将来の話
不意にセットしたタイマーがけたたましく鳴り響いたのに弾かれて、深雪は椅子から立ち上がった。夏日に声をかけて調理の続きを促すべきなのだが、今のタイミングではどうにも声をかけづらく、夏日も黙ったまま何も言わなかったので深雪は一人でタイマーの元へと向かう。気まずい空気から物理的に離れられて、深雪は内心少しほっとしている。
しゅうしゅうと落ち着いた様子で煙を吐き出す圧力鍋からは、煮えた肉と野菜のいい匂いがする。
そっと深雪が目を細めたところで、がちゃがちゃ、かちゃん、とたとたとた……玄関から、不意に音が湧き上がってきた。
音に気がついた夏日とふたりしてドアの方を向くと、バイトの制服を着込んだ雨音が現れた。空気を嗅ぐ犬みたいな仕草で目を細めて、夕餉の匂いを嗅ぎながら歩いてくる。
「雨音おかえり。早いね」
「ただいま。シフト間違えちゃったんだ。ヒカリさんの雑用だけ手伝って帰ってきた」
「そうなの? カレー、もうちょっとかかるからシャワー浴びてきたら?」
「ありがとう。任せた」
虫でも払うように手をひらひらと振って、雨音は風呂場の方に消えた。
深雪が皿に盛ったカレーを食卓に並べる頃には、夏日との気まずさも和らいだ。夏日も同じように思ったのか、飲み水の準備を手伝いながら「腹減ったー」と間抜けな声で呻いたり、雨音を待つ間にお預けをくらった犬みたいな顔で食卓のカレーを眺めたりしている。
しばらくして、シャワーを浴びて部屋着に着替えた雨音が戻ってきた。
「先食べててよかったのに」
ぽつりと言って、席に着いた。
「腹減った! いただきます!」
夏日が凄まじい勢いでカレーをかき込み始めたのを見て、雨音と深雪は目を見合わせて笑う。それから、カレーを一口。
「んっ、今日の辛くない?」
雨音が顔をしかめた。
「ごめん、今日は全部辛口。買い間違えたみたい」
白浜家のカレーは、中辛のルゥ一箱分に、辛口のルゥを半分入れて作る。カレーの銘柄はいつも適当だけれど、この配合はユリネに教わって以来ずっと変わらない。けれど、今日は買い物袋を捌いたら、中辛と辛口で一箱ずつ買ったはずのルゥが、両方とも辛口だったのだ。なんとなく銘柄の違うものを買ったので、間違えて買ってしまったようだ。
「はちみつ入れていい?」
「いいよ」
「おこちゃま舌」
「夏日うるさい」
雨音は夏日に半眼を向けてから、キッチンカウンターの方からはちみつを持ってきた。カレーにひとまわしかけて、軽く混ぜてから一口。表情が変わる。美味しかったらしい。
雨音がテーブルに置いたはちみつを取って、深雪もカレーに掛ける。夏日の方に目を向けると、夏日と目が合ったのでそれを手渡す。夏日に冷たい目を送った雨音が、カレーを咀嚼している深雪の方へと視線を移した。
「深雪、もう行きたいとこ決まったの?」
深雪は一瞬、雨音がなんの話をしているのかわからなかった。黒目を上に向けて、束の間黙考。言葉の意味を理解して、顎を引いた。
「ああ、うん。一番近い美大にしようかなって」
「ふーん。じゃあまだここに住むの?」
他人事のようにそう言う雨音に深雪は首を傾げながら頷いて返す。
「うん。なんで?」
「いや、ぼくは多分、家を出るからさ」
涼しい顔でそう言った雨音は、目を丸くしている深雪を捉えて笑った。雨音の対角線上には、深雪と同じ表情を浮かべている夏日がいる。
「ヒカリさん、今度新しい店舗作るんだって。それで、正社員になるならそっちに行かないかって」
手遊びでもするように皿の上のカレーをスプーンで混ぜて、皿の中に生まれたぬかるみに視線を向けたまま、雨音が言葉を続ける。
「ここから遠いから、そっちの近くに住もうかなって」
言い終えてから、雨音がカレーを口に入れる。
深雪はしばらくの間、黙した。
雨音が自分から離れてしまう。雨音が夏日の前から消えれば、夏日の雨音に対する思いが変質してしまうかもしれない。深雪は、夏日が自分と同じ容姿の雨音に執着心を持っていることに傷つきながらも、それをよりどころにして生きているのだ。雨音が遠くに行って、夏日が雨音を忘れてしまえば、深雪は心の行き場をなくしてしまう。一瞬のうちにそこまで考えて、深雪は自分のあまりにも身勝手な考えに気が付いてうつむいた。
「そっか……」
深雪がやっとの思いで絞りだした小さな声に、雨音がわずかに笑い声をはらんだ声を返す。
「寂しいの?」
「寂しいよ。僕のたったひとりの家族だもん」
深雪が雨音に返した言葉は、まごうことのない本心である。けれどその前に沸いた本心のせいで、雨音に嘘をついているような気持ちが心中に広がっていく。深雪はうつむいた顔を上げることができなかった。
「おれも寂しいぜ」
雨音は夏日に白い眼を向ける。夏日はばつが悪そうに、目を伏せた。
「深雪には夏日もユリネさんもいるじゃん」
そう言われて、深雪は思わず、夏日を見た。目が合うと、夏日の茶色い瞳が、ふわりとよそを向く。
「おれも近い大学通うから家にはいるけど、メシは自分で作ろうと思ってる。あとさ、母さん、再婚するんだって」
『えっ』
深雪と雨音が、同時に間抜けな声を上げた。
ふたりのリアクションの揃いように夏日はひひひ、と小さく笑って、子どものようにあどけない笑顔を引き締めてふたりを見た。
「母さん隠してたからおれ全然知らなかったんだけど、長く付き合ってるカレシがいるんだって。おれももう大学生で大人だし、あっちも持ち家で子どもがまだ小さいから、おれはこの家もらって、母さんはあっちの家に行くんだって。そのうちおまえたちにも話すって言ってた」
「そうなんだ」
ふたりして同じ動きで頷いて返す。夏日はそれを肯定するように顎を引いた。
「まあ、週末には顔出すとは言ってたけど」
「彼氏さんとは会ったの?」
深雪の問いに、夏日は首を左右に振った。
「まだ。来週会う」
「いい人だといいね」
首を傾けて言った深雪の言葉が終わらないうちに、雨音が声を差し込んだ。
「ユリネさんの選んだ人だからいい人だろ」
「だといーなー」
夏日が渋い顔をして、首が座っていない子どものようにぐわんぐわんと頭をを揺らす。
深雪は誰にも聞こえないように、心の中でため息をつく。春になれば、雨音は自分のもとを去り、夏日は自分から遠ざかる。そうすれば深雪は、ひとりきりになってしまうのだ。




