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雨音と夏日  作者: ねさかなこ
1.深雪と雨音、それと夏日

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2/18

雨音と深雪


 深雪の足元で、ヒーターがごうごうと熱い空気を吐き出している。キッチンに立つ深雪の手には、さくら色の殻をまとった海老。白いスチロールのトレイに雑魚寝させられていたエビは、深雪の手によって裸に剥かれてトレイに整然と並べられていく。


 特に祝い事でもないけれど、少し奮発ふんぱつして買った頭付きの立派な海老。せっかくの頭付きだけれど、深雪はいつも、頭も取ってしまう。雨音が海老の頭を異様に嫌うのだ。海老のチャームポイントの尻尾まできれいに取って、深雪はトレイに裸の海老を並べていく。


 ――突然、深雪の左肩に衝撃が走る。左耳に生暖かい吐息が掛かって、くすぐったくて深雪は身をよじる。


「なー深雪。それ今から何になんの?」


 深雪の薄い耳のすぐそばで揺れる、真夏の灼けたアスファルトにようにざらついた低い声。肌あたりの心地良い声に脳の芯を揺らされて、深雪は強く目を閉じた。心臓に悪い。脈を整えるように、ゆっくりと息を吐く。それから、自分の左目のすぐそばにあるこんがりと焼けた顔を横目で睨みつけた。 


「エビフライ。重い。手伝ってよ」


 矢継ぎ早に言うと、肩の重荷が、逃げるようにすっと引く。深雪のブランデー色の髪が、整髪料をつけた夏日の短い髪に絡まって揺れる。


「ヤダ」


 子どもみたいな短い返答。深雪から離れた位置に立ってにーっと歯を見せて口角を上げて見せる夏日。表情まで子どものようだ。

 深雪は首を傾けて、手に持っていた半裸の海老をトレイに置く。


「ただ飯喰らい」


 子どもみたいに笑う夏日に深雪が苦言を吐くと、夏日は拗ねたように唇を尖らせた。


「ただじゃねーもん」


「おまえは金払ってないだろう」


 そう。深雪たちは無賃で彼に飯を食わせているわけではない。深雪の家の隣家からこうして頻繁にやって来ては、夕食を食べて帰る夏日の野良猫みたいな行動の始末は、彼の母親が深雪に食事代を払うことでつけている。夏日の母親は深雪たちにとっても血はつながっていないが、母親のように親しい存在だ。だから夏日ひとりの食費くらい別にいいのだけれど、彼女が払うといって聞かなかったため、現在はおとなしく受け取っている。


 深雪に正論で殴られた夏日はしょんぼりとした風体で横幅の広い肩を落として、キッチンの真ん中に置かれた椅子についた。


 深雪の目の前で椅子をぎこぎこと行儀悪く揺らし始めた夏日を見て、深雪はため息をつく。再び海老を手に取った。海老を三尾ほど裸にしたところで、いつのまにか椅子を暴れさせるのをやめてこちらを見ていた夏日が口を開いた。


「なー雨音は」「そろそろ帰ってくるよ。明日の買い物して帰るんだって」


 深雪は夏日の声を遮るように、声を被せた。


「おれまだなんも聞いてないけど」


 しわくちゃのおじいちゃんみたいな顔をして苦い声を吐く彼を無視して、深雪は海老の殻を剥く。


 深雪の予想と夏日の問いの中身は合っていたようだ。椅子に座ったまま口を閉じて、夏日はスマートフォンをいじり始めた。深雪もそれ以上は触れずに、手元の作業に集中しようとした。


 ちょうどそのとき、玄関の方から、ドアが開く音が聞こえてきた。小さな足音が、近づいてくる。雨音が帰ってきたのだろう。玄関の方へ視線を吸われた夏日を見て、深雪はゆっくりとまばたきをした。


「ただいまー」


 涼やかな声を伴って、リビングの扉が開く。扉の奥から現れたのは、深雪と瓜二つの顔。深雪と同じ長いまつ毛に、ブランデー色の髪。不健康すれすれの細い身体。中身の詰まった青いエコバックを片手に、器用な手つきで濃灰色のコートを脱ぎながら入ってきた雨音。雨音は夏日の姿を捉えると、柳眉を寄せて顔いっぱいに不快感をあらわした。


「うわ、夏日」


「うわって何?」


 雨音の吐いた声に、夏日は同じ調子の声を返す。雨音は浅く長い溜息をつきながら彼を無視して、アイランドキッチンの奥にいる深雪の方へ歩み寄る。


「おかえり、雨音」


 深雪は雨音に向かって目を細めて、それから、自分が今手にしているものを見て、声だけで雨音を制止した。


「あっ待って、海老が」


 美味しい海産物の名前を聞いた雨音は、表情を凍らせてぴたりと足を止めた。それから苦い顔をして、キッチンカウンターに中身の入った買い物袋を置く。カウンターの手前に置かれた青い革張りのバーチェアに投げ捨てるような素早さでコートを置いて、すぐに深雪から離れる。四脚ある椅子の、夏日の対角に腰を落とした。


 雨音の一連の様子を見ていた夏日は、キッチンから顔をそむけて壁際を見つめている彼の横顔に向けて口角をあげた。テーブルに身を乗り出す。夏日の接近に気が付いた雨音は大げさにのけぞって、彼の黒い頭から距離をとった。


「おまえ、まだ海老ムリなの?」


 夏日の囁き声に、雨音は細い眉を寄せた。切れ長の瞳で夏日の丸い目を睨む。


「うるさいな。おまえのせいだろ」


「セミって言ったから?」


 三人が小学生の頃、夏日が蝉の幼虫を見て、「エビみてー」と言ったらしい。それ以来、雨音は殻付きの海老を見るとそれを思い出すようで、食べられなくなった。しかし、厄介なことに海老自体は好きなのだ。面倒な嗜好ではあるが、深雪が丁寧に処理をすれば食べられるので、よく深雪は海老料理を作る。深雪にとってのたったひとりの家族、雨音のために。


「そうだよ。バカ」


「口悪ぃな」


「いいかげん自分ちで飯食えよ」


「うるせえな。ひとりで食うの寂しいんだよ」


 拗ねたように言う夏日。雨音のための海老の処理が終わった深雪は、雨音が置いた買い物袋の中身を捌きながらそっとため息をつく。夏日がこれだけふたりの家に通い詰めるのは、きっと“寂しいから”なんていう、かわいい理由だけではないのだ。深雪はそれを知っている。


「じゃあせめて手伝えよ」


 雨音の言葉に、夏日は渋い顔をして首を振った。


「ヤダよ。だって、唐揚げぶちまけて怒られたもん」


 ふたりの小競り合いを面白く聞いていた深雪は、思わず吹き出した。作業の手を止めて、キッチンカウンターの奥からふたりの会話に割って入る。


「それいつだっけ?」


「三年くらい前?」


 真っ黒な瞳を天井に向けて、夏日。深雪も同じように天井に虹彩を向けて、黒目を左右に泳がせる。


「三年……中二くらい? そんな前だった?」


「そんなもんだったよ。ようやく料理慣れた頃だったし。――ねえ深雪、まだ掛かるよね?」


 矢継ぎ早に喋りながら、雨音が白いワイシャツのボタンに手をかける。

 夏日の目が、雨音の首筋に吸い込まれる。それから、金魚のように宙をふわふわと彷徨う。雨音の細い指が、ボタンをひとつ、はずした。夏日の目が、動く。


「雨音、そこで脱ぐな」


 深雪の鋭い声。雨音は深雪に細い目を向けて、彼を嗤うように息を吐いた。


「なんで?」


 深雪は何も答えなかった。そっと雨音から視線を外すと、気まずそうにしている夏日と目が合う。逸らされた。ため息をつく。


「ぼくの身体が男じゃないから?」


 笑いながら、雨音がボタンをもうひとつ外した。開いた襟を両手で広げて、深雪に向かって薄く浮いた鎖骨を見せつけてくる。夏日の視線が、揺らぐ。深雪は目を閉じた。下唇を軽く歯で触って、それからゆっくりと、雨音を諭すように、咎める。


「……雨音。おまえと僕は良くても、夏日には良くないよ」


「そうだね。おまえにも良くないね」


 雨音は深雪に向かってからからとガラスの粒が跳ねるような声で笑って、椅子から立ち上がった。ふたりに背を向けて、蝶のようにひらひらと後ろ手を振る。


「ぼく、先にシャワー浴びてくるね。終わったら手伝うから」


 そう言って、シャワールームの方に消えていった。夏日が、彼が閉じた風呂場の扉を呆然と見ている。紅く染まった頬。深雪は歯をかみしめて、溜息をついた。



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