母親
夜の七時を過ぎた頃、深雪は一人でリビングにいた。ふたりで使うには大きすぎる四人用のテーブルに着き、静かに本を読んでいる。
テーブルには、青い花柄の縁取りが施された白いテーブルクロス。その上に似たようなデザインのティーカップとソーサー。光をはらんだ深雪の目の色によく似た赤い色の紅茶。すでに半分ほどまで読んでいた本は、すでにあと少しで結末というところまで読み進めた。
片手の本に視線を送りながら冷めた紅茶を手に取ろうとして、手のひらにカップの取っ手を引っ掛けた。かちゃん。深雪は慌てて本を置いて手を体に引き寄せた。
幸いと飲みかけの紅茶はこぼれずにカップの中で波打っている。心の中で胸を撫で下ろして、そっとカップを手に取って中身の液体を飲み干した。
この広い家の全ては、深雪の母親の決めたデザインで作られている。床も扉も、テーブルクロスも食器も、彼女のふたりの子どもたちも。ふたりにとっては窮屈で息苦しい、母親のオーダーメイドのこの家に、しかし彼女は寄り付かない。最近では月に一度ほど思い出したように突然顔を出すだけだ。
ゆっくりと深くため息をついた深雪が空のティーセットを持って腰を上げたちょうどその時、遠くから地鳴りのような音が聞こえてきた。車のエンジン音だ。近づいてくる。深雪は眉根を寄せた。
ティーセットを食洗機の中に放り込む。車のエンジン音が止まった。きっと外には、冗談みたいに真っ赤な高級車が停まっているだろう。深雪は冷蔵庫を開けた。
ばたん、と車のドアを閉める音。聞こえはしないが、こつこつとヒールが石畳を叩く音が近づいてくるように錯覚する。深雪は冷蔵庫から惣菜の入った皿を取り出し、キッチンカウンターに並べた。
がちゃん、がちゃ。ドアが次々に開く音がしてリビングに入ってきたのは、冗談みたいなブロンドに染められた髪がよく似合う、冗談みたいな美女だった。
「ただいまあ〜雨音! 急にごめんね〜!」
傷だらけのガラスを擦り合わせたような甲高い声で、女が言った。
ラメが散りばめられた濃い青のドレスに入った深いスリットから、整った形の腿をちらつかせながら大股に近づいてくる。上半身には今どきあまり見ないような毛皮のコートを羽織っているけれど、下半身はこの寒いのにほとんど素足みたいな薄いストッキング一枚だ。何か祝い事でもあったわけでもないだろうに、母親がこうして顔を出すときはいつもこのような派手な格好をしている。彼女の普段の生活が伺い知れるようだ。
雨音の服を着た深雪が、電子レンジに角煮の乗った皿をねじ込みながら振り向く。見慣れた格好をしている母親をぼんやりと視線の中央に置いて、口を開く。
「おかえり、母さん。ご飯今あっためるね」
「ワインあったっけ?」
母親は子供みたいにキッチンカウンターに手を付き、身を乗り出した。ウェーブのかかった長い髪と冗談みたいに大きな胸が、ゆったりと揺れる。
深雪はレンジの中でマイクロ波を浴びて熱を帯び始めた角煮を視界に収めながら答えた。
「うん。でもあと二本しかないかな」
「じゃあ今度いっぱい送るね!」
コートを脱ぎながら踵を返して、流れるような動きでテーブルに着いた母親があどけない表情で笑った。電子レンジが鳴いて角煮が温まったことを知らせる。深雪は足元のヒーターが彼女の体側を温めるように調整して、電子音を鳴らして早く取り出せとせかしてくる角煮をレンジから取り出した。ラップを外し、母親のついたテーブルへ持っていく。
ふたり分の食事をテーブルに並べ、自分の分の水と母親用のワイングラスを持った深雪がテーブルにつく頃には、もう母親は料理を食べ始めていた。
ワイングラスを母親の前に置く。深雪が慣れた手付きでコルクを抜いてグラスにワインを注ぐと、彼女は何も言わずにグラスを手にとって飲み干した。
かたん、と乱暴に返却された空のグラスにもう一杯ワインを注いでやる。
「角煮美味しいわ。雨音また料理上手くなった?」
「そうかな」
素っ気なく答えて、深雪は角煮を一口。先程仕上がりを味見したときには美味しいと思ったはずなのだけれど、今は味を感じない。水を一口。
「これでもう安心してお嫁に出せるわ」
そう言って、冗談みたいに真っ赤な口紅が引かれた口の中にもう一口角煮を放り込んだ。角煮を咀嚼して飲み込む。
「そろそろ彼氏できた? まだかな? 隣の子みたいなイモはだめよ」
冗談めかして笑う母親に、深雪は何も言わなかった。ただ目を細めて、困ったような顔をして首を傾げてみせた。
深雪の母親は、深雪にはよく理解できない価値観に囚われている。過去に何かがあってこうなったのか、それとも生まれつき持った思想なのか深雪に測り知ることはできないが、金と容姿の良さが彼女の価値観の全てになっている。
持って生まれた天性の美貌を駆使して容姿と金に恵まれた男と結婚し、恵まれた容姿の双子のきょうだいを産んだ。深雪はどちらかというと父親に似たようだが、自分の整った顔が嫌いだった。
母親がコントロールして美しく作った、自分の顔。目の前にいるこの女みたいに自分が空っぽのように思えて、鏡を見ると虚しくなる。それに、こんな顔に生まれたって、本当に自分のことを見て欲しい人は深雪のことなんかまるで眼中にないのだ。
「ママね、あの子がいいな。なんだっけ、小学校の時のさ」
彼女の母親としての記憶は、ふたりが小学生のときに止まっている。ふたりが中学生になる年に再婚してふたりを置いて家を出ていったからだ。新しい配偶者にどんな理由を言って子供ふたりを家に放置しているのかは深雪は知らないけれど、血縁関係の保護者がいる設定になっているのだろうか。彼女が家を出てしばらくは週に二回ほど帰ってきていたのだが、最近では月に一度帰ってきたらいい方という有様だ。
「あー、しょうたくんだっけーあのかわいい子! あっでもお家お金なかったかも。じゃあ他の子かな!」
かたん! グラスを叩きつけるように置いた。深雪は黙ってグラスに三杯目のワインを注いだ。母親は無言の‘’雨音‘’を気にした風もなく満たされたグラスを手に取った。
「雨音、まだ男の子のカッコしてるの?」
深雪によく似た形の眉を寄せて三杯目のグラスをあおる。
「僕のこの格好見てもそう思う?」
仰々しく立ち上がった深雪は、わざとらしくその場でくるりと一回転してみせた。たっぷりとした白い生地で作られた膝下丈のサーキュラースカートの裾がふわふわと広がって、裾のレースと中に履き込んだパニエがかわいらしく揺れる。ちなみにこの少女趣味極まりない服も母親の趣味であり、深雪も雨音もこういった飾り気の多い服は好まない。けれど、こういった格好で母親を出迎えないと面倒なクレームがつくのだ。
母親はぎゅっと眉間にしわを寄せて、ラインストーンと偏光ホログラムがきらきらと輝く濃いブルーの爪で深雪のブランデー色の髪を指差した。
「そのボクっていうのやめなさい。髪型だって、女のコなんだからもっと伸ばしなさいよ。伸ばしたらわたしみたいに染めて巻いてあげるわ」
肩より少し上の長さで毛先をざっくりとすいた深雪の髪型は、深雪の容姿が持つ女性らしさと男性らしさをより曖昧にしている。母親はそれが気に入らないようで、いつも雨音を男女のステレオタイプに当てはめて時代遅れもはなはだしい説教を繰り出してくる。
深雪は落ち着いた様子で目尻を下げて、ワイングラスに四杯目の赤い液体を注いだ。
「これは僕のアイデンティティなんだよ」
「知らないわよ、そんなもの。あなたお嫁に行けなかったらどうするの?」
酔いが回ってきたのか顔が赤い母親が、食べるでもなく皿の上のごぼうサラダを箸でつつきながら言った。深雪の眉根が寄る。
「雨音はお嫁に行かないよ」
思わず鋭くなった口調に、言葉を放った深雪自身が淡く目を見開いた。母親は気にしたふうもなく、金色のラメがたっぷりと乗った大きな瞳をぐにゃりと曲げた。
「あ、ボクって言うよりは名前で呼んだほうがかわいいかも」
いまいち会話が噛み合わない。母親とはいつもこうだ。相手が深雪であっても、雨音であってもそれは変わらない。
ゆっくりと目を閉じた深雪は、小さく殺したため息をつきながら椅子を引いた。席につく。
「ねえ、深雪いつ帰ってくるの?」
母親の中では、深雪が外にバイトに出て、家事をやっているのはすべて雨音ということになっている。以前、雨音が外にバイトに出ていることを知った母親に半狂乱で責め立てられたからだ。深雪が趣味で集めた食器や紅茶の缶はその時に八つ当たりにあってすべて破壊されたので、新しく買う気が起きなくなった深雪は諦めて好みに合わない母親のそろえた派手な柄の食器を使っている。
あの時の母親の荒れようは本当に凄まじいものだった。深雪は幸いと物的被害だけで済んだのだが、雨音はむりやりバイトをやめさせられた挙句に一週間ほど軟禁状態にされてろくに食事も与えられずに母親から嫌味や小言で責め続けられたらしい。
深雪はその間家に帰ることを許されず、観光地でもないこのあたりにはホテルなどないため、頭を下げてユリネの世話になった。一週間後にようやく家に帰った時には母親はもうおらず、やつれて死体みたいにぐったりとした雨音がソファに横たわっていたのを覚えている。
その時に何があったのかは雨音が詳しく語らないので知らないが、それ以来雨音はもともと持っていた母親に対する敵意を目に見えて増大させたので、語る気も起きなくなるようなことが起きたのであろうことは予想される。
そんなことがあって以来、雨音がバイトに出ている日には深雪が雨音のふりをして母親を出迎えるのが通例となった。お互いが身の安全を守るためにそうしている。
「今日も二十二時半くらいかな。いつもこのくらいの時間だよ」
壁に掛けられた金の縁取りの時計に視線を送る。時計の針は二十時半を少し過ぎたことを指している。深雪が帰って来るまで、あと二時間。
「そうなの、偉いわ。男の子は稼がなきゃね」
母親は据わってきた目をとろんと歪ませて、笑った。それから綺麗な顔を子供みたいにぎゅっと真ん中に寄せて、ブルーの長い爪先で深雪の両腕を捕まえて揺する。酔っているためか力が強く、爪が食い込んで深雪の白い腕に三日月形のへこみをいくつか作った。
「男の子といえばさあー! ひどいのよ、うちの人!」
「うん」
深雪は落ち着いたそぶりで優しく母親の手をほどいて、彼女の手の届かない距離まで椅子を引いて後退した。母親は気づいたそぶりもなく大仰な手振りを繰り広げながらガラスを擦り合わせたような声を深雪にぶつける。
「お昼にふたりでランチ行ったのよ! あの人ったら私のドレスに派手すぎるとか文句つけるし食べ過ぎとか意地悪なこと言ってきて最悪なの!」
深雪はコップの中身を飲み干して、立ち上がる。母親がテーブルクロスに叩きつけたグラスに五杯目を半分ほど注いだところでボトルが空になった。
母親が乱暴に手元へ引いたグラスから溢れたワインが、テーブルクロスの白い布地にぶどう色の水玉を描く。深雪はゆっくりとまばたきをした。
「歳考えろとか、ありえない!」
きいきいと喚く彼女に背を向けて、空のコップとボトルを持って冷蔵庫へ向かって歩き始めた。その華奢な背中に投げつけられる怒涛のような愚痴を受けながら、冷蔵庫の前で立ち止まる。カウンターに空のコップとワインボトルを置いた。
「だいたいあいつの母親だってブランド物の服ばっか着てるくせに、私が着てると嫌味言ってくるのよ!」
冷蔵庫を開ける。
「あなた働いてないのに無駄遣いばっかりーとか!」
水の入った浄水ボトルを手に取る。
「家事やってるっつーの!」
食卓から響く、グラスの底をテーブルに叩きつける音。
コップに水を注ぐ。
「顔ばっか良くても中身スカスカならクズね! 最低!」
こん! 思わず浄水ボトルを叩きつけるようにテーブルに置いた深雪は、自らが立てたその音の大きさに目を見開いた。横目で母親を視界に入れる。彼女は気にしたふうもなくワイングラスの丸い底を白いテーブルクロスに擦りつけながら据わった目でこちらを見ている。
「あーやだ、ほんとにムカつくわ。ねえおかわりちょうだい」
深雪は無言でかがみ込んだ。食器洗浄機の右側の扉を開けて、新しいワインボトルを手に取る。
水のボトルを冷蔵庫に戻してコップとワインボトルを手に母親のもとに戻ると、先程の愚痴とは対象的にあどけない笑顔を浮かべながらワイングラスをこちらに差し出してきた。
「でも私には天使ちゃんがいるからぁ」
慣れた手付きで本日二個目のコルクを外す。テーブルの下で、ベージュのストッキングに包まれた細い足がぱたぱたと揺れている。そのつま先からは、ドレスと同じ色のペディキュアが透けて見える。
差し出されたままのグラスに六杯目を注ぐと、母親は赤い液体で満たされたグラスを口許に近づけたが、何かに気がついたように目を大きく開くとテーブルに置いた。隣の椅子に置いていた茶色いブランド物のハンドバッグを開く。ピンク色のカバーが付けられたスマートフォンを取り出して、凶器みたいに長い爪の乗った指先でいじり始める。こつ、こつ、と画面のガラスが爪で叩かれる音が聞こえた。
「この前撮った家族写真見る? かわいいのよぉ。今年で四歳と二歳なの」
そうしてこちらに差し向けられた画面を、眉間を狭くしながら覗き込む。画面には、母親と四十代くらいの男性と、まだ小さなふたりの子供。写真館で撮った写真だろうか。深雪に少しだけ似たかわいらしい容貌の子供達は、こちらに笑顔を向けている。
ぱりっとしたスーツを着た子供を膝に載せた母親と、水色のふわふしたドレスを着た小さな子供を抱きかかえた男性。この男性の顔を深雪が見たのは片手で数えられるほどの回数しかない。数年前に彼の姓を戴いたが、実際に会ったことのないこの男を父親として受け入れられるほど深雪達は純真ではなかった。
画面に目を向けたまま喋らない深雪の視界から画面を奪い取り、画面に映る愛しい我が子達に目を落として、母親は唇を尖らせた。
「あいつにばっか似たのよねこの子達。でも顔がかわいいから将来も安心だし、天使みたいな顔見てたらいたずらばっかでも許せるのよ。それにずっと欲しかった女の子! 今から孫が楽しみなの」
目を細めて静かに微笑むと、彼女の顔は深雪によく似ていた。
深雪は何も言わなかった。彼女の染めた髪と同じ蜂蜜色のくせ毛を持った子どもたちの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。日本人離れしたその容姿は、ハーフだかクウォーターだかの父親譲りのようで、両親とも日本人の深雪とは違う父親の血をはっきりと受け継いで見えた。自分たちと同じように、デザインされて作られた子どもたち。このふたりは、自分たちと違って普通の子供でいられるのだろうか。母親に愛されて育つことができるのだろうか。
それから火がついたように次々とかわいい子どもたちの自慢話を始めた母親の声を、深雪は黙って聞いていた。




