告白
ソファを借りて少しだけ仮眠を取って、空が白み始めた頃に深雪はユキの家を出た。電車に乗って、それからしばらく自転車を漕いで、玄関の前に立つ。ドアの隙間からはうっすらとした灯りがこぼれていて、その中で雨音が起きている事を示している。鍵を開けて、ドアノブをひねる。
開いた扉の隙間からこぼれた室内の照度が、深雪の浅い色の眼を焼く。
重たい足取りでクリーム色の床を踏んで、リビングと廊下を繋ぐドアを開けた。淹れたてのコーヒーの匂いが鼻腔いっぱいに広がって、ふわっと心が緩んで反射的に目を細める。
「おかえり、深雪」
「ただいま」
リビングの真ん中に置かれた四人掛けのテーブル。その奥に座っていた雨音が目を細めるのに手を上げて返す。
雨音の顔を見たい気分ではなかった。けれどいつも、雨音は深雪を待っている。チョコレートを一欠片溶かしたミルクコーヒーと一緒に、リビングに置かれた椅子に座って。
深雪が手を洗って雨音の向かい側に腰を下ろすと、コーヒーを一口飲んだ雨音がぽつりと溢した。
「寝そう……」
「少し寝たら? 学校行く前に起こすよ」
手元に用意されていたコーヒーカップを手に取る。すっかりと外気温に染まって熱帯夜みたいにぬるくなったカップの温度を指先で確かめる。深雪にとってはもうぬるいけれど、これは猫舌の雨音には適温だろう。
視界の端で雨音の茶色い頭が動いたので、深雪の視線は自然とそちらに吸い寄せられた。
「うーん、頑張る……」
「授業中寝ても知らないぞ」
苦い声で雨音を小突くと彼はこくりと顎を上下させて、コーヒーカップに口をつけた。
「昨日はぼくの部屋、鍵かかってなかったよ」
コーヒーカップのふちを唇で挟んだまま、雨音がくぐもった声を上げる。
深雪は無言で頷いた。雨音の部屋の鍵は、基本的にはいつも開いているのだ。確かめることはしなかったけれど、きっと昨日も開いているのだろうとは思っていた。
「ぼくじゃダメだったの?」
雨音の声。静かで、柔らかくて、しかし鋭く深雪を突き刺すような、そんな声色。深雪は俯いて、首を左右に振った。
沈黙。深雪がコーヒーを一口飲む。甘いチョコレートの香り。心が緩むような、温かい香り。
雨音が空になったコーヒーカップをテーブルに置く。天板から響いたごく小さな音が、深雪の耳にはいやに大きく響いた。飲み口からカップに垂れたコーヒーが、白いテーブルクロスに染みて小さなドットを描く。
深雪が、カップをテーブルに置く。明度の低いベージュ色の中身が波立って、やがて落ち着く。カップの水面が凪いだのを見届けてから、深雪は静かに、声を放った。
「雨音」
雨音のブランデー色の目が、深雪の手元から深雪の目元へと移る。
こちらをまっすぐに見据える瞳から視線を外して、深雪は俯く。喉のもっと手前で、言葉が絡まって出てこない。テーブルに身を乗り出して、雨音の細い肩を両手で捕まえた。
「ねえ、雨音。僕と代わってよ。僕のために、深雪になってよ」
言ってしまった。振り払おうとした悪魔の囁きを、自ら口に出してしまった。ユキの顔が脳裏をよぎって消える。掴んだ雨音の両肩を引き寄せて、額がつくほどの距離で、雨音の目を見た。勢いのまま、深雪は言葉を続ける。
「ふたりで世界をずっと騙せば、僕たちは、本当の自分になれると思わない?」
今まで無感情にこちらを見ていた雨音の目つきが、変わった。強い力で手を解かれる。それが雨音の答えだった。
「おまえはずるいよ。今まで何も奪われずに生きて、その上ぼくから雨音まで奪うの?」
雨音の静かな声が、深雪の耳朶を叩く。深雪の肩を押した雨音は、深雪から距離を取るように椅子を少し引いた。深雪の紅茶色の目に向けられた雨音の赤銅色の瞳は笑顔の形に歪められていて、その奥で怒りに似た感情が燃えているのを深雪は見た。雨音の薄い唇が開かれる。
「それに、言ったろ。ぼくが死んだらおまえに雨音をあげるって。ぼくが生きてるうちは、おまえにいい思いなんか絶対にさせてやんないからな」
深雪の脳裏に、再びユキの顔が浮かぶ。
『君は間違えちゃダメだよ。俺みたいになって、後悔しないで』
彼の声が脳内で反響する。深雪はうつむいて、カップの中で静まり返ったコーヒーの水面を見つめる。
「……ごめん」
小さい声で言うと、対面で雨音がはっと鋭い息を吐いた。
「なあおまえ、引くの早くない? そんなにあっさり引くくらいなら言うなよ」
深雪を嘲るように放たれた、雨音の声。深雪は鋭い視線を雨音に向けた。
「うるさいな! おまえがいやだって言うんだったらしょうがないだろ! おまえの協力がいることなんだから!」
瞬間的に沸き立つ気持ちに任せて思わず声を荒げてから、はっとした深雪は口を閉じた。
雨音は深雪の置いたカップを手に取って、中身に口をつける。先ほど自分が置いた空のカップの横にそれを置く。深く息を吐いた。カップを深雪の手元に押しやる。深雪はそれを奪い取るようにして手に取って、中身を飲み干す。雨音がこちらに向ける視線は、感情を押し隠すような平坦な物だった。
「本当に夏日がほしいなら、ぼくを踏みにじってでも手に入れなよ。ぼくの同意なんかいらないだろ」
深雪が視線をテーブルクロスの上に這わせる。
「僕は、おまえのことも大事だよ。だから、おまえが嫌なら――」
深雪の言葉を、雨音の熱い声が遮った。
「どっちも手放したくないって? そんなヌルい覚悟のヤツに何ができるんだよ。どちらか選べよ。ぼくか夏日か」
激しく詰められた深雪は言葉をなくして、うつむいた。雨音の細い指先が伸びてきて、深雪の顎先を捕まえる。雨音の指が食い込んで、深雪の頬が無様にひしゃげる。無理やり頭を動かされて、深雪の視界は雨音を捉えた。
「なあ、深雪」
雨音の声が、耳朶に響く。先ほどの熱量とは打って変わって、甘えるような、柔らかくて暖かい声。深雪が雨音の手首を掴んだ。
「ぼくは、おまえを踏みにじって、本当にほしいものを手に入れたよ」
自らの顔から離れた雨音の手を、深雪が引く。こちらを見ている彼の顔を見つめ返すと、細められた目の奥で、雨音の透き通るような色の虹彩と目が合った。
「……何を?」
深雪に雨音は笑い声を返してから、深雪の手を振りほどいて口を開く。
「なあ、深雪。おまえ、自分の身体に違和感持ったことないの?」
「違和感なんかないよ。僕の心は身体と同じ男だ」
「ふーん」
雨音の言葉が理解できず首を振る深雪を嗤うように、雨音が吐息を返した。言葉を続ける。
「ぼくさ、おまえにずっと、少しずつ毒を盛ってたんだ」
彼の口から放たれたのは、深雪の予想の外にあった単語。深雪は思わず首を傾げて、高い声を上げた。
「毒……? 僕、元気で生きてるけど?」
「死なない毒だってあるんだよ」
吐き捨てるように言って、雨音は柔らかく喉を揺らす。深雪は眉を寄せた。
「なんの毒だよ。お腹壊す毒?」
「男じゃなくなる毒だよ」
深雪には、雨音の言っている事の意味が理解できなかった。無言で半眼を向けると、雨音はいびつな笑顔を深める。
「おまえ、本当にバカだよな。自分の身体がいつまで経っても男らしくなんないのも、ヒゲも生えないのも、なんにも違和感持たないんだもんな」
確信に触れようとせず、ふわふわとした発言を重ねる雨音に、深雪は苛立ちを隠せずに声を荒げた。
「何言ってんの、おまえ。ふざけてるの?」
「ふざけてないよ」
雨音の表情から、笑顔が消えた。据わった目で深雪を捉えて、それからうつむく。わずかの間、沈黙。懺悔するように、テーブルの上で手を組み合わせて、深い息と共に声を吐き出す。
「ホルモン剤ってあるだろ。それをおまえに飲ませてたんだよ。中学生のときから。
料理に混ぜて食わせてたんだ。餃子とか、ハンバーグとか、ヒカリさんのシロップにも入れてた。胸が出てこないように、おまえの体のバランス見ながら少しづつね」
雨音の懺悔に、深雪はしばし黙した。雨音の言っている事の意味が、理解できなかった。否、理解したくなかった。
自分の身体が女性的な変化を遂げているなんて、深雪は夢にも思わなかった。自分の身体の微細な変化には気付きにくいものだ。それに、自分の身体を正常に発育した男の身体と比べたこともないのだ。確かに雨音との体格の差はあまりないが、それに関しても、髭が生えないのも個人差の範囲だと思っていた。事実として、男女の見分けが付きにくい男性は世に何人もいて、深雪も実際に見かけたことがある。だから、自分もそうなのだと思っていた。雨音はそれを利用して、自分をからかっているのか? しかし彼の暗く沈んだ表情は、それを事実だと言っているように見える。
長い沈黙の末、深雪はようやく、唾棄するように息を投げた。
「嘘だろ。そんな薬、中学生が手に入れられるわけないだろ」
「病院でもらえない場合は海外から個人輸入するんだけどさ、いるだろう。海外にいてよく荷物を送ってくる知り合いが」
深雪は何も言わなかった。父親だ。女の雨音がなんと言って父親からホルモン剤をもらっているのかはわからないが、確かに、その入所経路なら薬も簡単に手に入るだろう。
雨音の声が、咽ぶように上ずった。感情に酔うように蕩ける声。
「おまえ、ぼくが許せないだろう? おまえもぼくを、踏み台にしろ。殺して奪え。ぼくはおまえの敵だ」
深雪は雨音に、平坦な視線を向けた。それからその視線をテーブルの上に先ほど雨音が作ったシミに向けて、息を吐く。
「べつにいいよ」
「はあ?」
雨音が、頓狂な声を上げた。今までの強気な勢いが急に削げて、それがなんだかおかしくて深雪は思わず声を震わせた。
「薬、今度からご飯に混ぜずに僕にくれよ。飲むから。おまえのおいしいご飯が食べたいよ」
「何言ってんの?」
「薬を飲むからくれって」
「そういうことじゃない」
雨音が頭を振った。深雪はそれに、静かな声を返す。
「僕はおまえになりたいんだ。これを飲んでおまえに近づけるなら、それでいいよ。それで、いつかおまえがいいって思ったら、僕に“雨音”をちょうだい」
晴れやかな笑顔を浮かべながら深雪が言うと、雨音は、しばらく黙した。深雪の返答の訳のわからなさに、『コイツは何を言っているんだ?』とでも言いたげな顔をして、視線を天井の方に向けている。しばらくそうして、最後に天井を舐めるように視線を左右に動かしてから、深雪の方に視線を戻した。
「おまえ、イカれてるよ」
「おまえもいかれてるよ」
言い合ってから、ふたりでしばらく笑った。
深雪がおかわりのコーヒーを淹れている間に雨音は自室へ戻って、深雪に接種させていたホルモン剤を持ってきた。深雪はそれをコーヒーで飲んで、雨音と一緒に身支度を整えて、学校に行くために家を出た。




