からこぼれそうになっている二つの肉の塊に、刺々しい視線を送る。こいつがなければもう少し軽かったのに。それからゆっくりとかがむ形で母親の身体を地面に付け、掴んでいた手を床に置いた。これから運ぶのになんでいったん置くんだ? とでも言いたげな怪訝な目をこちらに向ける雨音と目を合わせて、口を開く。
「これ、引きずるとドレス引っ掛けるよね」
「うわ、めんどくさ」
そう言って手に持ったままだった母親の足を離した。ごつんと鈍い音がして母親のかかとが地面を打つ。しかし目覚める気配はない。あとであざになったりしないだろうか。母親に気づかれないといいけれど。
ドレスを守るために服を脱がすべきか、それとも何か下に敷くべきか、しばらくふたりとも立ち尽くしてうなだれていたが、突然雨音が「あ」と言って軽い足取りで廊下の奥へ消えた。
取り残された深雪は母親の座っていた椅子を脇に避け、雨音が閉じて出ていったドアを開けて廊下に出る。母親の寝室のドアを開け電気をつけ、彼女を運搬する通路を確保した。リビングに戻ろうとしたところで、寝室の向かいのウォークインクローゼットから出てきた雨音と鉢合わせる。
「これよくない?」
雨音が深雪に差し出したのは、きれいに畳まれたタオルケット。
「おー、最高じゃん」
白地に赤い花柄のタオルケットを雨音から受け取る。このタオルケットも母親が随分と前に買ってそのまましまってあったものだ。タオルケットを雨音から受け取り、母親の体の横に広げる。
再び先ほどと同じように雨音が足、深雪が腕を持ちタオルケットに母親を寝かせた。掴んでいた手を体の横に置いてやる。「よし」深雪が短く息を吐いた。ふたりでタオルケットの両端を持ち、廊下へと進んでいく。
深雪と雨音は、その容姿と同じく体力もよく似ている。非力で体力のないふたりにとって、痩せているとはいえ成人の身体を浮かせて運ぶのは骨が折れる動作だ。廊下を少し進んだだけで息が荒い。苦悶の表情を浮かべながら、深雪がぽつりと呟いた。
「なんか死体運んでるみたいだ」
普段の足で十歩足らずの距離が憎い。まだまだ遠く感じる部屋のドアを睨みつけて、雨音が刺々しい返答をした。
「でもコイツ生きてるんだぜ。引きずっても文句言わないし死体のほうが手間かかんなくてカワイイね」
深雪は何も言わなかった。雨音も返事を求めなかった。暖房の届かない凍った温度の廊下に、ふたりの荒い呼気とのそのそとした重たい足取りの音だけが響く。小刻みなステップで母親の部屋に入り、ベッドの手前に母親が載ったタオルケットを置いた。ふたりして額をうっすら濡らす汗を拭
う。
「あー、冬なのに汗かいちゃった」
「シャワー浴びたとこなのに」
口々に毒づいて、ふうふうと荒い息をしながら母親の身体を持ち上げてベッドに横たわらせ、載せてきたタオルケットをかけてやる。
母親の部屋には、フレームに凝った細工が施されたベッドと、鏡の部分に植物モチーフの金の縁取りがついた鏡台が置かれている。鏡台のペールグリーンの天板の上には化粧品は乗っておらず、代わりにファンシーな見た目にそぐわない無骨なデザインのエアコンのリモコンが乗っている。ちなみに金の取っ手のついた引き出しの中も空っぽである。使いかけの化粧品が数年間放置されていたことに気づいた雨音がすべて捨てたからである。一年程前の話だが、母親はなにも言ってこないので多分気づいていないのだろう。
深雪は鏡台の上のリモコンを手に取り、暖房のボタンを押した。ぴっと高い音が響いて、エアコンの羽が口を開く。
埃っぽくて生ぬるい風がエアコンから吐き出されたのを確認してから、ふたりは目を見合わせた。
「なんかすごいつかれた。もう寝よ」
「うん。おやすみ」




