あやまちの誘い
駅前で出会ったユキと名乗る女性になかば無理矢理連れて行かれたのは、小さな三階建てのアパートの一室。暗い色味の家具で統一された室内は、深雪が入ったことのある女性たちの部屋とは違った雰囲気を持っていた。ダークブルーのソファに座らされて居心地悪げに視線を揺らす深雪に、彼女は浅い色のお茶が入ったグラスを手渡して言った。
「お腹空いてない?」
「大丈夫、ありがとう」
首を横に振って、深雪はお茶に口をつけた。ブレンド茶だ。なんだかいろんな種類の香ばしい匂いがする。半分くらい飲んで、ガラスのコップを焦げ茶色のローテーブルに置く。ガラスの底が小気味のいい音をたてて、中身のお茶が波打った。
「帰りたくなったらいつでも帰りなよ。あと、学校通ってんなら遅刻せず行きなね」
深雪の隣に、ユキがそっと腰を下ろした。ソファが沈むのにつられて揺れた深雪の肩に、彼女の尖った肩先が触れる。そっと尻を浮かせて彼女の身体から距離を取りながら、深雪は顎を引く。
「……うん。朝になる前には帰るよ」
再び腰を落ち着けた深雪に向けて、ユキがいたずらっぽく歯を見せた。
「素直だねえ、君。君がわたしを襲うようには見えないけど」
そう言ってあははと笑う彼女。夏日を思わせる無邪気な笑顔を浮かべる彼女に悪い心が芽生えた深雪は、彼女の薄い肩口に頭を滑り込ませた。触れ合う頬。薄い耳たぶに向けて、低い声で囁く。
「本当に? 他人をあんまり信用しちゃだめだよ」
彼女の肩に手を回す。着衣と薄い皮膚の下に、硬い骨の感触がある。背中を一撫でして離れようとしたところで強い力で突き飛ばされて、深雪は柔らかいソファの背に腰を打った。立ち上がった彼女は刹那の間深雪の丸い瞳と見つめあって、それからはっとしたように身体を揺らした。
「あっごめん」
まるで反射のように謝って、ユキはソファに座り直す。彼女の身体が先ほどと変わらないような距離感で隣に来たので、罪悪感に刺された深雪はソファの端に寄って座り直した。
「いや、ごめんなさい。からかった僕が悪いです」
「……」
ユキは小さく頷いて、しばしの間、沈黙した。
それから、乾いた声をダークブルーの布地の上に落とす。
「わたし、本当は男なんだ」
「え……?」
目を丸くして息を漏らした深雪に畳み掛けるように、ユキが言葉を次ぐ。
「声は作ってる。元々高かったから、あんまり違和感ないでしょ」
そう言って自嘲でもするように笑いながら、彼女はソファの前にあるテレビの方へ行くとテレビ台の扉を開けた。中には数冊の本が並んでいる。その中から青い表紙のアルバムを取り出すと、深雪に手渡して隣に座った。ソファが揺れて、深雪の体が沈んで戻る。
「写真見て」
深雪は頷いて、「ユキ 6歳〜18歳」と書いてあるアルバムの表紙をめくる。光沢のある紙に印刷された写真には、「入学式」と書かれた立て看板と母親の横に立つ、大きな紺色のランドセルを背負った男の子が写っている。
「これ、俺。男なの」
深雪は何も答えずに、一枚、一枚とページをめくる。
修学旅行の写真だろうか。豪勢な料理が並んだ大きなテーブルについた少年たちが、体を寄せてピースサインをしている写真があった。ページをめくろうとする深雪の手を押さえて止めて、その中のひとりを指さして彼女が言った。
「俺、この子が好きでさ。中学校、別になっちゃってずっと会ってなかったんだけど忘れられなくて」
言葉を切る。深雪がユキの目を見ると、その目は笑顔の形に歪められた。
「ずっと忘れられないままひとりで生きてくんだろなーって思ってたんだけど、同じ大学に通ってるの見かけちゃって。
向こうは多分、気づいてなかった。それで俺、どうしてもあの人の恋人になりたくて、女になったんだ」
彼女の言葉を受けて、深雪の眼の奥で光がちかちかと瞬く。深雪は雨音にはなれないけれど、雨音とよく似た、女の形をした何かにはなれるのだ。雨音にはなれない。勝てない。けれど、夏日を騙すことができれば、深雪は本当に欲しかったものを、手に入れることができるのではないだろうか。雷に打たれたように、深雪の胸の中が激しく明滅して、体内を灼いていくかのようだった。
――動悸がする。これはよくない考えだ。しかしこれは、悪魔の誘いのようだった。まるでそれは、知恵の実のようだった。手にしてはいけない希望は甘い香りを放って深雪を誘っているようで、しかしそれを手にした後には破滅が待っている。ひとたび手にしてしまえば深雪の楽園は壊れて、夏日は一生、深雪の手前にいる雨音だけを見続ける。夏日の中から、深雪は永遠に消えてしまうのだ。
激しく焦げ付く深雪の内心を突き刺すように、ユキが小さな声を吐いた。
「でもさ、その人、もう彼女がいたんだ。今度結婚するんだって。バカだよねー、俺。いっときの気の迷いのせいで、男でも女でもなくなっちゃった」
グレーのインクで柄が描かれたコンタクトレンズ越しに、ユキの黒い瞳が嗤った。
「結局さ、女になったからって、好きになってもらえるわけじゃないんだよ。それに、俺はあの人を騙そうとしてた。俺はあの人にこだわるんじゃなくて、男の俺を好きになってくれる人を探すべきだったんだよ」
ユキの目は深雪の紅い瞳から外れて、深雪の手の上で開かれたままのアルバムに落とされた。笑顔のユキと、そこから少し離れた位置であどけなく笑う少年。ユキの想い人。深雪の華奢な指先からアルバムを取り出して、閉じる。ソファーを軋ませながら床に降り立って、彼は深雪を振り返った。
「変な話してごめんね。俺が言いたかったのは、男だから、襲ったら後悔するよって話」
深雪はしばらく、黙した。ユキがアルバムをテレビ台の下にしまって戻ってくる。彼が隣に座って、ソファーが軋む。その音に弾かれるようにして、深雪が干からびた口を開いた。
「そのままのユキさんを、好きになってくれる人に会えるといいですね」
「会えるかなー。ハードル高すぎない? 会えたらいいな」
あはは、とユキは乾いた声で笑う。深雪はうつむいて、焦げ茶色の板が張られた床に向けて小さな声を投げ捨てた。
「……僕、さっき、ユキさんに嘘ついた。本当は僕、好きな男の人がいるんだ」
ユキは何も言わなかったけれど、その代わりに大きな瞳を丸くして、うつむく深雪の色素の薄い頭頂部に目を向ける。
それから深雪は、小さな声で滔々と彼に話した。深雪は夏日が好きなこと。夏日は雨音が好きなこと。姿かたちがまるで一緒のふたりなのに、夏日は自分のことなんかまるで眼中にないこと。雨音は夏日のことが嫌いで、だから夏日は一生雨音のことを想い続けて、深雪は一生、夏日のことを想い続けること……
深雪がすべてを語り終えると、ユキは深く、息を吐いた。ソファの背に背中を預けて、天井を仰ぐ。
「うーん。ごめん、俺喋るの下手だからさ、なんて言ったらいいかわかんないや。でも俺たち、ちょっとだけ似てるね」
そう言ってから、ユキの女性にしては骨ばった手が、深雪の細い肩を捕まえた。ユキが深雪より少し高い位置にある顔を下げて、まっすぐに、深雪の目を見つめて言った。
「ミユキくん、君は間違えちゃダメだよ。俺みたいになって、後悔しないで。しんどくなったらいつでも来ていいからさ。夜遊びも辞めなよ」
深雪は首の骨をぎこちなく軋ませながら、顎を引いてそれに返した。




