深雪の喪失
深雪はその時、廊下にいた。あとで手伝うから先にやっていてほしいと雨音に頼まれて、父親からの荷物を整理していた。
段ボールの中身を確認しながら父親の部屋から廊下に出して、積み上げる。一通り積み上げたところで、いつまで経っても手伝いに来ない雨音に声をかけようと思った。
これからさらにリビングの奥の玄関前に運んで、それから不用品を買い取る業者に連絡をして……とにかく、ひとりでは大変な作業だ。今やる必要はない作業だったのに、いきなり今日やるなんて言い出した雨音が深雪ひとりにやらせて自分は手伝わないなんていうのは不公平である。
家の一番奥にある父親の部屋から伸びる短い廊下を歩いて、縞模様の凹凸が彫られた擦りガラスが張られた扉に近づく。擦りガラスの加工のせいで、扉の奥の世界は滲んで見える。
深雪の視界にぼんやりと存在するのは、ガラスの向こう――リビングに置かれた、テーブルと椅子。深雪に背を向けて、華奢な雨音とは違う、見慣れた広い背中が座っているのが見えた。夏日が来ている。部屋の中で深雪が段ボールと戦っている間に来ていたようだ。今日は来るはずの予定ではなかったけれど、夏日はいつも突然理由もなくやってくるので、今日もきっとそんな感じだろう。
「雨音」
扉越しに、くぐもった夏日の声が聞こえる。何やら真剣なトーンだ。雨音は夏日に対して妙に攻撃的だし、いくら相手が雨音といえど、夏日も結構短気なところがある。めったにないことではあるけれど、喧嘩でもしたのかもしれない。いざという時には仲裁できるように、しかし邪魔をしないようにそっと息を殺して、ゆっくりと扉を開ける。
「雨音、好きだ」
深雪とリビングを阻む扉がなくなって、夏日の低い声は、深雪の薄い耳に鮮明に届いた。昨日、自分も同じ言葉を彼の口から聞いた。聞かずとも、彼の雨音に対する気持ちは知っている。けれど、実際に夏日が雨音に対してその言葉を口にしているのを聞いて、深雪は雷にでも打たれたようだった。静かに背筋が硬直して、息が止まる。動悸がする。雨音の答えはわかっている。けれど、動悸が止まらない。胸を鋭い刃先でえぐられているような気分だった。
夏日の背中越しに、雨音の頭が揺れた。光をはらむと赤銅色に染まる、色素の薄い髪。深雪と同じ色の髪が、左右に振られて頼りなさげに空気をかき混ぜた。
「無理。ぼくはおまえが嫌いだ」
雨音が小さなガラスの粒みたいに軽やかな声で言ったのは、深雪の想像通りの答えだった。深雪は背筋の硬直を解いて、居心地悪げに身じろぎをする。夏日はこちらに気づいたそぶりもなく、わずかの間、頭を垂れた。
雨音の頭が、もう一度揺れる。うつむく夏日の肩越しに、雨音の紅茶色の瞳と目が合った。雨音の目が、歪む。それは、いびつな笑顔の形だった。不意に頭を起こした夏日の黒い頭が遮って、深雪の視界から雨音が消える。
「ぎゃはは! 知ってた! 嫌いなのに仲良くしてくれてありがとなー!」
夏日の背中が、大げさに揺れる。深雪からは表情は見えないけれど、彼が今、どんな表情をしているのか、深雪には簡単に想像が付いた。それに、どんな気持ちでいるのかも。きっと、今の深雪と同じ気持ちだろう。
「キモい」
「うるせー」
いつものように軽口を叩き始めたふたりを尻目に、深雪は静かに、廊下の方へと後退した。扉を閉める。そっと廊下の壁にもたれて、クリーム色の板が張られた床に尻をつく。うつむいて、グレーのスラックスから生えた白い靴下をぼんやりと視界に入れる。ドア越しのくぐもった会話は、まだ聞こえてくる。
「それにぼく、好きな人がいる」
「知ってるよ。バイト先の店長だろ?」
「夏日おまえ、深雪にしとけばよかったのにな」
雨音がいつもの調子で、夏日をあおる。ああ、動悸がする。聞きたくない。けれど全身を揺らす拍動のせいで動けない。深雪は天を仰いで、喘鳴のように浅い呼吸を繰り返す。
「しとくって何? ケンカ売ってんの? おれは深雪じゃダメなんだよ。おまえがいーの!」
地面が揺れているのか、自分の拍動が激しいだけなのか、だんだんとわからなくなってきた。夏日の声が、深雪の拍動をさらに強める。
「深雪は深雪で、おまえの代わりじゃない。あいつはおれの大事な友達だよ」
くぐもって聞こえる夏日の声が、静かに、深雪の脳を深くえぐる。
夏日の意見は至極まっとうなものである。深雪と雨音は別々の存在で、互いの代わりにはなり得ない。けれど、深雪にとっては、そうであってほしくなかった。深雪は、雨音の代わりになりたかった。
雨音と深雪は、同じ容姿に生まれた双子のきょうだい。雨音の方がひねくれているし深雪の方がぼんやりとしているけれど、性格だってよく似ている。深雪が思いを寄せている夏日は、いつも、雨音のことだけを見ている。雨音と深雪はほとんど同じようなものなのに、いつも夏日が見ているのは、雨音だけ。友達として自分のことは大切にしてくれているけれど、それは深雪が望むものとは違うものなのだ。
「嘘だろ。あいつにぼくを重ねて見てるくせに」
吐き捨てるような雨音の声。深雪は雨音になりたかった。
「それは……しょうがないだろ。おんなじ顔してんだもん」
狼狽をはらんで揺れる、夏日の声。
深雪は雨音を羨んでいる。雨音の代わりとしてでもいい。夏日の視線を、自分に向けて欲しかった。深雪自身も、できれば見て欲しいけれど、それを捨ててでも、深雪は夏日が欲しかった。けれどそれは、叶わないのだ。深雪が深雪でいる限り。
廊下の陰で静かに恋心をぼろぼろにされた次の日、名前も知らない誰かと、深雪は初めてのキスをした。
まるで自分がこの世界に存在することを許されていないような気がして、誰にも求められないような気がして、苦しかった。その苦しみを拭うのに必要だったのは、誰かの心でもなく、言葉でもない。柔らかい肌と、体温。それに触れている一時だけは自分の存在を肯定されているような気がして、心の重さが和らいだ。けれどそれも、一時だけのこと。すべて終わった後の深雪はまた、冷たい水の中に逆戻り。あとに残ったのは、背中を走る線状の傷の痛みと、罪悪感。この行為が深雪にとって自傷と何ら変わりのないことであることもわかっている。それでも深雪は、名前も知らない誰かの皮膚を求めて彷徨うのだ。




