いたずら
「挨拶もろくにしないで……ごめんね、ふたりとも」
トイレの方へと消えていった夏日の背中を見送って、ユリネが頭を振って頬を抑えた。
夏日の帰還を待ってしばらく。濡れた手を黒い部屋着の腹で拭いながら夏日が帰ってきた。雨音が彼に向けて柔和に目を細めて、口を開く。
「夏日、ほら、みんな待ってるよ」
深雪がきょとんとして、雨音のほうを見る。彼が珍しく夏日に声をかけたというのもあるけれど、理由はそれだけではない。雨音が、“深雪のふり”をしたのだ。目が合うと、雨音は涼しい顔をして、ゆっくりとしたまばたきをした。深雪も雨音にまばたきを返した。ふたりのいたずらが始まる、秘密の合図。
夏日が、ユリネの隣の空席にどかっと腰を落とした。ユリネが乱暴な仕草を咎める視線を送るが、夏日は気にした風もない顔をして、自分の対面に座った深雪を見た。
「雨音、珍しいな。なんで来たの?」
「珍しい? 夏でもないのにって? いいだろ、別に。ユリネさんに会いたかったんだよ」
雨音のふりをして、深雪は柳眉を寄せて、大仰な手振りで夏日に嚙みついた。夏日も大仰な身振りで肩をすくめて、これ見よがしに「はぁ」と溜息をつく。夏日の隣で、ユリネが「きゃっ」と小さな歓声を上げる。
「雨音冷てー」
夏日が零す。深雪の隣で、雨音がわずかに顔を伏せて笑った。まだ、うまく騙されている。
雨音と深雪は、よく似ている。実の母親ですらふたりの見分けが付かないくらいに。しかし、夏日だけは、ふたりの見分けをつけることができる。
きっとそれは、彼が雨音のことをよく見ているからだ。しかし自分の片割れが常にそばにいるふたりの方がうわてである。ふたりが互いのふりをすれば、しばらくはこうして素直に騙されてくれる。
夏日の祖父がりんごと一緒に送ってきたらしいパウンドケーキ。ひとり分に切り分けられたそれを、深雪は雨音の仕草でフォークを使って几帳面に四角く切って刺す。紅茶の茶葉が練りこまれた断面から、角切りのりんごの欠片がこぼれて落ちた。フォークで刺してそれを拾って、口に入れる。
深雪の隣では、雨音がパウンドケーキを半分に割った。それからさらに半分に割って、口に入れる。深雪がいつもしている食べ方。こぼれた欠片をフォークで刺して、欠片だけ食べる。牛乳がたっぷりと入れられた紅茶を一口。
「あっ」
夏日が、小さな声を漏らした。雨音の眉間にしわが寄ったのを見たらしい。彼は深雪よりも猫舌なのだ。細くした目でじっとふたりをねめつけてくる夏日。雨音と深雪は、目を見合わせて笑った。
ユリネが、急に声を上げた息子に首をかしげる。その隣で、このいたずらの首謀者――雨音に向けて、夏日が唇をへの字に曲げて強い視線を送る。
「また騙したな? おまえ、雨音だろ」
夏日に詰められて、雨音は何も言わずに、ぺろっと赤い舌を出した。深雪はテーブルにもたれて、首を傾けて笑う。それからふたりで視線を交わして、同じ動きで左の袖口を引き上げて手首につけた色違いのラバーバンドを晒した。
「えっ、えっ。あっ、服が、そうだね。あっ」
夏日の横で、ユリネがふたりの間で視線を彷徨わせて、丸い目をしばたかせた。ふたりが互いのふりをしていたことに、ようやく気がついたらしい。容姿はともかく、着ている服は違う。けれど、どちらがどの服を着ていたかなんて、どちらがどちらであるかなんて、誰もあまり気に留めない。雨音が自分のことを深雪だと言えば、それだけですぐに、誰もが騙されてしまうのだ。それに騙されないのは、この世界にただ一人。“雨音”片方だけに執着している夏日だけ。
「心臓に悪いからやめろよ、それ」
そう言って、夏日は皿の上のパウンドケーキをフォークで突き刺した。持ち上げて、大きな一口。一撃でパウンドケーキを半分以上削って、もぐもぐと咀嚼する。頬がまんまるに膨らんで、まるでリスのようだ。
「あ、そうだ。来月分のお金払うね」
なんの脈絡もなく、はたと思い出したようにユリネが言って、軽やかな動きで席を立った。壁際に置かれたラックの方へと向かうユリネの背中に、雨音がぼんやりと返事を投げる。
「あっ、はい」
「ユリネさん」「払うからね」
真っすぐにこちらを見つめ返すユリネの圧に押されて、深雪は開いた口をつぐんだ。夏日は全体的に父親似なのだが、目元だけはユリネによく似ている。きっと深雪は、真っすぐなこの丸い瞳に弱いのだ。
ユリネから来月分の夏日の食費を受け取る。ちょうどポケット付きの服を着ていた深雪が封筒を胸元にしまう。白地に紺のボーダー模様が入ったティーカップに口をつけて、深雪は自分のはす向かいにいる夏日に視線をやった。
「夏日、次いつくるの?」
「明日」
「明日は会社の人とご飯行くんでしょ」
ユリネの声に背中を叩かれて、夏日は丸い瞳の中で虹彩をくるりと回した。
当たり前だが、高校生でバイトもしていない夏日は属している会社もない。ユリネの言う“会社”というのは、夏日の亡き父が友人と立ち上げた会社のことである。小さなころから父のもとで働くと息まいていた夏日だ。
父亡きあとも会社との交友は続いていて、定期的に食事がてら教育などをされているらしい。将来のことについて特に何も考えていない深雪たちにとっては空の上のことのように遠い世界を、夏日は少しづつ歩んでいる。
「あー……じゃあ、明後日」
「明後日は……雨音の日だね」
深雪が雨音に視線を向けると、雨音は穏やかな表情を浮かべて夏日を見た。夏日の丸い目がさらに丸く開かれて、その中でこげ茶色の虹彩が揺れる。
「じゃあピーマンの佃煮と、トマトサラダと、じゃがいも入りの味噌汁作ろうかな」
次いで放たれた雨音の言葉に、夏日はまだあどけなさの残る造作をきゅっと真ん中に寄せて天を仰いだ。
「地獄」
「あはは」
深雪と雨音が、同じ声で同時に笑う。ガラスの粒が跳ねるような、春先に降る雨のような声。
軽やかな音で揺れる空気はしかし、突然鳴り響いた電話のけたたましい着信音に切り裂かれて一転。引き絞られた弓のように静まり返った。ふたりの笑顔が、凍りついた表情へと変わる。
雨音がテーブルに置いたスマートフォンが、鳴っている。派手な音でその存在をアピールするような着信音。雨音はため息をついて、シルバーの筐体を深雪の腕に押し付けて寄越した。深雪は雨音の手を押しのけて、彼の紅茶色の瞳を睨む。
「は? なんで僕が? おまえが出ろよ」
「前回はぼくが“雨音”だったろ。今日はおまえだよ。ていうか今日ぼく、バイトだし」
眉間をぎゅっと縮めて、雨音が静かな声で言った。再度深雪の腕にいまだに派手な音をかき鳴らし続けているスマートフォンを押し付ける。
深雪は静かに息を吐いて、雨音の手からそれを受け取った。ユリネに向けて軽く頭を下げてから、『応答』のボタンに触れて、耳に当てる。
「ああ、もしもし、母さん?」
深雪が声を放った瞬間、夏日の目が見開かれた。隣で雨音が吹き出したのを、深雪は肘で軽く小突いて嗜める。いつもは肘の返報があるけれど、今回に限ってはない。深雪以外の誰もが、息をひそめるようにして深雪の様子を伺う。
「ああ、うん。うん。深雪は今日バイト。今隣にいるけど代わる?」
雨音が、露骨に嫌そうな顔をした。電話口から甲高い女の声がする。深雪は苦笑いを浮かべて、“雨音の声”で会話を続けた。
「うん。今日は残りものしかないよ。ああ、うん。……待ってる」
電話を切る。深いため息。
「おい深雪、雨音のふりするなって。どうせあのヒトにはわかんないんだからさ。わかってても心臓に悪いんだよそれ」
夏日の言う通り、雨音のふりなんかしなくても、彼らの母親には雨音と深雪の見分けはつかない。けれど、いきなりなった電話に『雨音になれ』と言われて対応して、深雪は無意識に“雨音”になってしまった。覚悟が決まったうえで会う対面の時はそうでもないのだが、電話に出るといつもそうだ。深雪自身だって自分のこの対応に呆れている。
長ったらしいクレームをつけてくる夏日にただ死んだ目を向けるだけで、深雪は返事をしなかった。




