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雨音と夏日  作者: ねさかなこ
1.深雪と雨音、それと夏日

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ふたりの秘密

 深雪は夏日が好きだ。彼に対する気持ちを自覚したきっかけはあるのだけれど、彼を好きになった理由は、きっとない。いつの間にか好きになっていて、小さなきっかけによって自覚させられた。ただ、それだけの事。けれどこの恋は叶わないのだ。深雪が夏日を想うように、夏日が雨音を想い続けている限りは。


 生き物の気配が乏しい夜は、くたびれた人間の心を苛む。真っ黒に沈黙した夜は、ひとりでいる人間の心を押しつぶすようにひどく重たい。


 ぎし、ぎし、ぎし。鋭く冷える冬の夜の空気を割るように、一階から二階に続く螺旋階段が軋む。ぎし。雨音とおそろいの黒いスリッパが踏みつけてたわませるのは、廊下に張られたクリーム色の板。


 深雪の華奢な背中がレースのカーテンから差す月明りに照らされて、暗闇を彷徨う幽霊のように揺れる。深雪の足は、自室の扉を通り過ぎた。そのまま進んで、雨音の部屋の前で止まる。深雪の白い手が、ドアノブを掴んだ。


 ドアを開ける。蝶番の軋む音に反応して、部屋の一番奥に置かれたベッドの上で布団の塊がもぞりとうごめいた。


「みゆき……」


 雨音が、寝ぼけた声で名前を呼ぶ。深雪は何も答えなかった。ベッドサイドまで歩み寄り、生気のない顔で雨音を見下ろす。


 薄く開いた目で深雪を見上げた雨音は、何も言わずに掛け布団の端をめくり上げた。深雪は布団に潜り込んで、雨音の背中に腕を回す。雨音の頭に自分の薄い胸を押し付けて、服の裾から手を入れて、手のひらで雨音の体温を感じる。雨音の匂いがする。


 なんだか自分が欠けていて、不完全なもののような気がする。いつも漠然とそんな気持ちを抱えて生きているけれど、それを特に強く実感するような日がある。そんな日には、深雪は雨音のベッドに潜り込む。ふたりで抱き合って眠ると、ひとつになって、自分が完璧な“雨音”になったような気がして、安心して眠れる。


 そんな気持ちを抱えているのは深雪だけではないようで、時折、雨音も深雪のベッドに潜り込んでくることがある。そんな日には深雪も黙って彼を受け入れて、静かに抱き合いながら夜を超えるのだ。


 これは、ふたりだけの秘密。高校生にもなって、ほとんど大人のきょうだいが、夜中に抱き合って眠るなんて。雨音と深雪の、誰にも言えない、ふたりだけの秘密。



 日曜日の朝。昨夜薄く積もった雪が世界の音をうっすらと吸収して、あたりは死んだように静かだ。ひやりと冷たい吸音材に二対の足跡を点々と付けてきた深雪と雨音は、夏日の家の玄関前に立っていた。黒いボタンを押して、チャイムを鳴らす。


 数秒待つ。ドアの向こうから足音。茶色い木目に塗られた扉が、軋んだ音を立てて開かれた。


 現れたのは、小柄な女性――夏日の母、ユリネだ。白い起毛素材のワンピースの上にネイビーブルーのエプロン。いつも通りの格好をしたユリネは夏日によく似た丸い目を細めて、手前にいる雨音に向けて微笑みかけた。


「ごめんね深雪くん、わざわざ来てもらっちゃって。夏日にりんご任すと雑にするでしょう?」


 声をかけられた雨音は目を丸くして、それからはにかむ。左手首につけた水色のラバーバンドを見せつけるように、彼女の眼前へと持ち上げる。


「あ、ぼく雨音です」


「あれぇ、ごめんね雨音くん」


「こんにちは」


 雨音の後ろ、ちょうどユリネの死角から、深雪の笑顔が顔を出した。


「ふたりとも、上がっていかない? あのね、一緒に送ってもらったパウンドケーキがあるの。みんなで食べよう」


「わあ、嬉しい」


 深雪と雨音が、同時に高い声を上げた。

 うふふ、とおっとりした声で笑うユリネに促されて、ふたりで玄関を上がる。壁に掛けられた、いつだったかに深雪が描いて贈った白い犬の絵が掛けられた廊下を進んで、こげ茶色の板が張られたリビングへ入る。床板と同じ色味の板張りの壁はユリネが選んだらしい。強すぎない照度でリビングを照らす照明と相まって、喫茶店のような雰囲気がある。


 わが子をきちんと大切にする母親がいるこの空間が、小さい頃の深雪はうらやましくて仕方がなかった。今もうらやましい気持ちは多少なりともあるけれど、昔ほどそれは強くない。彼女は夏日の母親であって、深雪の母親ではないのだ。身体の成長とともにそれを自覚するのにつれて、だんだんと“母親”を求める気持ちは薄れていった。それは深雪が自立しからではなく、きっと、別の依存先を見つけたから。


「夏日ー! 起きて! ふたりとも来たよ!」


 階上へ向けて、ユリネが大きな声で呼びかける。二階から、ふにゃふにゃとした夏日の声が落ちてくる。夏日は朝が弱い。それに、土日は昼までずっと眠っているらしい。平日にグラウンドで暴れて蓄積した疲労を回復させるのには、長時間の睡眠が必要なのだろう。しばし待っても、彼が部屋を出た気配はなかった。


 あきれた口調でもう一度夏日を呼んで、ふうっと息を吐いて台所に戻ったユリネと三人でケーキと紅茶の準備を始める。ほとんど準備が終わったころにようやく、ぶすくれた顔つきの夏日が尻を掻きながら降りてきた。


「夏日っ、本当にだらしないんだから」


 ユリネが嘆息交じりに言う。深雪は苦笑いをして、雨音は彼を鼻で笑った。


「雨音、笑ってんなよ」


「そうだよ。朝弱いのはおまえもだろ」


 紅茶のパックが入ったケースを持っている雨音のわき腹を、フォークを持った深雪が肘で小突いた。「ぅぐっ」雨音に強めに小突き返されて、深雪は濁った声をあげて前かがみの姿勢を取る。

 夏日は三人が座ったテーブルを通り過ぎて、トイレの方へと消えていった。



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