僕だったはずなのに
夜間の外出を夏日に咎められてから、二週間ほどが経った。あれから夏日は、いつもの通りに夕食を食べにくる。
あのことに関しては禁忌のように、互いに触れずに過ごしている。お互いに少し開いた距離も、すこしずつ元の通りに縮まってきた。
日が落ち始めた夕方。蝉はまだ鳴いているが、昼間の耳が壊れそうなけたたましさよりは落ち着いており、もう少ししたら静かになりそうな気配だった。蝉の鳴き声と比例して、夕方になるにつれ気温も落ち着いてきた。
火気のそばで換気も良く、冷房の効きにくい台所でも過ごしやすい時間帯。キッチンに立って、深雪はまな板の上でにんじんを切っている。小さめの乱切りにして、ボウルの中に入れていく。今夜は夏日のリクエストでカレーだ。カレーは一度作ると結構持つので、雨音も深雪も数日楽ができる。にんじんを一本分切り終えたところで、深雪は溜息をつきながら振り返った。
「ねえ夏日、じっと見られてると集中できないんだけど」
深雪が料理の支度を始めた時から、なぜだかずっと、夏日が後ろに立って深雪の作業を観察しているのだ。いつもは興味なんかまったく示さないのに。何をするのにも後ろにいられると、動線の妨げになって結構邪魔くさい。いちいちよけたりどいてもらったりしなければならないのだ。深雪に不機嫌な視線で刺されて、夏日はふわりと頭を振った。拗ねたような表情で、唇を尖らせる。
「おれにさ、料理教えてくんねー?」
夏日の言葉に、深雪は目を丸くして、高い声を上げた。
「えっ、いいけど、なんで?」
「だってほら、いつまでもおまえらに甘えてるわけにはいかねーだろ」
「べつに」「おれがよくないの!」
深雪の声を遮って、夏日が声を荒げた。深雪は再びきょとんとした顔をして、頷いた。目を丸くしたまま細長い指先でシンクを指差す。
「じゃあ手洗って」
「おー」
夏日は素直に手を洗って、足元に掛けられているタオルで手を拭いた。
深雪から明け渡された包丁を握って、皮を剥かれてまな板に置いてあったにんじんと向き合う夏日。気合でも入れるようにふぅっと息を吐く。
「夏日」
深雪の声が、夏日を止めた。夏日は「いまから人を刺し殺す」ような手つきで包丁の柄を力いっぱいに握りこんでいる。これは包丁を握る手付きからみっちりと仕込まないといけない。高校の授業で調理実習もあったはずだけれど、包丁を握るのは大抵しっかりした性格の生徒が担うので、彼にその機会はなかったのかもしれない。夏日がまな板に置いた包丁を手に取って、実際ににんじんを切って見せる。
「持ち方はこう。左手の指は猫の手。じゃないと切るよ」
夏日は頷いて、再び包丁を手に取る。
「軽く押して、引くときに切るイメージで。力は入れないで。……あっにんじんでかくない? 一口サイズにしようよ」
「おれの一口はこのサイズなの!」
「それはそうかも……」
自信満々にもっとらしく言われて、深雪は思わず引いてしまう。彼は身体も口も大きければ、一口のサイズも大きいのだ。
「だろ? これでいーの」
にっと歯を見せて笑いながらにんじんの特大乱切りを量産し始めた夏日。深雪は自分の過ちに気がついて、丸め込まれそうになった自分に呆れて首を振る。
「ごりごりのにんじん食べるの嫌だろ。圧力鍋出そうか」
ゆっくりと細く息を吐きながら言うと、夏日が怪訝な目をこちらに向けてきた。深雪は思わず、首を傾げて返した。
「圧力鍋って怖ぇよな。蓋が天井に刺さってる写真見たことあんだけど」
こわごわと言ってくる夏日が妙にかわいらしい。深雪は上下の睫毛を絡めて目を細めた。
「ちゃんと扱えば大丈夫だよ。教えるから」
「キャー、ミユキセンセー、ステキ!」
平らな胸の前で甘えるように手を組み合わせて、すとんとした腰回りをかわいくひねった夏日に、深雪は無言で冷たい視線を向ける。
それから、牛肉のサイズを「デカいほうが美味いから!」とかなんとか言いながらまたもやあまりにもな大きさに切ろうとする夏日ともめたりしながらなんとか具材を切り終え、圧力鍋の蓋を閉じた。
少し経って圧がかかり始めた鍋がしゅうしゅうと鳴くのを聴きながら、夏日が家から持ってきてくれたサイダーをグラスに注ぐ。
夏日は、まだごそごそと作業の残りをしていた深雪を差し置いて、早々に椅子に掛けていた。だらしなくテーブルに伏しながらスマートフォンをいじっている夏日を見て、深雪はため息をつく。料理を教えるのなら、調理器具の片付けも教えておかないといけない。
炭酸の粒が光を浴びてきらきらと光る、透明なグラス。ぱちぱちと柔らかい音をたてているそれを夏日に差し出すと、夏日はテーブルから起き上がって深雪に向き直った。
「サンキュ」
「おー」
グラスを受け取った夏日がグラスに口をつけると、グラスの中で傾いた氷がからからと甘い音を立てた。
夏日の隣の椅子に掛けて、深雪もグラスを傾ける。水面で弾けた炭酸の泡から跳ねた甘い水が、顔を濡らしてすぐさま体温で蒸発して消えていく。
「ねえ」
おもむろに口を開く。「おー」
「なんで雨音のこと好きになったの?」
ンギュ! 隣でグラスを呷っていた夏日の喉が、盛大に鳴った。嚥下して空になったグラスを乱暴に置いた彼の暴れる瞳と、目が合う。
「はあっ!? 別に、なんでもいいだろ。教えてやんねー」
しどろもどろになりながら夏日がうろたえる様があまりにも面白くて、深雪は音を殺して喉を揺らした。
「恥ずかしい理由なの?」
「ちげーよ。ていうか、なんで急にそんなこと訊くんだよ」
「だって、ぼく、おまえのこと」
深雪は“雨音”の声で、彼が深雪に向けるような目つきで、夏日を捉えた。夏日の黒目が、揺れる。
深雪は雨音の顔をしながら、目を細めた。夏日のざらざらとした感触の頬に、手を添える。まだ成長期のせいかあまり生え揃っていない、今朝剃って少しだけ伸びている髭の感触を指先で味わいながら、首筋に指先を這わせる。夏日は小さく、身じろぎをした。彼の視線が、狼狽するように揺れてから、従順な様子で下を向く。からん。飲み干したグラスの氷が、グラスの中で転んで甘く軽やかな音をたてる。夏日の鎖骨に手を触れた。息を呑んでこちらを見据える夏日に、深雪は雨音の顔をして妖艶に微笑んだ。夏日の虹彩が、再び揺れた。
「親友だって、思ってるから」
からからと笑って、急に笑い出した自分に向けて呆けた表情を作った夏日の鼻をつまんでやると、我に返った彼は眉間を寄せた。
「おまえ、おれをからかって――」
「からかってるんじゃないよ。雨音のマネしたのはそうだけど」
「こんにゃろ」
大きな手で頭を小突かれて、深雪は「いて」と頭を抑えて表情を緩めた。夏日を目を合わせると、彼はむすっとした表情を作ってこちらを睨んできた。本気ではないようで、あまり迫力はない。
「だって雨音、いいやつだけど、おまえには冷たいだろ。なのになんで好きになったのかなって」
「……」
夏日はしばらく黙した。深雪も何も言わなかった。からから、しゅわ。深雪が手遊びで回したグラスの中身が、水面近くで密やかにささめく。回したせいで半端に炭酸の抜けたそれを深雪が飲み干してテーブルに置く。ことん、からん。その音に弾かれるように、夏日が薄い唇を開いた。
「――まだ父さんが生きてた頃さ、おれ、習い事で水泳やってたろ」
夏日の父は深雪たちが中学生になる前の年に、通勤中の事故で亡くなっている。ユリネと同様に深雪たちを自分の子供のようにかわいがってくれており、深雪も彼のことを実の父親のように思っていた。彼は夏日の教育に対して熱心で、夏日が興味を持ったスポーツや勉強などの習い事にいろいろと通わせていた。
しかし当の夏日がすぐに飽きるので、その習い事はころころと変わっていたのだが、水泳だけは性に合っていたようだ。他の習い事はもっても一年くらいの印象だったが、水泳だけは数年続いていたのを覚えている。
「そんで、スランプってやつであんまりうまくいかなくなって、努力もできなくて悩んでたんだよ」
深雪もそれはよく覚えている。空になったグラスを手に取り、手遊びでくるくると回して音を立てた。からからから……
「そんときに雨音、やめちまえって。努力できないならそんなに好きじゃないんだろって」
からん。深雪のグラスを回す手が止まる。深雪は目を見開いた。夏日に視線を送る。目は合わなかった。
「最初、なんてこと言うんだコイツって思ったけど」
夏日はテーブルの上の白いクロスをぼんやりと眺めながら、言葉の続きを吐いた。
「ムリに努力して嫌いになるくらいなら、好きでいられる距離でいなよって。
そんで、いいこと言うヤツだなって思って見てたら、いつの間にかさ」
「……」
沈黙。無言の深雪に夏日が怪訝な視線を送ると、狼狽して黒目をふわふわと泳がせていた深雪は、呆然とした顔つきでまっすぐに彼を見据えた。
「――それ、僕だ」
「……ウソだろ」
今度は夏日が狼狽して、目を泳がせた。
詰問するように、深雪が身を乗り出す。
「噓なんかつくか。それ、言ったのは僕だ――だっておまえ、あのとき、まだ僕たちのことたまに間違えてたろ」
夏日の言う件の発言をした時のことを、深雪はよく覚えている。あれは、夏日に対しての恋心を自覚した後で、悩んでいる様子の彼を救ってあげたいと思って言った言葉だから。あのときは確か雨が降っていて、まだ『男勝りな女の子』として放課後に男子と遊んでから帰っていた雨音も、雨のせいで遊び相手がみんな帰ってしまったから、三人で帰ったはずだった。それで夏日は深雪と雨音を間違えたのだろう。
「ウソだろ……」
もう一度そう言って、夏日はそれから黙ってしまった。うつむいて深い息を吐く彼に、深雪は何も言わなかった。彼と同じようにうなだれて、同じように深く息を吐く。目を閉じた。
圧力鍋の鳴き声だけが響く部屋で、深雪は呆然と考えていた。あの日、夏日が深雪と雨音を間違えなければ……あのとき雨音がいなければ……深雪が女の体に生まれていれば――
ああ、この恋は深海みたいだ。暗くて、底が見えないくらい深くて、肺が潰れそうなくらい苦しくて、不気味な生物が棲みついている。海底に沸き立つマグマみたいにぐらぐら揺れるこの気持ちのやり場はどこにもなく、そのそばでは、誰も見たことのないような生き物が静かにうごめいている。




