不機嫌
シャワーを浴び終えた雨音と夕食を仕上げて、三人は食卓に着いた。夏日の向かいに深雪。深雪の隣に雨音。雨音はいつも、夏日から一番離れた席に着く。テーブルには、つやつやに炊けた白米。海老フライと千切りにしたキャベツが乗った皿と味噌汁の入った椀。
「米うめぇ」
家にある一番大きな茶碗に山のように盛られた白米をかきこむ夏日。真冬だというのに彼は半袖のシャツを着ていて、その袖口からは浅く焼けた腕が伸びている。腕に浮いた筋肉の筋が、夏日の腕が動くのに合わせてうごめく。腕の向こうに見える彼の浮き出た鎖骨と、がっしりとした顎先。
深雪はうごめく彼の身体を視界に入れて、海老フライを齧った。深雪は夏日に、彼が雨音に向けるのと同じ目を向けている。
不意に、夏日の黒い虹彩が、こちらに向けられた。目が合う。深雪はわずかに身体を跳ねさせて、上下の長いまつげを触れ合わせた。目を細めて、細長い爪の生えた指先で自分の顎先を指さす。
「夏日、米ついてる」
「んぉあ、ホントだ」
気の抜けた返事をしながら顎についた米粒をとった夏日を、雨音が鼻で笑った。
「ガキみたい」
「うるせ」
「雨音」
雨音の暴言を、深雪が咎める。ほとんど一心同体のように育った深雪に対してはともかく、雨音は他者に対して露骨に攻撃的な態度を取ることはあまりない。それなのに、なぜか雨音は、夏日にだけは攻撃的な態度をとる。
当の夏日はそれを全く気にしていない――というより、それでもなお、雨音に対して他者と違う目を向けている。それがなぜなのかは、深雪にはわからないが。
雨音はちらりと深雪に目を向けて、夏日に視線を戻す。眉間にしわを寄せて、茶碗をテーブルに置いた。氷と麦茶の入ったコップを手に取りながら、口を開く。
「おまえ明日も来るの?」
「おう。明日もかーさん夜勤だって」
素直に顎を引いた夏日に、雨音は苦いものを嚙んだような顔をした。手に取ったコップの中身を飲まずに、再度テーブルに置く。
「来んなよ。鬱陶しい」
「でも来たら飯くれるじゃん。ツンデレ?」
「うざいな。だっておまえ、腹減った腹減ったってうるさいもん」
「だって腹減るだろ。成長期なんだから。ところで明日何?」
雨音のちくちくとした言葉なんか気にしたふうもなく会話を続ける夏日に、雨音はあきれたようにため息の交ざった返答をする。基本的に口の強い雨音の方が夏日のしつこさに勝つことが多いのだけれど、今回は言葉を返すのに疲れたらしい。夏日のしつこさの勝利である。
「餃子」
「いぇーい」
大げさに揺れながら歓喜する夏日を尻目に、深雪は口元を緩ませながら雨音の方を見る。
「雨音、本当にひき肉料理好きだよね」
雨音は夜にバイトをしているので深雪の方が多めに負担をしているけれど、家事はふたりで分担してこなしている。料理もそのうちの一つで、深雪はいろいろな料理を食べたいので結構なんでも作るのだけれど、ひき肉料理だけは作らない。なぜかというと、雨音が料理当番の日にはほとんど毎回何かしらのひき肉料理を作るからである。ちなみに前回がミートボールで、その前はメンチカツ。さらにその前は焼売だった。
エビフライを咀嚼していた雨音は深雪に視線を返して、嚥下する。こくりと顎を引いてから冷たいお茶を一口飲んで、口を開く。
「ひき肉こねるの楽しいんだよ」
「まあ、わかるけど」
深雪は頷いて、湯気が消えてぬるくなったマグカップから麦茶を一口。いきなり夏日がこちらに身を乗り出してきて、黒い頭の接近に驚いた深雪は麦茶を少しこぼした。
「なー深雪、今度おれ春巻き食べたい」
「うーん。春巻きめんどくさいんだよね……」
カーキ色の服の胸元についた水滴を指先で擦りながら、深雪。どうせ夜には洗濯機で洗うし、麦茶ならシミにもならない。けれど、なんとなく拭かなければならないような気になるのは性分である。指先でしばらく麦茶を揉んでから顔を上げると、唇を尖らせた夏日がこちらを見ていた。
「いーじゃん! おれ、おまえの春巻き好きなんだよ」
素直に言われると、悪い気はしないのだ。自然と口元が緩むのを抑えながら、拗ねたような調子で声を落とす。
「まあいいけど……」
「深雪チョロいな」
「雨音うるさい」
隣で煽ってくる雨音のわき腹を肘で小突くと、結構な勢いで肘の返報が来た。からからと笑う雨音の声を頭上に浴びながら、深雪は濁った悲鳴を上げてテーブルに覆いかぶさるようにして身体を折った。深雪はいつだって、雨音には勝てないのだ。
*
「ごちそうさま。うまかったよ」
乾いた音を鳴らして手を合わせる夏日。深雪は「うん」と頷いて返す。雨音が眉をひそめて、夏日を棘のある言葉で刺す。
「夏日、片付けは手伝えよ」
「おう」
各々手分けをして食器を積み上げて、山を三つ作る。雨音がそれをひとつ持って、キッチンカウンターの向こうに消えた。深雪が残った食器の山を持とうとしたところで、夏日の骨ばった手のひらが深雪の腕を捕まえた。
「うわっ」
深雪の悲鳴。反射的に手を引こうとしたが叶わず、強い力で夏日の元へ寄せられる。手首に触れる夏日の手のひらが妙に熱くて、それが自分と彼が違う個体なのだということを強く意識させられる。深雪は脈拍の高まりを気取られないように、そっと目を閉じる。自分が夏日の手の熱を感じているように、夏日も深雪の手の冷たさを感じているだろうか。
「うわ腕ほっそ。カルシウム足りてる?」
深雪の軟弱な骨格の手首を余裕で掴む夏日の大きな手。その指先で、無遠慮に手首を握ったり緩めたり、いじりまわしてくる。深雪の低い体温と、夏日の体温が混ざり始めた。自分の身体の境目がわからなくなってしまいそうだ。胸の中が沸く。深雪の脳の奥で、よくわからない電気信号がちかちかと光る。
「急に何? 僕はこれがちょうどいい体型なの。ていうか、離せ」
腕を身体に引き寄せるようにして引くが、夏日の手は離れてくれず、強く引いた反動で夏日の指の節が深雪の鎖骨を撫でた。思いもしなかった刺激に背筋が粟立つ。反射的に力を緩めると、その手はさらに強く引かれて、テーブル越しの綱引きに負けた深雪は自由な方の手をテーブルの縁についた。
「おまえがこれなら雨音、もっとやべーよな」
深雪にしか聞こえないような声量で、夏日がひとりごとのように声を吐く。深雪の身体に向けられた夏日の目が、“雨音”を見ている。深雪は下唇を歯で触って、夏日の手を振りほどくように、手を振った。
「知らん、離せ」
しかし、夏日の手はそう簡単に離れてはくれない。童顔をいたずらっぽくゆがめて、夏日は腕を振る深雪の手首を掴んだまま、彼の動きに合わせて身体を揺らす。――また始まった。夏日はいつも、こうして突然じゃれついてくる。キッチンカウンターの方へ目を向けると、食洗器内のきれいな食器を取り出している雨音の冷たい視線が深雪の頬に刺さった。
深雪とのじゃれあいに飽きたのか、突然、夏日が深雪の腕を開放した。嘆息してテーブルの上の食器を取ろうとした深雪の腕を、夏日が乱暴に払う。
「いてっ」
「おれが持ってくの!」
テーブルの上の食器を、夏日が奪うように手に取った。それから両手に一山ずつ食器の山を持って、カウンターの向こうに屈んで食洗機に食器を入れている雨音の元へと運んで行った。
こちらへ近づいてきた夏日の姿を捉えた雨音が、作業を中断して立ち上がる。そのまま風呂場の方へと消えていく雨音の背中を見送って、深雪はため息をつきながら夏日に声をかけた。
「手伝うよ」
キッチンカウンターの奥で、ふたりで隣り合って、屈む。台所作業中に足元を温めるように設置した暖房の熱気を背中に浴びながら、カウンターの上に積まれた食器を交互に入れていく。
隣から、夏日の匂いがする。おそらく、整髪料かなにかと体臭の混ざった匂い。日向の散歩道のような、爽やかではないけれど、明るくて朴訥で、はつらつとした匂い。脳の芯が痺れるようで、深雪は思わず立ち上がって、夏日から距離をとった。
「あ、深雪」
足元から声をかけられて、一歩後ろへ引く。顎を引いて彼の顔を見下ろすと、彼は屈んだ姿勢のまま顔だけをこちらへ向けていた。
「じいちゃんがりんご送ってくるんだって。深雪にも持ってけってかーさんが」
「本当? 嬉しいな」
深雪がはにかむと、夏日は、変な顔をした。ぼんやりと開いた目、半開きの口、焼けた頬に薄くさした朱。深雪にはわかる。彼は今、深雪を通して雨音を見ている。
そっと息を吐いて、目を伏せた。胸の中が、ぬかるみのようになる。ここ数年、深雪はこのぬかるみに足を取られたまま抜け出せないでいる。抜け出す気もないのかもしれないけれど。
食洗機を稼働させて深雪と夏日が椅子についたところで、風呂場の方から雨音が戻ってきた。眉根を寄せて、不機嫌そうな表情を浮かべて深雪の隣に腰を下ろす。への字に曲げられた口の端に、何か白いものがついている。
テーブルの真ん中にあるティッシュを取り、深雪が雨音に差し出した。深雪と同じ造作の目を丸くして、雨音がそれを受け取る。「歯磨き粉」深雪が一言。雨音は表情を変えずに、口元についた歯磨き粉を拭って、丸めたティッシュをテーブルに置いた。
いつも通りのふたりのやり取りを見ていた夏日が、おもむろに口を開く。
「なー雨音」
「深雪に言って」
雨音は夏日のほうを見もせずに、ぴしゃりと一言。「おー」雨音に声を遮られた夏日は気の抜けた返事をして、何事もなかったかのように顔ごと視線を深雪に向けた。
「深雪ぃ」
「何?」
「今度シャツのボタンつけて。かーさん、頼んだのにやってくんねーの」
「ユリネさん忙しいんだから、あんまり手を煩わせるなよ。見ててあげるから自分でやりなよ」
深雪が溜息をついた。夏日は素直に頷く。
「おう。じゃあ今度持ってくるわ」
「うん」
ちらりと雨音に視線を送ると、彼はつまらなそうな顔つきでこちらを見ていた。数秒、無言で視線を交わす。先に目を逸らしたのは、雨音だった。
聞こえよがしに溜息をついて、雨音がテーブルに手をつく。立ち上がる。
「深雪、ぼく、先に部屋戻るね」
「うん」
「おやすみー」
雨音に向けてかわいらしく大きな手を振った夏日を無視して、雨音は白い板張りの螺旋階段を登って二階の自室へと消えていった。二階からドアの開閉音が聞こえたのを合図に、深雪は溜息をついて、夏日に顔を寄せてささやく。
「夏日、雨音になんかした?」
夏日は大仰な動きでぶんぶんと首を左右に振った。
「知らんよ。今日はアレだろ、エビのやつあたり」
「海老食べたいって言ったのあいつなのに?」
「雨音わがままだもんな」
そう言ってかかかと笑って、夏日がコップを手に取る。コップに注がれた麦茶を一口。喉の中心に浮き出た喉仏が、彼の嚥下に合わせて上下する。深雪よりも格段に大きい節ばった指先で掴んだコップはまるで、ままごと用のおもちゃのようだ。ネイルベッドぎりぎりのラインに切り揃えられた四角い爪に、薄い唇。短いまつ毛がたくさん生えそろった、特徴的な丸い目。深雪の好きな夏日の身体。深雪は彼から目を逸らして、自分の手元にあるコップに視線を固定した。
『気持ち悪いよ。友達だと思ってたのに、そんな目で見られてるとか』
小学生の頃だっただろうか。深雪のような性的指向を持つ者たちについての授業があった際に、そんなことを言っていた男子生徒がいた。そのころには自分の指向にうっすらと気づいていた深雪は、彼の言葉に心臓を深く刺された。深雪の脳裏にこびりつく、消えない言葉。
『騙された気分だ』
“大切な友達”を、深雪は裏切り続けている。




